『Steins;Gate』

 1年以上放置してしまいました。その間に、90日以上何も書かないと広告が表示される仕様になっていて、それを消したいという理由もあって、久しぶりに記事をアップしようと思います。
 とはいえ、別の場所に上げた記事の再アップなのですが、まもなくアニメ版も放映されるということで、この機会にゲーム版『Steins;Gate』をプレイした感想をアップしようと思います。アニメ版を見る前に、ゲームをプレイしてほしいという願いも込めて。

Steins;Gate - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Steins;Gate

 大まかなストーリーに関してはウィキペディアを見るなりググるなりしていただきたい。
 Xbox版の評判を知ってプレイしてみたいと思っていたのだが、Xboxを持っていないので諦めていた。しかし、PCに移植されたので早速プレイしてみたのだが、評判に違わぬ面白さだった。
 キャラ画はクセがあるが、個人的には好き。誰も日本人に見えないという問題はあるが。
 声優が豪華。エロゲだとこうは行かない。
 分岐発生のためのシステムこそ少し変わっているが、それ以外は普通のノベルゲーム。だから、PC版でも特に不都合はないように思う。

 内容は、厨二病+オタクネタ+2ちゃん語+タイムマシン。
 本質は異なるものの、テイストはラノベの『AURA〜魔竜院光牙最後の闘い〜』に似ている。「厨二病」と言われてもピンと来ない人は、このラノベを読めば、いわゆる厨二病中二病)がどういうものか大体分かるだろう。
 同メーカーの『Chaos;HEAd』もそうだったが、2ちゃん語を使用した会話が非常に上手い。2ちゃん語は元々文章のためのもので発音することを考えて作られてはいない。つまり、2ちゃん語で会話するというのは、文語で会話しているようなものなのであるが、にもかかわらず、不自然でなく、いや、バリバリ不自然なのだが、発音するとしたらそうなるだろうなという(ある意味)自然な発音の仕方を声優がしていて、それが会話を読み進めるだけで面白さを感じる理由になっている。
 それは(主に主人公による)厨二病発言も同じなのだが、しかも、ストーリーが進むにしたがって、その厨二病語がそのまま痛切な響きを持つようになる。そして、それが最後には、凄まじく頼もしく思えるようになる。厨二病を恥ずかしく思う自意識の成立(厨二病からの卒業)をもって成長したとする人間観など、あくまで凡人の域での話。「狂気のマッドサイエンティスト鳳凰院凶真」はその域にはいない。そこにシビれる! あこがれるゥ! ――という気持ちになるのである。そして、最後の最後には、厨二病語が温かみに溢れた愛の言葉となる。そんなワケあるはずないと思う人には最後までプレイしていただくほかない。
 無意味な言葉や行動は無意味だからこそ純粋に個人的で、そうであるが故に特別な意味を持ち、特別な絆となる。なぜなら、無意味な言動は、既存の意味とは無関係に成立しているが故に、それらに依存していないからである。
 そして、無意味だと思えた厨二病的な能力「リーディング・シュタイナー」(主人公命名)も、誰もが多かれ少なかれ備えているものであるとされ、それが最終的には世界や運命をも超えた絆となる。
 何らかの社会的な意味(打算)のために行動するというのは、言ってみれば普通のことである。だから、それ以外のもののために(打算抜きで)行動する人間に私たちは(あるいは、ある種の人たちは)感動を覚えるらしい。ジョニー・トー監督の映画などが典型的である。

※以下、ネタバレあり。

続きを読む

『マイマイ新子と千年の魔法』の風景

 しかしその後、同じ地元の映画館へもう一度見に行ったのだが(客数は最終上映にもかかわらず1回目より少し多い程度だった)、そしたら1回目に見た時より感動したのである。そのおかげで、この映画の不思議さ、奇妙さをやっと少しばかり実感することができた。もしもう一度見たら、もっと感動してしまうかもしれない(映画館で観ることはもう難しいだろうが)。
 そこで、本作の何が感動を引き起こし、なぜその感動の原因を上手く説明できないのかを新たに考察してみることにした。前回は内容における多層性に注目したが、今回は形式における多層性に注目してみた。


 結論から先に言えば、それは本作で描かれているのが物語ではなく風景だからである。
 物語とは有り体に言えば、因果関係である。とある原因がある結果を生み、その結果が原因となってまた別の結果を生むという出来事の連鎖が物語である。いわゆる起承転結であり、構造・構成と呼ばれるものである。この点に関して本作は弱い。視点がぶれたり、大きな出来事に伏線がなかったり、ドラマツルギーという観点からすれば不合理な展開が多い。そのことに対して監督は自覚的で、インタビューでは「納得」を放棄したと語っている。
《構成について足掻くのはそこであきらめたんです》(「この人に話を聞きたい」)
 一方、風景とは目に映るすべてのもののことである。いや、目とは限らない。五感で知覚されるすべてのもののことである。そこに存在するものすべて。空、天候、光、地形、樹木、生態系、人工物、等々。そこには物質だけでなく、現象も含まれる。
 風景を構成するものは特定の意図によって集められ配置されたわけではないから、単一の意味に還元することはできない。だがしかし、風景は決して没価値的なものでもない。むしろ、それを見る視点によってそこから様々な意味が汲み取れるという意味で、意味が充溢している(「目に映るすべてのものがメッセージ」)。それは意味というよりは原意味と言った方がよいかもしれない。
 風景においては、論理的・物語的には相互に無関係な多様なものが、重層的に積み重なっている。無関係なものがたまたま共にそこに在る。その重なり方を決定するのは風景自身ではなく、それを眺める者がたまたま立った位置、すなわち視点である。だから、そこに単一の意味は存在しない。それを眺める者次第で様々な意味が読み取れる。
 どうしてそうなのかと言うと、風景とは内面の投影であるからである。と言っても、風景が主観的なものであると言いたいのではない。主観と客観という区別・対立が無効化するのが風景であるということが言いたいのである。風景とは別に、それを眺める私が存在するのではなく、私もまた風景の一部なのである。したがって、私が風景に対して抱いた感情もまた風景の一部なのである。私がある風景を見て悲しみを感じるとき、それは私が悲しいのではなく風景が悲しいのである。風景と同じく、風景として、その悲しみという感情は存在しているのである。そのとき、私と風景は一体化している。
 風景はひとつの視点(眺め)を意味するという意味では星座に似ている。星座を構成する恒星は、互いに何十光年、何百光年と離れている。それが、地球という視点から眺めることでひとつの配置(アレンジメント)を構成する。同様に、風景もそれを眺める者次第で様々な風貌を見せる。どこから眺めるか、どんな状態で眺めるか等によって風景もまた姿を変える。だから、同じ風景というものは存在しない。人によって時間によって変化するのが風景である。私が変化すれば風景も変化し、風景が変化すれば私も変化する。
 したがって、風景は背景とは違う。背景はむしろ物語に近い。それは説明の一種であり、登場人物に関する確定記述(データ)である。
 風景は記号とも違う。記号(シンボル)はそれが示す意味と一対一で対応しており、一つの記号は一つの意味しか指し示すことができない。それに対して、前述したように風景は一つの意味に還元できない。それ故にそこから無限の意味を引き出すことができる。記号的な風景など存在しない。


 以上のように物語と風景を対置させる形で定義するならば、本作においては、決して物語が描かれていないわけではないが、風景を描くことに、より重点が置かれている。だから、感動を引き起こすフックは無数にあるので、感動している人たちはそれぞれ別々の個人的な理由で感動している。しかしながら、それは物語による感動のような分かりやすい感動ではない*1
 本作は凡庸なノスタルジー作品とは一線を画しているという意見も多い。ノスタルジーとは単に過去を懐かしむことではない。現在において欠落しているものを過去に求めることこそがノスタルジーである。だからこそ、過去に存在したことのないもの、経験したことがないものであっても、人はノスタルジーを掻き立てられることがある。一度も見たことがないはずなのに懐かしい光景というものが世の中には存在するのである。言い換えれば、「存在しない」を「今はもうない」に変換するのがノスタルジーと言ってもよい。したがって、ノスタルジーとは、現在のあなたには欠けたものがあるという告発なのである。ノスタルジーそのものがドグマやテーマ性を内包している。だから、時にそれが鼻につくこともある。
 本作がノスタルジーを売り物にした作品ではないということは、テーマ性が薄いということでもある。言い換えれば、何が言いたいのか分からない。だがそれは、「この風景は何が言いたいのか分からない」と言うのと同じである。
 本作の客層は中年の男性が多いと仄聞するが、もしそれが本当なら、「風景」のよさが分かるのは年を取ってからだからなのかもしれない。


 本作が風景の映画であることは動画サイトでも公開されている冒頭5分を見ただけでも分かるだろう。新子のいる風景、新子という風景が、丁寧に、それでいて広がりをもって描かれている。。
 とはいえ、通常の意味での風景が綺麗に描かれていれば即、風景映画であるというわけではない。では、本作では具体的にはどのように「風景」が描かれているのだろうか。
 とりあえずは、物語(構成)のレベルではなく、表現のレベルを追求することによってであると言える。
《作画とか、背景の見せ方も全部含めて、観た人が納得するしかないところに、表現をもっていってしまおうと思ったわけなんですよね。》(「この人に話を聞きたい」)
 そのためにどうするかと言うと、前述したように、多様なものを重層的に積み重ねる。それによって、情報量を増やし、密度を上げる(「世界の強度を上げる」)。
 作画の重層性については様々あるが、アートワークの撮影編を見てもらうのが一番分かりやすいだろう。


・WEBアニメスタイル | 【artwork】『マイマイ新子と千年の魔法』第15回 撮影(1)
 http://www.style.fm/as/02_topics/artwork/artwork_maimai15.shtml


 ここで行われているのは、様々な素材を重ねることによって「厚み」を出すということである。それによって、ベタに一色で塗りつぶしたのでは出ない深みやリアリティを出すことができる。
 音楽もまた重層的に作られており、作中にBGMとして印象的に用いられている、アカペラ多重録音によるスキャットの録音風景を見てもらえれば、そのことは一目瞭然であろう。


・「マイマイ新子と千年の魔法」サントラより / Minako “mooki” Obata スペシャルライブ #1
 http://www.nicovideo.jp/watch/1259594468


 このBGMは昭和30年代という時代とある意味ミスマッチな軽快な音楽で、そのことがかえって特別な効果を生んでいる。その意味でも風景的である。もちろん、音声や効果音も例外ではない。
 内容においても多層的に作られていて、登場人物たちがそれぞれ別の層を構成している。登場人物たちは誰もが、ただ物語(ストーリー)に奉仕するだけの存在ではないし、主人公の都合によって動かされているわけでもない。勝手にそれぞれの人生を生きている。それは新子と貴伊子であっても同様である。新子は新子で、貴伊子は貴伊子で生きている。新子が「カタキウチ」に行っているとき、貴伊子はそれには全然関与せずに諾子になっている。そこには何の因果関係もない。だから、二人は最後は別れる。別れることができる。しかし、だからこそ、彼女らの交友が尊く映る。こう言ってよければ、登場人物たちもまた風景の一部として描かれているのである。
 さらに言えば、風景の重層性には、空間的重層性と時間的重層性があり、新子が想像した千年前の光景を新子の現在の光景に重ね描きすることで、時間的重層性を空間的重層性に重ねて、さらなる重層性・多層性を作り上げている。言い換えれば、新子の空想も風景として描かれているということであり*2、この「二重写し」は一種の発明であると言えよう。
 両者の間に無理に関連性をつけないのがミソである。無関係な多様な要素が併存しているのが風景なのだから。逆に言えば、どれだけ無関係な多様な要素を詰め込めるかが風景を描く際のポイントである。ただし、ここで「無関係」というのは、直接の因果関係がないという意味であって、各要素がまったく隔絶しているという意味ではない。併存している以上、そこに何らかの影響関係はあるだろう。
 分かりやすい例を出せば、モンシロチョウがそうである。スクリーン内に風景として存在し、ストーリーや登場人物とは無関係なままであるが、決して何ものからの作用も受けずに独立して存在しているものとして描かれているわけではない。しかも、それが描かれていることによって、そこから多様な意味が生じうる。


 もちろん、アニメにおける風景と実写における風景は違う。
 実写では制作者(監督やカメラマンなど)が意図しないものが映り込む(それが実写の弱点であると同時に強みでもある)。それに対してアニメでは描いたものしか映らない。アニメーションにおいては、目に映るすべてのものは描かれたものである。
 実写における風景は元々存在しているものを空間的・時間的に切り取ったものである。アニメにおける風景は元々は存在していないものを、素材(色彩や音など)を積み重ねることによって一から作り上げたものである。出来上がるものは現実の一部を切り取ったものであっても、作る過程は単純な素材の積み重ねである。引き算ではなく足し算である。だから、風景の存在しないアニメもある(他方で、風景の存在しない実写映画は存在しない)。
 本作では新子たちのいる風景を作り上げるために、現実の風景を可能な限り参照している。それはおそらく、現実を参照しないで想像だけで作るものには限界があるからであろう。想像だけで作ったものは単調になる。そこには作った人の色が色濃く出るが、所詮は単色である。そういう意味で想像というものは言われるほど自由ではない。それは――当たり前だが――個人の想像力を超えない(そして、大抵の場合、想像力は経験を超えない)。だから、多層性を表現するためには、言い換えれば、風景を描くには、現実から多層性を借りてくるのが一番手堅い方法である。天才と呼ばれる人ならば、現実を参照することなく想像力だけで多層性を実現できるかもしれないし、多人数で想像するという方法(ブレイン・ストーミング)もあるだろう。しかし、どれも確実な方法ではない。私たちの周囲には、現実という多層的なものがあらかじめ存在しているのだから、それを利用しない手はない。無論、これはこれで地道な努力が必要となるのだが(だから、それがおざなりなアニメも多い)。
 実際、スタッフは考証をかなり厳密に行ったらしい。歴史考証やロケハンも含めて。約50年前と1000年前の両方について、手に入る限りの資料を集め、それらを参照して、50年前の光景に関しては、原作者が感嘆し、地元民たちからも文句がでないほどに再現している。1000年前に関しても、衣食住はもちろん、行動についても資料から逸脱した行動は何一つさせていないという徹底ぶりである。もちろん、原作が現実を舞台にした、作者の実体験に基づいた小説だからこそ、そこまでやる意味があるわけで、架空の都市や世界が舞台だと、どこかで現実から離れねばならないだろうが。
 ここで、そんなに現実が重要なら、アニメーションではなく(『ALWAYS 三丁目の夕日』などのように)実写映画にすればよかったではないか、という疑問が思い浮かぶかもしれない。(コストの問題は無視するとしても)しかし、現実の風景は雑多すぎる。ドラマ上の効果から見ればノイズが多すぎる(ノイズが多いからよいという面ももちろんあるが)。その点では、戦略的・組織的に素材を積み上げた、アニメの風景の多層性に分がある。そのためかどうかは分からないが、見たことのある風景がアニメの中に登場するとそれだけである種の感動を覚える。以前に実際に見たときには何の感動も覚えなかった風景が、本作の中では特別なものに見える。また改めて本物を見に行きたいと思わされる。現実に忠実であればあるほど「異化効果」が働くようで、不思議である。
 本作では(本作に限ったことではないが)風景を描くことは手段に過ぎない。目的は「人の心」を描くことであり、それによって、観る人の心を動かすことである。現実はただ利用しているだけだとも言える*3。想像という個人的なレイヤーに閉じてしまわないために、現実という万人に共通のレイヤーを感動のための基盤として利用している。決して現実を描くことそのものが目的ではない(だから、祖父の死という生々しい場面は意図的に避けている*4)。
 現実は、観ている人がキャラクターたちの心やその交流を信じるための縁(よすが)である。重要なのは現実をそのまま描くことではなく(抽象化・理想化はもちろん行われている)、現実とつながりを持たせるということである。
 しかも、物語がその内に視点を含むのと同様に、風景はその内に視点を含む。本作ではそれは主に子供の視点である。すなわち、子供の視点から見た風景が主に描かれている。そして、子供の風景はアニメーションと親和性が高い。それはアニメが主に子供向けの表現形式であるという社会的・文化的事実があるからであるが、それだけというわけではなく、子供にとっては現実がアニメのような風景として見えているからでもあるのではないだろうか。このように言うと反発を招きそうだが、証明するのも難しいので、具体例を挙げてみる。
 例えば、キャラクター・ショーなどで見かけるアニメのキャラクターの着ぐるみというものがある。これにそのアニメやキャラクターが好きな子供は熱中するわけだが、私はいつも不思議に思っていた。アニメで観ているキャラクターとは似ても似付かぬ(と私には思える)着ぐるみを、どうして自分の好きなアニメのキャラクターと同一視できるのか、と。
 あるいは、子供が描いた母親の絵などを見ると、顔が突出して大きく、しかもみんな笑顔の、かなり類型的な絵になっている。
 おそらく、子供にとって世界はそのように見えているのだろう。だから、アニメと着ぐるみの間にそんなに齟齬を感じないのではないだろうか。子供の想像力の中では両者は同一であり、同等に現実的であるのではないだろうか。
 推測がちょっと行き過ぎたが、それはともかく、現実と空想を同じレベルで描くということはアニメにしかできない。実写では空想も現にそこに存在したものとして描くことしかできない。空想のシーンといえども、現にある場所の中で、現に役者が演じなければ撮れないからである。現在と千年前の風景の「二重写し」も実写では不可能とは言わないまでも非常に困難であるだろう。アニメの中で描かれることによって空想は、まったくの想像であるとも過去の現実であるともどちらともつかない、どちらでもあるようなものとして存在することができる。
 したがって、本作のような形で風景を描こうとするならば、少なくとも現段階の映像の技術レベルではアニメという形式が最適であるだろう。


 ここまで『マイマイ新子と千年の魔法』を「風景」という視点から分析してきたが、もちろん、監督自身が私が定義したような風景という概念を意識して作ったと言いたいわけではない。監督自身は、構成の破綻を表現の深化で解消しようとしたとインタビューで語っているが、その表現の深化を私は「風景(を描く)」と呼んでいるのである。そして、表現の深化によって何を目指しているのかといえば、リアリティである。
 リアリティの追求の行き着く先が風景の(再)発見であったという意味では、本作は自然主義的作品であると言える。とはいえ、単なる昔ながらの自然主義への回帰というわけでもなく、新しい要素も加わっている。あえて名付けるなら「ファンタジック・リアリズム」といったところか*5。現代における自然主義の可能性を考える上でも興味深い。これからもっとこういう作品が作られるようになってもよいと思う(が、興行成績のことを考えるとなかなか難しいかも)。


 さて、私の言う風景は、観客の側からはどう見えるのか。
 前述したように本作は多様な層(レイヤー)から成り立っているが、観客がすべてのレイヤーに気づくわけではない。いや、むしろ気付かないときにこそ、その効果は最大化する。すなわち、もっともリアリティを感じ、もっとも感動することができる。
 誤解を招くであろう言い方を許してもらえるなら、本作に観客は集中することができない。というのは、本作の感動の主要原理は、感情移入ではなく、いわば共鳴であるからである。感情が一人の登場人物に収束するのではなく、拡散する*6。言い換えれば、人物にではなく風景に感動する。なぜなら、人の心と風景は別のものではなく、両者は一体化しているからである。したがって、それは共鳴であると同時に感染でもある。人から人への感染ではなく、風景から人への感染である。
 理詰めで考える人はそれを合理化して、自分が感動した原因を一、二個の要素に求めるだろう。それは決して間違いではないのだが、完全な正解でも唯一の正解でもない。感動する理由は人の数だけ、いやそれ以上に存在するからである。それどころか、自分がなぜ感動したかを語ることすら困難である。なぜなら、物語は語ることができるが、風景は語ることができないからである。風景に関しては、言葉によって感動を他の人に十全に伝えることはできず、ただ「見ろ」としか言えない。だから、もし未見の人にこの映画の感想を聞かれたとしたら、私に言えることもただ一つである。
「見てくれ」*7

*1:監督は「できるだけ泣けないように作ろうとしていた」と言っている。

*2:新子の空想を風景に溶け込ませるために、新子の空想は、最初は幼児の描いたクレヨン画のような絵として表現され、次は水墨画のような絵になり、最後に周囲の風景と同じアニメ絵になるという“仕掛け”が施されている。

*3:ただ、その利用の仕方はハンパないのだが。

*4:現実を描こうとか泣かせようなどと思っていたならば、祖父の死の場面はそのために格好のものであったろう。

*5:ただし、ここでのファンタジーとは、《絵空事という意味ではなくて、どこか心の中で抱く物語としてのファンタジー》(「片渕須直監督演出の魔法(1)」http://animeanime.jp/interview/katabuchi1.html)のこと。

*6:そういう意味では音楽に近い。曲を聞いてどこに感動したかをピンポイントで指摘することはできない。感動したポイントを指摘しようとすればするほど、それは限りなく拡散していく、曲全体へと。

*7:現在ではそれも難しいですが、続映・再映している映画館もあるので、その輪が広がることを願いましょう。

『マイマイ新子と千年の魔法』の魔法

 ぼやぼやしていると上映が終了してしまうので、通常料金の日ではあったが映画館へ見に行く。チケットを購入すると、エコバッグをもらった。こんなものがもらえるとは全然知らなかった。調べると、数に限りがあるとか。
 平日だということもあったろうが、観客は10人足らず。座席数自体も少なく、映画館側もそれほどの収益を見込んでいないものと思われる。
 僕が心配することではないが、メインターゲット層が見えないという印象がある。公式サイトを見ると、子供向け映画ということらしいが、にしては、そういった層へのアピールがあまり目につかないように思う。口コミ頼みなのかなぁ。


 さて、映画本編についてだが、満点はつけられない。突出した映像表現や卓越した構成や唯一無二のオリジナリティがあるわけではないからである。だが、隅々にまで配慮が行きとどいた丁寧な作りになっており(一度見ただけではそのすべてを把握できたわけではないが)、誰にでも安心して勧めることができる仕上がりになっている。
 平屋建ての民家がぽつぽつと建ち、その周囲は見渡す限り麦畑の海。青々と実った麦の穂が波のように風に揺れ、つむじ風がその上を踊りまわる。麦畑の間を小川が流れ、直角に曲がる。遠くには山並みが連なり、その上には白い雲が浮かんだ青い空がどこまでも広がっている。
 昭和30年代の防府が活写されている。
 僕が生まれるずっと前の話なので、もちろん全部が全部というわけではないが、なぜか時折ひどく懐かしいと感じる光景が映し出される。例えば、三田尻駅のシーンは、高架化される前の防府駅を思いだした。防府駅の前身が三田尻駅なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、しかし他方で、時代の隔たりを考えると、当たり前というほど当たり前のことでもないと思う。
 それから方言もかなり忠実に再現していて、特に「じゃんけんもってすっちゃんほい」は不意打ちで、思わずほっこりしてしまった。確か、あいこだと「あいこー、アメリカ、ヨーロッパ」と続くんだったかな。
 最初は抑えた出だしで、新子が貴伊子と仲良くなるあたりから面白くなってくる。


*以下、ネタバレあり。


 空想の翼を広げる新子を見ていてまず思ったのは、『赤毛のアン』のアンに似ているということである。新子の“マイマイ”(二つ目のつむじ)は、アンの赤毛と同じスティグマ(聖痕)である。それらは彼女らが聖別されたあかし(しるし)である。それらは彼女らが特別な想像力・感受性を持った、他の人たちとは異なる人間であることを証し立てている。それらを「スティグマ」と呼んだのは、赤毛もつむじが二つあることも、それぞれの文化の中で負の価値づけがなされがちな特徴だった(である)からである。
 だから、貴伊子は、自分が諾子(なぎこ)や母親のことをうまく想像できないのはマイマイがないせいだと考えるし、諾子と同一化した時には、彼女の頭にはマイマイができていた。
 しかし、新子はアンほど問題児というわけではなく、妙に弁えているというか物分かりがいいというか冷めているというか、かなりはっきりと空想と現実の区別がついている。自分が空想したものが自分の頭の中にしか存在しないことをしっかりと認識し、それが他の人たちには見えないことを弁えている。そういう意味では、新子はあまり危なっかしいところのない、良くも悪くも逸脱することのない、「いい子」である。
 逆に言えば、そのいい子ぶりが鼻につくとも言える。足早に大人になろうとする友人をたしなめ、子供の内にいっぱい遊ぼうという物言いとか、まるで子供時代が子供の内にしか味わえない貴重なものだと知っている大人の言である。すなわち、新子を大人から見た「いい子」にしすぎではないかと思うのである。物語に「いい子」が登場するのはかまわないが、それが自伝的小説の主人公だという知識が頭にあるとちょっと鼻白んでしまう(念のために断っておくが、原作の新子もそうだとは限らない)。
 だからなのかどうかは分からないが、子供たちは大人たちに叱られない。冒頭に、新子が妹の人形を壊して母親に叱られるぐらいで、もっと大変なことをたくさんしでかしているのに、その時には誰も叱ろうとしない。酔っぱらったり、妹から目を離したり、夜遅くまで外出していたり、夜の繁華街に子供だけで行ったり……。子供向けの映画だからと言うのなら、子供向け映画であればこそ、締めるところは締めるべきだと思う。ただし、本作に本当の悪人が出てこず、いい子と優しい大人しか出てこないという点については、リアルではないということで批判するつもりはないのであしからず*1
 アンとの共通点ということで言えば、新子は、アンと同じく本好き、物語好きである。
 新子は「面白いことはみーんなおじいちゃんが教えてくれる」と独白するが、確実に読んでいる物語の影響もあるだろう。つまり、彼女は物語(ラジオドラマや映画も含む)を愛する典型的な文学少女であり(原作が作家である作者の自伝的小説であるのだから当然だが)、彼女の持つ想像力の大半は文学的想像力であると言って差し支えないのだが、にもかかわらず文学少女臭が消されている。貴伊子の部屋にも本が置かれていて、文学少女つながりで仲良くなるというパターンもあったはずである*2。『ハイジ』などの本を思わせぶりに映しておいて、そこはスルーする。なぜなんだろうか?
 どちらかと言うと、新子は自然児っぽく描かれているが、新子の家族は、祖父は元学校の先生で、父親は大学の先生というインテリ一家である。つまり、階層的には貴伊子と同じ階層に属している(だから、仲良くなれたのだという見方もできる*3)。
 インテリ階級に属する空想好きな子供ということで、貴伊子と同じく、クラス内で浮いていてもおかしくないはずなのだが、そうでもないようだ。というか、映画を見ている限りでは、新子の学校やクラス内での立ち位置が分からない。仲の悪い女子グループがいることやクラスのリーダーではないということは何となく分かるのだが。『ちびまる子ちゃん』のまる子の立ち位置に近いのかなと思う(おじいちゃん子だし)。
 先ほど新子が弁えていると述べたが、タイトルに「魔法」の文字は入っているが、この映画にファンタジックな生物や力は実在するものとして登場することはない。そういったものは全部、新子の空想や夢としてのみ描かれる。例えば、妹がいなくなってもトトロやネコバスは現れない*4


 前半は新子の所属する世界、子供の世界*5が描かれる。しかし、金魚“ひづる”の死をきっかけに雰囲気が変化する。そこから大人の世界が子供の世界に侵入してくる。大人の世界とは大人が「現実」と呼ぶものであり、その究極が「死」である。
 本作では、美しい子供の世界と汚い大人の世界という対比がなされている。
 例えば、ひづる先生(金魚の名前の由来)が妻帯者への恋をふっ切るために東京の男と結婚することを知った男子が、「何かきちゃねぇ気がしてもうた」と言う。
 例えば、クライマックスで新子とタツヨシが赴く繁華街の猥雑さ。
 牧歌的で美しい子供の世界に、大人の世界の汚さが影を落とす。幸福な子供の世界に、大人の世界から不幸の影が忍び寄る。子供の世界の輝きは、大人の世界の闇に包まれ、光を失ってしまう。自分たち子供から理不尽に何かを奪っていく者として大人が立ち現れる。その理不尽さに新子は怒りを覚える。タツヨシの父親の死と本来は無関係であるはずの新子が、タツヨシと一緒に「カタキウチ」に赴くのは、その怒りがあったからである。「明日の約束を返せ!」という要求は、それだけ見れば理不尽な要求だが、それは大人の理不尽さに対するものであるのだから、理不尽なものになるのは当然である。
 死という「現実」にぶつかって、新子は魔法を信じるのをやめてしまう。魔法では死者をよみがえらせることはできないと知ったからである。魔法でも失せた輝きを取り戻すことはできない。その時、彼女は「現実」を知り、子供の世界から大人の世界へと足を一歩踏み入れたのだと言える。魔法は非「現実」的であるがゆえに、大人の世界には存在しないのである。
 では、子供の世界は、魔法は、大人の世界を、「現実」を前に敗北するしかないのだろうか? 魔法とは、現実を知らない子供の妄想にすぎないのだろうか?
 いや、本当の魔法はそんな「現実」では損なわれないというのがこの映画のメッセージなのであろう。だからこそ、最後に新子は魔法を信じる心を取り戻す(具体的には「緑のコジロー」が再び見えるようになる)。
 というのも、その「現実」とは、大人たちにとっての現実にすぎないからである。言いかえれば、その「現実」とは現在のことしか指していない薄っぺらくて厚みのないもの、一つの視点しか持たない狭くて貧弱なものである。現在のことのみ、利益のことのみを必死で考えるのが現実的な態度だというわけである。だが、本当の現実とは多層的なものである。
 さまざまなパースペクティブが折り重なってできているのが現実だし(無数のパースペクティブを可能的・潜在的に内包しているのが現実だと言った方がより正確かもしれない)、時間的に見れば、あらゆる過去が現在という瞬間の内には包含されている。言いかえれば、現在は過去をその都度書き換えることによって存在しているわけではない。過去は決して消え去りはしない。そんな過去の上に積み重なっていくことで現在はできている。そして、その現在もすぐに過去となり、別の現在がその上に積み重なっていく。現在という大地は、過去という地層の上にあるのであって、地層なしに大地が存在しないように、過去なくして現在は存在しない。そして、過去を知らずに現在を、そして未来を知ることはできない。本作で、千年前(平安時代)と昭和30年代が並列して描かれているのはそんな理由によるのであろう。すなわち、多層的な現実、現実の多層性を示すためである。
 そういった認識を踏まえれば、死者をよみがえらせることではなく、私が今ここにこうして生きていることこそが「千年の魔法」であると言える。言いかえれば、今私が生きているのと同様に、千年前も誰かが生きていたということ、そのことがそれ自体で魔法なのである。
 物語の最後、新子が闇の中で金魚を見つけ、貴伊子が諾子と千古が友達になった夢を見る。それによって、彼女らの世界に光が少し戻ってくる。新子と貴伊子が闇の中で見つけた金魚は、“ひづる”がよみがえったわけではなく、よく似た別の金魚である。そこには何の不思議なこともなく、魔法など一切介在していない、というのが「現実」的な解釈なのだろう。しかし、ひづるが死に、そのすぐ後にひづるにそっくりの別の金魚が現れたというそのことがそのままで魔法なのである。ひづるがかつて生きていた。そして、よく似た別の金魚が今ここに生きている。そのことの不思議あるいは奇跡が魔法なのである。
 そして、魔法を信じる心を取り戻し、再び「緑のコジロー」が見えるようになった新子は、改めて「みんな、いい人ばっかり」であることに気づくことができた。だって、そのようであることもまた魔法の力なのだから。というのも、現実を光り輝かせるもの、それが魔法だからである。
 あえて一言で言うならば、この物語は、「世界の豊饒さへの信頼の回復」を描いている。大人の世界に直面することで「現実」へと縮減しようとしていた新子が再び、世界はこんなに豊かで美しいということに気づくという話である。


 以上のように考えると、対比され一見対立するように見えていた子供の世界と大人の世界は実は対立していないということが分かる。
 大人とは子供の否定ではない。子供という地層が積み重なった上に大人というものは成立している。大人とは例外なく、かつて子供であったものであり、かつては子供だったのだから、大人の中にも子供がいる。
 したがって、子供の世界と大人の世界、どっちが正しいという話ではない。両者は並立しうるし、現に並立している。だから、その意味では新子が弁えすぎるのは問題だと思う。大人の価値観をあらかじめ先取りしすぎではないかと思うのである。新子は決して空想を現実と混同することなく、空想は空想で楽しむだけの分別を備えている。しかし、空想を現実と混同することこそ、子供の真骨頂ではないか(フロイトはそれを「心的現実」と呼んだ)。もちろん、子供を内包している大人もまた、時折両者を混同してしまうことがある。誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。だが、それは必ずしも現実逃避を意味するわけではない。むしろ生きるために必要なこと、生が要求することですらある(場合もある)。「本当はいないんだ」と醒めるのではなく、「本当はいるんだ」と夢見る。少なくとも子供の内はそれもよいだろうし、現に子供はそうしているのではないだろうか。だから僕は、例えばトトロなどのように、緑のコジローや平安人たちが実在しているかのように描いた方がよかったのではないかと思う*6。それはおそらく、『となりのトトロ』のキャッチコピーが、「このへんな生きものは、もう日本にはいないのです。たぶん。」から「このへんな生きものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」に替えられた機微に関わることである。本作では、新子の想像力にブレーキがかけられてしまっているのではないだろうか。言いかえれば、新子の弁えっぷりからは、「大いに空想を広げましょう。ただし、頭の中だけでね」というメッセージが読み取れてしまうのである。それは、「思いっきり自分の好きなように絵を描きましょう。ただし、画用紙をはみ出してはいけません」といった物言いと似ている。


 ところで、先ほど、昭和30年代と平安時代とを並列して描いているのは現実の多層性(豊饒さ)を示すためだと記した。ところが、観客のわれわれから見れば、新子らの生きている昭和30年代もまた過去である。新子と貴伊子が、千年前の少女のことを考えるのと同じことが、観客と新子らとの間で行われている。ということは、そこには「千年の魔法」ならぬ「五十年の魔法」が働いているのだ。
 そして、その意味では、直接描かれてこそいないが、平安時代と昭和30年代だけでなく、この作品には現在もまた描かれているのだと言える。新子と貴伊子が、一人ぼっちの諾子に千古という友達ができたのを、まるでわがことのように喜んだように、われわれは新子たちの行動に一喜一憂する。その時、過去は単なる過去ではなくなり、同時に現在でもあるような過去となる。それが「魔法」である。
 想像力とは過去を現に存在させる魔法であり、そういう意味では死者をよみがえらせることができるのである。
「うちらが忘れんかったらいつまでもそこにおるよ」


 エピローグにも軽く触れておこう。短いが、物語の締めとしてよくできている。
 エピローグにおいて、新子の祖父が死んだと語られたとき、僕は当然そうでなければと思った。展開的に祖父は死なねばならぬ。どうしてそう思ったのかを説明するのは難しいが、祖父が死ぬのは、物語的に正しい。物語の力学がそれを要求するのである。これだけでは説明になっていないのでもう少し言葉を重ねてみる。
 新子は物語を通じて成長した。彼女は本作の最初と最後では別の人間になっている。そして、成長した者が次に為すべきは、親離れ、巣立ち、独立といったことである。祖父は面白いことをみんな教えてくれた、いわば新子の師匠でもあったわけだが、修行を終えたとき、弟子は師匠から離れ、次のステージへ移行せねばならない。それは別の師匠に就くことであったり、独りで修業を続けることであったり、弟子を取ることであったりする。そして、師匠が死ぬことは、継承が行なわれた、大事なことが確かに受け継がれた、ということを示す、もっとも単純で効果的な物語的手法である。
 別の言い方をすれば、逆説的に祖父は死なないと示すために祖父は死なねばならなかったのである。祖父の持っていた大事なことは、新子に受け継がれた。祖父は新子の中で生きている。だから、新子は祖父のことを決して忘れないだろう。祖父の死は、そのことを一瞬で観客に伝えてくれる。


 そして、最後に新子一家は引っ越す。
 貴伊子がやってくることで始まった物語は、貴伊子が再び引っ越すか、あるいは新子が引っ越すかのどちらかで終わるのが、物語としてもっともきれいな終わり方である。本作では、貴伊子が残り、新子が引っ越すという『まなびストレート!』方式が採用されている。
 このエピソードも、物語における機能は祖父の死と一緒で、継承の告知である。最初は浮いていた貴伊子が完全に周囲に溶け込み、新子を必要としなくなった(この言い方が悪ければ、新子から独立できた、と言ってもよい)ことが示されている。


 どちらのエピソードも本質は同じであり、ここで行われているのは世代交代である。新陳代謝と言い換えてもよい。人の思いは後の世代に受け継がれていく。だからこそ、千年前の小川が現在も流れており、千年前の人に思いをはせることもできる。死んだ者は帰ってこないし、去った者は戻ってこない。だとしても、それは無になったのではない。過去は消えず、ただ堆積し、その上に新たな現在が積み重なっていく。現在を少し掘り返せば、そこには過去が息づいている(自分自身の過去、すなわち子供時代を含めて)。「魔法」とは、それを知ることである。


 派手なシーンのない低刺激性の作品で、感動の押しつけがない分*7、個人的にはぜひ見に行くべしとまでは言えないのだが、世界を少しだけ豊かにする魔法をかけられたいのなら、見に行かれたし。


※補足:

  • 筆者はかつて防府市に住んでいた。生まれた場所こそ違うが、幼年期から青春時代の大半を防府市で過ごした。
  • 上の文章を書いた時点で、原作小説の帯で「日本の赤毛のアン」と謳われていたことは知らなかった。
  • 声優2人が実写版『ちびまる子ちゃん』の出演者であることも後から知った。
  • 新子が「弁えている」のは意図的にそうしてあるということも後で知った*8。すなわち、本作は新子の成長物語ではなく、貴伊子の成長物語である。文中にも書いたように、新子は貴伊子のメンターという役割を担っている。

*1:ただし、そのせいで、結局タツヨシの父親がなぜ自殺したのかは分からなくなってしまうのだが。

*2:「この本、私も読んだ!」とか「これ、読んだことない。今度貸して」とか。

*3:枕草子』を書いた清少納言ももちろんインテリである。

*4:タイトルはジブリ作品と同じく、『○○の○○』という形になっているが。しかも、『千と千尋の神隠し』とは『○○と○○の○○』という形まで共通している。だからどうしたと言われると困るがw。

*5:ちなみに本作の主題歌は「こどものせかい」である。

*6:別にはっきりと実在しているように描く必要はない。ひょっとしたら実在しているのでは?と思わせるような演出をすれば、それでよい。

*7:「すっごい感動しました」とか「泣けました」とかは言いにくい作品である。

*8:《危うさをもっていない新子が望ましくて、大事なものだと考えたんです。》(「この人に話を聞きたい」『月刊アニメージュ』2010年1月号 vol.379)

Inspired by『マイマイ新子と千年の魔法』

 本作に関しては、ネットでは、感動したがなぜ自分が感動しているのか分からない、という感想が多く見られた。それは自分には意外な感想であった。なぜなら、僕はそこまでは感動しなかったからである。それなりに感情を揺り動かされはしたものの、涙がにじむほどではなかった。だから、初めて本作を映画館で観賞した直後に書いた批評は、感動した理由の考察ではなく、作品の構造の分析にもっぱら傾注した。
 以下に、別の場所にアップした、その批評を「『マイマイ新子と千年の魔法』の魔法」と題して、転載する。ネタバレしまくりなので、ネタバレが嫌な人は読まないで欲しい。

ハリウッドのパンダが愛より大切なものを教えてくれたよ

 タイトルは釣りです。釣られた人は「釣られた熊猫ーッ!」と叫んでくださいw。
 というわけで、内容は、最近DVDで見た『カンフー・パンダ』(功夫熊猫)の感想です。
カンフー・パンダ』とは、今更説明するまでもないでしょうが、3DCGで描かれた、カートゥーン・アニメーションではおなじみの動物擬人化キャラクターによるカンフー・アニメーション映画です。アメリカで製作されたものですが、カンフー映画のセオリーや精神性を自家薬籠中の物とした上で、さらにカンフーシーンではアニメでなければありえないようなアクションも加えられています。しかも、普通のカンフー映画なら数年間にわたる物語となるような内容ですが、それをリアリティを犠牲にしてまでも短期間に圧縮しているため、非常にスピード感のある展開で、最初から最後まで飽きることなく見られました。
 伏線の張り方もベタですが見事で、単なるギャグだと思っていたものが後になると伏線であったと分かるという展開も多く、よくできています。龍の巻物の内容は、日本人なら誰もが「そうじゃないかと思った」と言いそうなオチですが、アメリカ人はそうじゃないのでしょうか?
 あと細かいことになりますが、“マスターファイブ”の内、虎(マスター・タイガー)と蛇(マスター・ヘビ)が女性であるのはアメリカらしいと思いました。鶴が女性というなら分かりますし(『鶴の恩返し』)、蛇が女性なのは『道成寺』などのイメージがあるからまだ納得できるのですが、虎が女性だというのはいかにもアメリカっぽい、アメリカならではの発想だと思いました(偏見入ってるかも)。
 以上は前置き(まくら)です。
 アニメーション表現としての評価・演出やプロット全体の評価等はググればいくらでも見つかるので、これ以上は行いません。以下ではもっぱら、『カンフー・パンダ』を師弟関係を描いた師弟関係モノと(独断で)見なした上で、そこに描かれた師弟関係を分析します。
 これ以降の文章はネタバレがあるので隠しておきます。ネタバレを気にしない方、ここまで読んでもまだ興味を失っていない方は続きをお読みください。

続きを読む

『ダークナイト』

 既に映画館での公開はほぼ終了しており、時機を逸した感がありますが、最近まったく更新していないので、他所でアップした映画評を少し加筆・修正した上でアップすることにしました。
 まだ見ていない人向けではなく、既に見た人向けの内容になっているので、かえってよいタイミングかもしれません。見るべき人は大体見た後でしょうから(DVD化の後ではさすがに間が空きすぎるでしょうし)。
 というわけで、大いにネタバレありなので、ストーリーを知りたくないという人は読まないでください。

続きを読む

オタクはどこから来たのか?オタクは何者か?オタクはどこへ行くのか?

消費者であるとはどのようなことか?

 岡田斗司夫氏が『オタクはすでに死んでいる』というタイトルの新書を公刊し、新聞のインタビューで、最近のオタクは「消費するばかりの存在」だとの発言をしたことが、ネットで話題になっている。
 しかし、では「消費するばかりの存在」とは何か?というと、いまいちよく分からない。
 そこで「消費者マインド」に関する、内田樹氏の分析を参照してみよう。
 消費者マインドおよび消費主体について内田氏が言っていることを箇条書きにする(ページ数は『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』(講談社、2007年)のもの)。


(a)幼くして自己形成を完了させてしまっている(pp.126-127, pp.134-136)。
(b)変化しない主体である(pp.65-66)。
(c)自分が買う商品のスペックをすでに知っているということが前提になる(p.146, pp.43-44)。
(d)それが何であるかをあらかじめ知っているものばかりを選択する(pp.146-147)。
(e)経済合理性に基づいて(p.52, pp.143-144)、等価交換原則(無時間モデル)に従う(p.136, p.149, p.154, pp.173-176, p.211)。
(f)自己決定・自己責任の原理に忠実な弱者であり(p.108)、孤立した人間である(p.110,pp.202-203)。
(g)ぜんせん勉強してないけれど、自信たっぷり(pp.111-114)。学びや労働から逃走することから自己有能感や達成感を得ている(pp.114-115)。
働いたら負けかなと思ってる
(h)自己に外在的な目標をめざして行動するよりも、自分の興味・関心にしたがった行為のほうを望ましいとみる(pp.73-74)。
(i)自分自身の価値判断を「かっこに入れる」ことができない(p.151, pp.169-170)。
(j)不快を記号的に表示することで交換を有利に導こうとするタクティクスを採用する(pp.47-59)。
 重複するものも互いに関係が深いものも浅いものも同列に順不同で並べている。
 内田氏がそのように主張する根拠等の細かい議論は参照ページを記しておいたので、実際に本文に当たっていただきたい。
 では、これが、岡田氏が「消費するばかりの存在」と言う最近のオタク(第三世代オタク)にも該当するのか検証してみよう。


・(a)
 内田氏は、消費主体と労働主体とを対置させて、それ以外の主体のあり方については述べていないが、その他にも制作主体とでも呼ぶべきあり方があるのではないだろうか。
「就学以前に消費主体としてすでに自己を確立し」た子どもは同時に、買いたいものが買えない、欲しいものが売っていないという飢餓感も味わったはずである。そのとき、子どもがどうするかと言えば、友達を作る。それでも足りなければ、手持ちのもので何とかしようと工夫する。同じおもちゃで何度も遊んだり、正規の遊び方とは違う遊び方を発明したり、複数のおもちゃを組み合わせたり、おもちゃを解体したり、自分で新しいおもちゃを作ったりする。
 限定された品物から最大限に楽しみを得ようと努力し工夫する。それによって制作主体として自らを立ち上げる。そこから第一世代オタクの主体的・創造的な楽しみ方が生まれたのではないだろうか。

・(c)
 岡田氏について自分の意見を述べている人のほとんどに共通することがある。それは、岡田氏のことを完全に分かっている(かのように振舞う)ということである。オタキング=第一世代の言いたいことは全て分かってる。要は「昔はよかった」ってことでしょ? というのがネット上で支配的な反応である。
 だが、岡田氏の議論はそれほど分かりやすいものでもないはずである。にもかかわらず、岡田氏の言うことは分からないと言う人がほとんどいない。それは、岡田氏が最近のオタクや萌えが分からないと言っているのとは対照的である*1
 岡田氏は第三世代オタクのことが分からないと言い、第三世代オタク*2は岡田氏のことを分かっている(かのように振舞う)という、この非対称性は興味深い。
 ここに見られるような消費者マインドは、岡田氏に対してだけ発揮されるわけではなく、ネットでの議論やアニメ作品などに対しても見られる傾向である。議論や作品全体を見ていないのに、それらについて十分に分かっているかのように評価・批判するというのは最近では見慣れた光景である。

・(j)
 ネットでは岡田氏に共感を表明する人より不快を表明する人の方が圧倒的に多い。そうすることによって彼らは自分が被害者であり、岡田氏が加害者であるという形で岡田氏に貸しを作り、自分を有利な立場に置くことができる。

 このゲーム*3のルールは「先に文句を言ったもの勝ち」ですから、このゲームで幼児期から鍛えられてきた子どもは、どんな場合でも、誰よりもはやく「被害者」のポジションを先取する能力に長けてゆきます。人間、生きている限り、さまざまな不快なできごとに遭遇しますが、そのすべてにおいて、「私は不快に耐えている人間」であり、あなたは「私を不快にさせている人間である」という被害−加害のスキームを瞬間的に作り上げようとする。
(p.57)

 実際には、そういった形で岡田氏に貸しを作ったからといって、心理的な利益以上の利益を得られるわけではないのだが、そうでない場合もある。それは、ニコニコ動画やファイル交換で違法に手に入れたアニメ等を観賞する場合である。
 消費者はその価値が分からないものにお金を払うことはできない。だから、とりあえず無料で観賞する。観賞した結果、くだらなかったアニメにはお金を払わなくてもよい。なぜなら、くだらない作品を見ることで時間を浪費し、その間不快に耐え続けたのだから(こちらは「不快という貨幣」を既に支払ったのだから)。そのような心理操作を行って、違法に無料でアニメを観賞している人は、さらに進んで、自らの見るアニメがくだらないことを望むようになる(屈折したダメ指向)。なぜなら、そのほうが無料で違法に観賞することが正当化できて、自分は得するのだから。そして、くだらないと言いつつ、大量のアニメを無料で違法に見続けることになる。そういう人に対して「くだらないのなら見なければいいのに」と突っ込むのは意味がないということは分かるだろう。彼にとっては自分の見る作品はくだらなくなくてはならないのである。

・(h)
 岡田氏などの先達の言葉やメディアや学術的な批評より自分の「萌え」(感性)を優先させる。岡田氏が言うところの「自分の気持ち至上主義」である。
 また、特定の理論的分析だけでなく、自分を含む集団に対する理論的分析そのものを拒絶する心性が見られる。他人が自分のことをさも分かった風に語るという意味で、説教に似たものと感じられ、それ自体に拒否感を覚えるのかもしれない。この心性は一般に女性オタクの方が強いように思われる。オタクであることがアイデンティティの問題=個性(自分らしさ)の問題であるので、十把一絡げに論じられるということ自体が許せない。それによって捨象される小さな差異こそが重要であるのだから。だから、女性たちは一方で自分に対する友人の評価や占いは気にするが、それはそれらが自分の個性(固有名や顔と言い換えてもよい)を認めてくれる(という錯覚を伴う)からであるのかもしれない。

・(i)
岡田斗司夫のひとり夜話』#12*4での岡田氏の発言。
 新聞の記事やニュースを見たとき、評論などものを書く人はまず原典に当たる。それから1週間とか1ヶ月といった時間をかけて考える。昔の知識人は一ヶ月ぐらい考えるのが当たり前だった。それは考えをまとめるため。
 ネット時代は、記事やニュースを見たとき、まず自分の感情が出る。その感情が当たっているかどうかを見るためにいきなり他の人の意見を見てしまう(答え合わせの答えを見るのが早すぎる)。大量に他の人の意見を見れば見るほど、最初に自分が感じた感情が絶対に見つかってしまう。それで自分の感情が肯定され、安心してしまう。そうして、あっという間にみんなと同じ意見になってしまう。あまり愚かなことは書かなくて済むが、その代わり図抜けた意見もなくなる。周りの大勢に逆らった意見が書けなくなる。
 ネットは、いろんな意見があっという間に同一温度になって、一つの似たような価値観に収束していく速度が速くなっていく「祭り化」が激しくなる装置になっている。

・(b)(g)
(g)を端的に表す言葉は「働いたら負けかなと思ってる」。
 ただ先行作品や歴史などの「教養」を知らないだけではなくて、知らないということに積極的な価値を認めている。教養を知らなくちゃ作品を楽しめないなんて不幸だね。俺たちはそんなもの知らなくても十分に楽しめるよ。
 だから学ばない。だから変化しない。観賞する前と後とでは自分が変わってしまっているような作品との出会いを想定できない。教養がそういった出会いをもたらしてくれると信じることができない。

・(d)
 上の記述とも関係することだが、自分が萌えられるものしか観賞しない。
 好きな画風や話ではないが教養だから一応見る、ということはしない。

・(e)
 岡田氏は最近のオタクがバカになったと言うが、正確にはバカになったのではない。昔と今とでは賢さのあり方が違うのである。彼らには、オタク的コンテンツに関する広く深い知識を習得することが賢いとは思われなくなった。彼らは経済合理性に基づいて、オタク的教養を学ぶことからそれに見合う対価を得られないとクレバーに判断しているのである。
 オタクコンテンツが昔に比べて膨大に増えたために、それに比例してオタク的教養も膨大に増えた。それを習得するよりは、豊富なコンテンツを手当たり次第に漁った方が効率がよい(楽しい思いが味わえる確率が高い)。しかも、見逃して困るような作品(私に決定的な変化をもたらす作品)はないのだから。


 岡田氏が、オタクがアイデンティティの問題になったと言うときのオタクとしてのアイデンティティとは、「消費主体としてのアイデンティティ」(p.143)であると言ってよいかと思う。第三世代オタクが全員上のようだということではなくて、岡田氏が「消費するばかりの存在」と言う第三世代オタクは上のような特徴を持つオタクであるということである。

自然主義に対する反論

 ここで少し寄り道するが、後の議論に関係してくることなので、ご容赦いただきたい。


なぜオタクはニコニコ動画を語れないのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
 最近の、ニコニコ動画を楽しむオタク(第四世代オタクとも言われる)が動画を見るのは、それによって「自然な快感」を感じるからであり、彼らが動画を好きなのは「好きだから好き」なのであり、それは認知系よりも行為系が先行させるという「自然な振るまい」である。それ故、「ニコニコ動画は、旧来のオタクによる作品(ソフト)評論を挫く」。
 こういった、「現代のオタク(第三世代あるいは第四世代)は、自然の欲求や快楽に素直なだけであり、それ故理論化に馴染まない」とする考え方を仮に「自然主義」と名づける。細かいニュアンスは異なるものの、しばしば目にしたり耳にしたりする意見であり、その根底には、自分たちはあらゆる理論やイデオロギーから自由であるという自己理解があるように思われる。
 だが、この「自然主義」はナイーブに過ぎる見方ではないだろうか?
 そもそも「自然」という語があいまいである。「現実」という語と同じくらいに。
 自然の対義語は人工だろうが、人間の手の入っていない自然など少なくとも日本にはない。だから、日本には自然は存在しないとも言える。また、人間に関する全ての事象に自然など存在しないとも言える。もちろん、そこには人間の感覚も含まれる。そこにも様々な仕方で人為が働いているからである。
「自然だから理論化できない」というのも全面的に首肯できる主張ではない。
 もちろん、どんな人間も徹頭徹尾理論に従って行為しているわけではない。もしそうだとしたら、他の人(学者)などに分析されるまでもなく、自分の行為を理論で説明することができたであろう。
 だが、人文科学系の学問は人が意識することなく「自然に」行っていることの内に、その行為を合理化している認識を見出そうとする。自然現象が法則に従っているという意識などないのに、物理学者がその内に法則を発見するように。
 そもそも、上で「自然な振るまい」と言われているものは、非常に人工的な環境の中で行われている。コンピューターもインターネットもニコニコ動画も音楽も非常に人工的なものである。なのに、それを見たり聞いたりして快感を感じることがどうして「自然」であると言えようか*5。例えば、人間以外の動物が自然に音楽を聴いて楽しむということがあるだろうか?
 しかも、人の趣味嗜好には文化的な偏りが見られる。それが本当に「自然な振るまい」であるのなら、どうして全人類が同様の振る舞いを行わないのか。つまり、どうして同じ曲を聴き、同じ動画ばかりを見ないのか。器質的な理由があるとは思えない。それにしては多様性がありすぎる。しかも、身体的な差異が理由なら、同一文化圏(日本文化圏、オタク文化圏、等)内で類似した振る舞いが多く見られることや流行り廃りがあることに説明がつかない。つまり、それは趣味嗜好が生得的にではなく(自然にではなく)、後天的に(文化的に)獲得された振る舞い方であるからではないか。だとしたら、その仕組みを分析することは無駄な試みではない。それは、身体化するまで浸透したイデオロギーの析出という意味を有するからである。

僕たちの時代には「ナイーブに自己の称揚」を続ける若者がたくさんいます。「自分らしい生き方」を求めて社会の「常識」に逆らい、きっぱりと「自分らしさ」を実現していると主張する彼らの言葉づかいや服装や価値観のあまりの定型性に僕たちは驚愕しますが、それこそ「階級の特徴づけられた社会構造の規則性に日常的に個人をしたがわせるイデオロギーの作用」の圧倒的な影響力を証示するものでしょう。
(p.115)

 例えば、我々は歩くときに腕と脚とを交互に前に出すのを「自然な振るまい」だと思っているし、身体感覚としてもそうであるだろう。だが、それは歴史的な始まりを持ち(明治以前は腕と脚を同時に前に出す歩き方が普通だったらしい)、教育過程で教え込まれたが故にそのような歩き方ができるようになったのであるが、にもかかかわらず我々はそれを自然な歩き方だと思い込んでいる。
《面白いものは面白い。心地よいものは心地よい。それが「自然な振るまい」である》という認識は非常にイデオロギー的であり、歴史的に見ても普遍妥当な命題ではない。言い換えれば、現代的な定型的反応である。つまり、型にはまった答えであり、そのような考えをナイーブに「自然」だと言うことはできない。それはただ、ディシプリンによって身体に刷り込まれた身体技法やイデオロギーに従順であるということを意味するだけである。
 上のエントリでは、なぜかニコニコ動画の最大の特徴の一つであるコメント機能についてほとんど言及されていない。それは、それが「認知系/行為系」という区別にひびを入れるからであろう。コメントを書き込むまたは読むという行為は、認知系とも行為系とも言える。無理にどちらかに入れることはできるだろうが、そうすると「認知系/行為系」という区別が曖昧にする。だったら、ニコニコ動画ではなくYouTubeを例に挙げておけばよかったのにと思わないでもない。そして、コメントを読み書きすることまで「自然な振るまい」であると強弁することはできないだろう。
 さて、だとすれば、不自然なのが(旧来の)オタクという主張も読み替えねばならない。すなわち、ドミナントイデオロギーに従順でないのが(旧来の)オタクである、というふうに。そして、新たなオタクが自然な振る舞いをしているというのはドミナントイデオロギーに従順になったということを意味する。
 では、ドミナントイデオロギーとは何か。現代の日本においてドミナントイデオロギーとは資本主義(市場経済や等価交換の原理)である*6。上のエントリではニコニコ動画と音楽の類比性を指摘しているが、音楽こそ資本主義イデオロギー(商業主義)に従った最たるものである。とはいえ、ニコニコ動画はまだオタク的な部分、脱資本主義的な部分を残している。だが、最近は「ニコニコ市場」なども作られ、ニコニコ動画も資本主義に接近してきた。ニコニコ動画を提供しているニワンゴは株式会社であるのだから、それは当然のことであるし、そのこと自体は別に悪いことではない。ただ、それに連れてオタク的でなくなっていくというだけである。
 では、(旧来の意味で)オタク的でなくなったオタクはどうなっていくのだろうか?
 僕の予測を述べれば、フェティシズムに似たものになる。
 フェティシズムにもサブジャンルがあり、それぞれにそれなりの数の同好の士がおり、独自の歴史があり、フェティシスト向けの商品が多数存在する。だが、それだけである。独自の歴史があるといっても、歴史好きには意味があっても、個々のフェティシストたちには何の関係も無い*7
 そういったものとしてオタク趣味は存続していき、オタクコンテンツは消費されていく、というのが僕の予測である。「萌え」はその兆候である*8

オタクの一生および死後の世界

 岡田氏のオタク論については既に、『オタクはすでに死んでいる』の元になったイベント「オタク・イズ・デッド」の記事を読んで論じたことがある。
平坦な戦場でおたくが生き延びること−Spur-of-the-moment ideas−考えのはずみ

 基本的には上のエントリを書いた時点と今とであまり意見に変わりはないが、補足説明する形で付け加えておく。
 昔は、オタクはオタクというだけで(ある程度)連帯できた。
 それはオタクの間には共通認識があり、なおかつ、共通の敵(世間)がいたからである。
 細かい違いは措いておいて、自分たちは同じオタクだという仲間意識を感じていた。
 だが、今の「萌え」は排除の原理になっている。
 オタクかどうかは個人の(アイデンティティの)問題となり、共通認識でつながったオタクという集団(トライブ)はなくなった。
 もちろん、オタクと呼ばれる人、オタクと自任する人はまだまだたくさんいるが、その内実は各人で異なっている。ほとんど共通項がないほどに。「萌え」という言葉でかろうじてつながっているが、逆に言えば、それぐらいでしかつながることができないということでもある。しかも、それは言葉によってつながっているように錯覚しているだけで、その「萌え」の内実はやはり各人で異なっている。
 例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』だったら、昔なら、少なくとも『ハルヒ』オタクを自称している者は原作ラノベを読んでいると前提できたであろう。だが、今はそんな前提は無条件には成り立たない。ラノベから『ハルヒ』に入った者、アニメから入った者、ニコ動から入った者、ラノベを読んでアニメを見ていない者、アニメは見たがラノベを読んでいない者、ニコ動でハルヒMADは見ているが、アニメ本編は見ていない者。他にも、コスプレだけ、同人誌だけ、ダンスだけといった自称オタクがいるであろう(少なくともいないと確言することはできない)。
 それが「共通認識」がなくなったということ(の一端)である。


 それから、今回のことで岡田氏がオタクを捨てたという非難が散見されるが、岡田氏のオタク第一段切り離しは、ガイナックスを退社したとき(1992年)に既に完了していると思われる。
 そして、退社後に出版した処女作は『ぼくたちの洗脳社会』(1995年)であった。『オタクはすでに死んでいる』にも見られる、岡田氏のグランド・セオリー志向はこの頃から既に表れている。
 おそらく、1998年ごろオタク切り離しは第二段を迎える。2005年ぐらいまでの時期に、『フロン―結婚生活・19の絶対法則』など結婚や恋愛に関する本や『プチクリ!―好き=才能!』などの生き方本を多く出している。同時にオタクに関する著作も公刊している。両輪立ての時代。
 そして、今は第三段切り離しに入ったのだと思われる。『オタクはすでに死んでいる』や「岡田斗司夫の『遺言』」などで過去のオタク遺産の整理を行い、『いつまでもデブと思うなよ』をメインブースターにして、新たな宇宙へ飛び出して行きたいという思惑があるのだろう(オタクから完全に足を洗うというわけでもないとは思うが)。
 叶姉妹の肩書き「トータルライフアドバイザー」は岡田氏にこそふさわしいと思う。叶姉妹はスーパー読者だったが、岡田氏はオタクだった。でも、何がしたいのか、何をしているのか、どうやって儲けているのかはよく分からない。みたいな?


 岡田氏が「死んでいる」と言うオタク(強いオタク)と現存しているオタク(第三世代オタク)が同じ「オタク」という名前で呼ばれるのが事態をややこしくしている。両者を別の名前にすれば混乱は少なくなると思うが、岡田氏によれば両者は別物であるが、なだらかな連続性があるので、簡単に別の名前にするわけにもいかないだろう*9。そこで比喩を用いて、両者を分かりやすく区別する努力をしてみよう。


・集団およびそのメンバーを指す名称だったのが、形容詞に
「オタク」とはオタク的特徴のいくつかを有する人、オタク的な人という意味になった。
 だから、「オタク」という言葉の無かった時代にもオタクはいたと言うこともできるようになる。


ラカンの「女は存在しない」というテーゼとの類似
 このテーゼに対して「女性は現に存在しているじゃないか」「私は女性です」と反論してもあまり意味は無い。そんなことは承知の上で言っているからだ。
 このテーゼの意味するところはこうだ。
《「女は存在しない」という言葉をもっとわかりやすく言い換えるなら、「女性を言葉で明確に定義づけることはできない」というほどの意味になる。》(斎藤環『生き延びるためのラカン』p.152)
 一般化された「女性なるもの」はどこにも存在しない。だから、女性を言葉でもって定義することはできない。
 同様の意味で、「オタクは存在しない」=「オタクはすでに死んでいる」。
 だから、これに対して、「オタクはまだいるじゃないか」とか「私はオタクです」と言っても反論にはならない。


・オタク=モード
 オタクにファッションのような「モード」がなくなった。流行を気にして服を着る(あるいは、着ない)ということがなくなり、それぞれ個人が好きなものを着るようになった。その事態を「ファッションは死んだ」と呼ぶことができるように、「オタクはすでに死んでいる」と言うことができる。


 岡田氏の議論の解釈およびまとめはこれぐらいにしておく。
 では、岡田氏の議論から離れて、岡田氏の言論やそれに関するネット上の言論を読んで考えた、僕なりのオタク論を展開してみよう。
 第一世代から第三世代の間でいちばん変化したことは何であろうか?
 岡田氏は第一世代を「貴族」、第二世代を「エリート」と呼ぶ。第三世代は明言はしていないが一般大衆(「消費するだけの存在」)となるだろう。かなり単純化して言えば、「富裕層→中流階級下流」という流れである。これは、オタクが大衆化していく流れである。
 なぜオタクは大衆化したのか? その根底には、一言で言えば、オタクであるために必要とされるコストの減少がある*10
 費用(購入費、交通費、参加費、等)の低下、社会的圧力(オタク差別や親からの圧力)の低下、必要な知識(教養)の低下、手間(本屋に行く、都会に行く、情報をチェックする、特定の時間にテレビの前に座る(ビデオを予約録画する)、自分の趣味嗜好を他人に分かってもらう、趣味の異なるオタクと付き合う、等)の低下などがざっと考えられる。
 つまり、「オタク趣味のコストパフォーマンスは良くなる一方」なのである。
 一言で言えば、オタク趣味の一般化と格差社会化の相関ということなのだが、これについては多くの人が指摘している。

・参照(リンク先も参照):
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080512/1210583059

 極言すれば、萌えられさえすればオタクになれる時代になった。
 岡田氏が述べる第三世代オタクの欠点はほどんどコスト低下の副作用だろう。
 限られた人しか入れない場所と、誰でも入れる場所とでは、入ってくる人の質が異なる。そもそも母数が増えるのだから変な人も増える(割合は変わらなくても絶対数が増える)。「大学全入時代になったら、大学生にもバカが増えた」という言説と同じである。


 オタクが大衆化したとはどういうことかと言えば、オタクが資本主義化したということである。
 オタクは元々資本主義から距離を取る人たちだった。「貴族」「エリート」といった岡田氏の言葉遣いにもそのことが表れている。
 本田透氏も『電波男』などで恋愛資本主義を批判し、その外部にいる人たちとしてオタクを擁護しようとした点でこの伝統に則っている。
 もちろん、オタクは資本主義の恩恵に浴した、資本主義の申し子であり、資本主義社会下でしか生まれえなかった存在であろう。だが一方で、資本主義が想定していたのとは別の仕方で資本主義を享受したという側面もある。その証拠に、資本主義社会ならどこにでもオタクがいるわけではない。今でこそ、ある程度世界にオタク趣味は広がりつつあるが、その発祥は日本であり、他の国のオタクは同時発生的に生まれたものではなくて、多かれ少なかれ日本の影響を受けて生まれたものである。だから、オタクは非資本主義的とは言えないまでも、脱資本主義的であるとは言えるだろう*11
 分かりやすい例は二次創作同人誌である。コミケで行われているのは紛れもなく商行為であるが、かといって商業主義に染まりきってもいない。市場原理に照らせば許されないはずのことが、そこでは許されている(黙認されている)。
 自覚的かどうかは別として、オタクとは資本主義の内部で資本主義に抵抗しようとする運動、資本主義から享楽を搾取しようとする運動であったのだ。
 それが、最近のオタクはどんどん高度資本主義的エートスを身に着けつつある。高度資本主義的エートスとは、消費者マインドのことであり、市場経済や等価交換の原理である。
 つまり、オタクは文化でなくなり、商業活動になっていくということである。オタクコンテンツは「作品」ではなく「商品」「製品」となる。それが「オタクはすでに死んでいる」ということでもある。「消費するばかりの存在」とは何も作らないということではなく、何かを作るときに作品としてではなく製品として作るということである。そして、受け取る側もそれを作品としてではなく製品として受け取り、消費するということである。
 野村総合研究所の「オタク市場の研究」などをはじめとして、オタクおよびオタクコンテンツをビジネスの観点から捉えようとする動きが出てきて久しい。TVでオタクが頻繁に取り上げられるようになったのも、その一環である。これから新たにオタクになる人の大半はそういった観点を通過した上でオタクになっていくだろう。だとすれば、オタクの資本主義化はこの先も進むと思われる。しかし、もちろん、まだまだその流れに抵抗している場も存在していると思う*12
 ただし、資本主義化自体は悪いことではない*13。そんなことを言ったら、資本主義下で生きる自己否定になってしまう。ただ少し寂しくはあるが、それは個人的な感傷である。
 そして、もしオタクの資本主義化(市場原理への取り込み)が完了したなら、次に来るのは、世代間闘争ではなく、消費するオタク(金を出すオタク)と消費しないオタク(金を出さないオタク)の間の対立であるだろう*14


 最後に妄想。
 オタキングはもう一度オタクを一つにするために、あえて自らをオタク共通の敵とすることで、スケープゴートになったんだよ。
 宮台真司氏における天皇を反転させたような存在になったという意味ね。
 さすがオタ“キング”。

*1:そうは言っても「定義」しちゃうのがお茶目な点なのだが。

*2:岡田氏に倣って、「第四世代オタク」という言葉は使わず、第四世代と言われることのある世代(90年代生まれ)も第三世代オタクに含める。

*3:「この家庭のメンバーであることから最大の不快、最大の不利益をこうむっているのは誰か?」をめぐる派遣争奪戦。

*4:「パソコンテレビGyaO」内の番組

*5:それを「自然」だと感じる感受性の広がり(動物化)の方に重点を置くなら、それを(広い意味で)「自然」(人工的な自然、ゲーム的な自然)と呼ぶことも許されるかもしれないが、だとしても、理論化を否定する根拠にはならない。動物にだって、例えば動物行動学(ethology)などが成立するのだから。

*6:http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080513/1210715284参照。ここで言う「普通」は、今問題にしている「自然」とほぼ同じ意味だと思われる。

*7:フェチの世界のことはよく知らないので間違っていたらご指摘ください。

*8:萌えとフェチが一緒という意味ではなく、萌えがフェチに限りなく近づきつつあるという意味。例えば、アイマスMADブームを駆動しているのは「動き萌え」だと思うのだが、それは従来の萌えよりフェチに近い(俺と萌え(番外2)斉藤環氏とのやりとり: たけくまメモ

*9:せいぜい、「おたく」「オタク」「ヲタク」と表記を変えるぐらいか。

*10:同じことは、ニート非モテ非コミュなどの増加にも言えるだろう。参照:http://news.ameba.jp/weblog/2008/05/13673.html

*11:この場合の資本主義はグローバリズムと言い換えてもよい。

*12:先に挙げたニコニコ動画とかコミケとか。しかし、これから先もずっとそういった場であり続けるかどうかは予断を許さない。というのも、オタクの聖地と言われている秋葉原は既に資本主義の論理に飲み込まれてしまいつつあるように見えるからである。

*13:例えば、アニメの制作現場では脱資本主義的エートスの故に資本主義的システムによって搾取されている人たちがいるが、そんな人たちはもっと資本主義化した方がよいと思う。すなわち、労働者としての権利をもっと主張していいと思う。

*14:そこで以前のエントリで書いた「オタクのヤンキー化」が重要になってくる。ヤンキー化したオタクあるいはオタク化したヤンキーは金を出すが故に、金を出さないヤンキー化していないオタクを糾弾・差別するという構図が生まれるのではないか。もちろん、業界側は金を出してくれる前者を応援するだろう。まぁ、単なる夢想に終わってくれればそれでよいが。