『ダークナイト』

 既に映画館での公開はほぼ終了しており、時機を逸した感がありますが、最近まったく更新していないので、他所でアップした映画評を少し加筆・修正した上でアップすることにしました。
 まだ見ていない人向けではなく、既に見た人向けの内容になっているので、かえってよいタイミングかもしれません。見るべき人は大体見た後でしょうから(DVD化の後ではさすがに間が空きすぎるでしょうし)。
 というわけで、大いにネタバレありなので、ストーリーを知りたくないという人は読まないでください。


 以下で僕は、映画『ダークナイト』の物語分析(テーマ分析)をもっぱら行い、映像や音楽(演出や演技を含める)については主題としては論じない。それは後者を軽視しているからではなく(もちろん、それらは映画にとって重要な役割を果たしている)、議論が(それでなくても散漫なのに)これ以上散漫になるのを防ぐためと、それらについて論じる能力が僕にないからである。


 誰に頼まれたわけでもないのに勝手に暴力的な手段で街の平和を守る「自警市民」であり、それ故に市民たちの非難の的になっているというバットマンの状況は、「世界の警察」を(勝手に)自任する現代のアメリカが置かれている状況の反映である(もちろん、ジョーカーはテロリストということになる)。――というのは、見やすい道理であり、多くの人たちが指摘しているだろうから、改めて僕が言うほどのこともないだろう。
 僕がこの映画に見出したテーマの一つは「落下」(fall)である。

スーパーマンと違って生身の人間であるバットマンは空を飛べない。かれにできるのはマントを広げてムササビのように滑空すること。あるいは高いところから飛び落りること。そして着地の痛みに耐えること。それだけである。この映画でもバットマンは数度にわたって敢然とビルから飛び降り、あるいは摩天楼を滑空して、悪人を退治し、ヒロインの命を救う。だがやがて最後にかれは重力に負けて力なく地面に落下することになる。「狂気は重力のようなもの。人はひと押しで落ちていく」──そう言って嘲笑するジョーカーは、このとき逆さ吊りにされている。だがカメラはいつしか上下反転してジョーカーの顔を正位置で捉える。まるで、この男の前では重力など無意味だ、とでもいうように。 

・m@stervision
http://www.ne.jp/asahi/hp/mastervision/index.html

 バットマンは非現実的な特殊能力を一切持たない生身の人間だが、生身の人間であるということは重力に逆らうことはできないということである。
 この映画の主要な登場人物のほとんどは文字通り落下する。バットマンもジョーカーもハービー(“トゥーフェイス”)もレイチェルも刑事もSWATもマフィアも強盗も、そして犬も、高い場所から落ちる(落とされる)、あるいは落ちかける。とりわけ、バットマンはいろんな仕方で落ちる。そして、地面に落ちたときにはその頑健な肉体とバットスーツでただ耐える。落下の痛みと衝撃に。
 しかし、落下(fall)という言葉には墜落という意味以外にも意味がある。「堕落」という意味が。例えば、大文字で“the Fall”と書けば、人間の堕落 (アダムとイブの原罪)のことを意味する。
「狂気は重力のようなものだ。人はひと押しで落ちていく」というジョーカーの台詞にはその二つの意味が込められている。そして、その台詞どおりに、市民たちはエゴをむき出しにしてバットマンを非難し、入院患者たちを人質に取られた市民たちや警官はある人物を殺そうとし、“光の騎士(White knight)”であったハービーさえも、復讐鬼“トゥーフェイス”へと変貌する。
 普段は「善人面」をしている人たちも、恐怖によって追い込まれれば、容易に悪に染まる。それがジョーカーの人間観であり、目的でもある。すなわち、人間を“fall”する(させる)ことが、ジョーカーの目的である。
 ちなみに、“fall”という英単語には「(建物などが)崩壊する」という意味もある。ジョーカーは爆弾などによって数多くの建築物を“fall”させもする。
 誰もが重力に逆らうことはできない。誰もが悪を行いうる。この映画はそのようなジョーカー的人間観に真っ向から反論することはない。ただ、「人間は落下することを避けられないかもしれない。だが、その落下に耐えることはできるはずだ」と主張するだけである。その主張は、爆弾の起爆スイッチを押すのを拒否したフェリーの乗客たちの行動と、ほかならぬバットマンの行動から見て取ることができる。彼は落下(罪)を引き受け、それに耐える。「ヒーロー」とは、スーパーマンのように上空を飛行できて落下することのない存在のことであるとすれば、ゴードンが言うように、バットマンはヒーローではなく、“ダークナイト”(暗黒の騎士)なのだ。
 すなわち、「落下に耐える」というのがバットマンダークナイトの倫理なのである。それは、落下しながら最後まで落下しきらないということ、落下そのものを否定することなく、自らが落下していることを自覚しながら、落下に身をゆだねきらない(落下を全面肯定しない)ということである。彼がジョーカーを殺さないのも、最後まで落下しきらないためである。ジョーカーを殺してしまえば、それこそジョーカーと同じになってしまう。だから、本作は勧善懲悪によるカタルシスとは無縁の映画である。


 僕が見出したもう一つのテーマは「トゥーフェイス」である。
トゥーフェイス」とはすなわち、二面性ということである。人はコインのように表の顔と裏の顔を持つ。その戯画化が怪人“トゥーフェイス”である。両面が表であるハービーのコインは裏の顔を持たない正義漢(“光の騎士”)である彼を象徴するものであり、だからこそ、その片面が爆発によって傷ついたとき、彼はトゥーフェイスにならざるを得なかった*1
 二面性はホンモノとニセモノという区別とも重なる(真の顔と偽の顔というわけである)。本作にはニセモノがたくさん出てくる。最初の方のシーンにバットマンのニセモノが出てくるが、これはストーリー上は不必要である(後で何か意味を持つわけでもない)。にもかかわらず、制作者たちが(十分に尺が長いにもかかわらず)これを削らなかったのは、テーマ的に意味があるからだと考えられる。
 捕らえられたニセモノのバットマンは、ホンモノのバットマンに俺たちとあんたは同じじゃないかと言う。俺たちとあんたの何が違うと訊かれたバットマンが持ち出すのは、装備の差である。それは逆説的に、ホンモノとニセモノの間にはそれぐらいの差しかないということを示している。つまり、ホンモノとニセモノという区別が無効化したシミュラークル的世界を描いているということを示すためにニセモノたちの登場が要請されたと思われる。それは善悪の区別の無効化(善悪の相対化)をも意味している。
 ほかにも、ジョーカーの変装や死んだふり、ゴードンの死、記者会見でのハービーの告白、警察内のマフィアのスパイ、ジョーカーによる人質の仲間への偽装等、数多くのニセモノが現れ、登場人物たちはそれに翻弄される。
 ホンモノだと思ったものがニセモノで、ニセモノだと思ったものがホンモノであるという事態がこの映画では頻出する。前述したように、この「ホンモノ/ニセモノ」を「善/悪」に置き換えてもよい。そのことが最も劇的な形で描かれるのは、囚人が起爆スイッチを放り捨てるシーンである。そこでは、悪と思われていたものが、一瞬で善に転換する。
 バットマンが救う市民とはそのような両面性を持った人間たちなのである。したがって、善だけを助け、悪だけを排除するということは不可能である。善を救うことは悪を救うことでもあり(もしかしたら自分を石もて追うかもしれない者を救うことでもあり)、悪を救うことは善を救うことでもあるのだ。だから、ヒーローの目的が一般の人々を救うことであるならば、ヒーローがただ一人善であり続けることはできないはずである。だから、バットマンは人々と共に落下する。人々を守るために。
 バットマンが道具を使う暇もなく落下して地面にたたきつけられるのは常に誰かを守るためである。彼は人が落下しようとしているときにはためらわず飛び出し、あるときは落下する人をかばって、あるときは落下しようとした人を助けあげて力尽きて、地面に激突する。彼は落ちないヒーローではなく落ちる(非)ヒーローなのである。人々を守るために、人々と共に、落ちることのできる“ダークナイト”なのである。
 そして、ジョーカーは二つの面を撹乱する者である。あらゆる支配を拒否するアナーキストであるジョーカーは、善からも悪からも拒絶されるつまはじき者である。ばば抜きの“ばば”(ジョーカー)のように。彼は善と悪の境界に住まう者であり、その意味で「フリーク」(化け物)なのであり、その点ではバットマンもフリークなのである。
 悪とは善の否定ではなく、善に寄生するという意味で善に依存するものであり、その意味で、悪は善の存続を願う(悪人の利益が最大化するのは自分以外の全員が善人であるときである)。マフィアが金へ執着するのも、彼らが正常な経済活動の寄生者であり、経済活動自体の消滅など願ってはいないからである(むしろ、その永続を真剣に願っているだろう)。だから、その金を惜しげもなく焼き払うジョーカーは善悪どちらにも属さない化け物なのである。
 ジョーカーは善悪二つの領域を撹乱し、混乱をもたらす存在(「混乱の使者」)である。善人を悪人に変えようとするのもその一面である。
 ジョーカーは本当の顔(素顔)を持たない。ジョーカーの出身や経歴は一切不明である。彼が持つのはメーキャップされた顔、フェイクとしての顔だけである。彼が口の傷の由来を自ら語るシーンが2度あるが、それらはまったく違う話である。つまり、傷の由来さえもフェイクなのである。
 ジョーカーとバットマンが共にフリークでありながら、彼らに異なる点があるとすれば、それは、バットマンが落下に耐えるのに対して、ジョーカーは落下に抵抗しない(落下を恐れない、落下を楽しむ)ということであるだろう(それは自分の死さえも恐れないということでもある)。ジョーカーは、いわば常に落下し続けているという意味で無重力状態にいるのである。この映画の中でジョーカーがいちばん自由に見えるのはそのせいである。


 GyaOで放送中の『岡田斗司夫のひとり夜話』#16(2008/09/01放送http://www.gyao.jp/sityou/catedetail/contents_id/cnt0068670/)で、岡田氏は、『ダークナイト』をある程度評価しながらも、ジョーカーが「純粋の悪」を表現しようとしたキャラクターであると解釈した上で、それには失敗しているという理由で評価を割り引く。それは「純粋な悪」というものは存在しないと岡田氏が考えているからである。
 人は悪のみを為して生きることはできない。時には善いことをしたいと思うだろうし、悪い意図の下に行われたことが善い結果をもたらすことだってある。善いことを行うならそれは悪ではないし、あらゆる善を拒絶するためにしたいことを我慢するとしたら、それもまた悪ではない。
 そういった意味で「純粋な悪」は存在しないという意見には僕も賛成である。しかし、ジョーカーはそういった意味では「純粋な悪」ではない。すなわち、通常の悪(共同体的な悪)の延長線上にある、極端な悪ということを意味するのだとすれば。ジョーカーが「純粋な悪」であるとしたら、それは通常の悪とは別の次元にあるという意味においてである。
 通常の悪は利己的に振舞う。自己の生存および幸福を最優先し、他者の生存および幸福を軽視する。「純粋な悪」がその延長線上にあるとすれば、自己の生存および幸福のことのみを考え、他者の生存および幸福を一切考慮しないという純粋な利己性を意味するであろう(実際、岡田氏はそう考えているように見受けられる)。
 だが、ジョーカーはそうではない。
 彼は自分の生命にさえ頓着していない。彼が猛スピードで迫り来るバットポッドの前に身体をさらしたのは、バットマンが自分を轢くわけがないと確信しているからではなく、バットマンに自分を殺させるため、そうしてハービーと同じくバットマンを悪に落とすためである(だから、どうしても自分を殺そうとしないバットマンに苛立っているようにも見える)。
 上の場合は、バットマンは自分を殺せないとジョーカーが確信しているからという解釈が成り立つ余地もあるが、ハービーの場合はどうであろうか。ジョーカーが入院中のハービーの手に拳銃を握らせて自分のこめかみに銃口を押し付けて引き金を引くよう挑発するのは、ハービーが自分を撃たないと知っているからではない。ハービーにはジョーカーを殺したい理由が十分にあるし、それをためらう自制心も残っているかどうかは怪しい。ハービーがジョーカーを撃たなかったのは、単にコイントスの結果である。
 以上のことから分かるように、悪の定義が利己的であることだとすれば、ジョーカーは悪ではない。彼はむしろ、善悪を超越した存在であり、その意味で人間を逸脱したフリークである(「超人」と呼んでもいいし、むしろ子どもに近いと言えるかもしれない)。だから、通常の意味での悪であるマフィアたちとも相容れない。また、ジョーカーはハービーに対して、自分は物事を支配しようとする連中と違って計画なんて立てない、自分は計画なんて立てられるタイプの人間ではないと主張するが、この言葉はハービーを騙すためのまるっきりの嘘とも言い切れない一定の説得力を持っている。“joker”は“fool”(道化、愚者)の類義語であることを思い出してもらってもよいだろう。だが、ジョーカーは考えなしの単なる「動物」とか「ノータリン」とも違う。
 岡田氏は、人間は善悪という価値観しか持たない、したがって善悪の観念を持たない者は人間ではない(動物である)、と考えているようだが、人間は善悪以外の価値観も持っている。
 バットマンとジョーカーは善悪とは別の次元で対立している。ポリティカル・コレクトネスという点から見れば、バットマンはジョーカーと同じく悪である。バットマン自身もそれを自覚しているからこそ、正当な民主主義的手続きによって選ばれたハービーに後を託して引退しようといったんは決意する。他方でジョーカーは、善を行うことそれ自体を忌避することはない。バットマンの正体が暴露されない方が面白いと判断すれば、暴露を阻止するために行動する。ジョーカーは自らの信念に基づいて行動しており、そのためなら死をも(善をも)恐れない。それはバットマンも同じである(彼の場合は「死をも(悪をも)恐れない」)。囚人を拷問することもあれば、盗聴することもある。
 両者は善悪において対立しているのではなく、それぞれの信念、ルールにおいて対立している。両者は共に、自分自身の作った規則に従うという意味でそれぞれ「美学」を持っており、それぞれの美学において対立している。ジョーカーは自分が行っていることを「ゲーム」と呼び、「俺は約束は守る男だ」と言う。これは「自分が作ったルールは守る男だ」という意味である。
 最後の対決で、バットマンに負けて地面に落下するところを助けられたジョーカーが、この段階にいたってもジョーカーを殺さないという自身のルールを守るバットマンに対して半ばあきれつつ、共犯者の笑みを浮かべるのは、自分自身の作った規則に従うという点で二人は共通しているからである。逆に言えば、ジョーカーが一般人を軽蔑するのは、普段は善人面していても、恐怖に駆られれば、それを容易にかなぐり捨てる(とジョーカーが思っている)からであるだろう。ジョーカーは顔を一つしか持たない。前述したように、それはフェイクとしての顔なのであるが、にもかかわらず、彼にあるのはその顔だけであり、変装しているときも顔だけは変わらない。そのことはジョーカーの美学(信念)を示している。


 ところで、ジョーカーについて「原作がコミックであるにもかかわらずここまで悪を描ききったのはすごい」という意見をしばしば目にする。だが、僕の意見は少々違って原作がコミックだからこそここまで悪を描けたのだと思っている。フィクション性が担保されているからこそ、生のままで目の前に出されたら目をそむけてしまうようなものを直視し、楽しむことができるようになるのではないだろうか。
 例えば、『13日の金曜日』のジェイソンが夜中に突然目の前に現れたら我々はパニックに陥るだろう。しかし、映画の中でジェイソンが突然現れても、驚きはしつつもパニックに陥って客席から逃げ出すということはない。それは、観客が自分の見ている光景がフィクションであることを知っているから、フィクション性が担保されているからである。映画だけでなくジェットコースターなどであっても同じで、ジェットコースターに乗るのが好きな人でも、乗っている旅客機が突然同じ動きをしたとしたら、のんきに楽しむことなどできないだろう。
 つまり、フィクションの中でしか描けない「現実」があるのだ。ここで言う「現実」は、いわゆる「現実」(日常的な現実)ではなく、ジャック・ラカンの言う「現実界」に近い。それはあまりにも生々しく、外傷的であるために直視できない(それ故、認識することも記憶することもできない)が、フィクションという透過膜を通すことによってかろうじて見ることができるようになる。なぜフィクションなら耐えられるのかといえば、それが非現実的であるからではなく、現実(日常的現実)という逃げ道が用意されているからである。この点(現実よりリアルな(現実界的な)フィクションがある)については、別にきちんと論じる必要があるだろう。ここで言いたいことは、現実世界にジョーカーのような犯罪者が現れたら、ジョーカーを認識するようにはその犯罪者を認識することはできないだろいうということである。我々は彼の動機(「心の闇」)を詮索し、それが見つけられない場合でも器質的原因を想定したりするだろう。たとえフィクションであると分かっていてさえ、動機を詮索したり、利己的な欲求に基づいていると考えたりして、ジョーカーの狂気を矮小化することで現実(界)的なものを見ないようにしている人はおり、それを直視することがいかに難しいことであるかを教えてくれている。その点では、我々はバットマンの嘘に騙されることになる市民たちを笑うことはできないであろう。
 もちろん、フィクションにもフィクションであるが故の限界がある。
 身も蓋もないことを言わせてもらうなら、ジョーカーがバットマンを殺さないのもバットマンがジョーカーを殺さないのも結局はストーリーを引き伸ばすため、『バットマン』という物語を終わらせないためである(魅力的な敵役=ライバル(関係)は次々と考え出せるものではないので、バットマンのみならずジョーカーも軽々しく舞台から永遠に退場させるわけにはいかない)。内在的な理由(両者の性格や信念)はすべて後付けであるとも言える。
 キャラクターとはストーリーに奉仕させられる存在である。だから、キャラクターの決断はすべてストーリーに回収される*2
 そうである以上、続き物のフィクションのラストは、「子どもっぽいラスト」にならざるをえない。言い換えれば、多かれ少なかれご都合主義にならざるをえない。ご都合主義とは、キャラクターたち(および劇中世界)の内的必然性とストーリー(および製作者の都合)という外的必然性との齟齬だからである。ただし、これがフィクションそのものの限界であるとまでは言えないだろう*3


ダークナイト』の結末は、大衆は残酷な真実に耐えられないので、真実を知っている(真実に耐えられる)特定の個人が「聖なる嘘」でもって大衆を騙すというものである。岡田氏によれば、大本営発表によって問題の解決を先送りする「子どもっぽいラスト」である。これは例えば、マンガ版『風の谷のナウシカ』などにも見られる、比較的ありがちなラストである。
 これがなぜ「子どもっぽい」のかといえば、大多数の人たちから真実に直面する機会を奪って、解決を英雄的な人物一人に押し付けているからである。
 だから、これはあくまで過渡的解決である。本当の解決は、(映画内でも語られているように)大衆自らが真実に直面する強さを身に着けて、ヒーローというものを必要としなくなったときに訪れる。しかし、それをヒーローという個人が外部から強制しては意味がない。ヒーローは「最終的解決」を行ってはならない(それがどれほど「善意」に基づいていたとしても)。市民が自分たちで気づくしかない。だから、ヒーローものにおいて最終的解決が描かれない(ヒーローは政治に介入しない)のは正しいのであり、それを求めるのは間違っている。
ダークナイト』では本当の解決は描かれていないものの、それへの希望(可能性)は描かれている。それはフェリーの乗客たちの決断である。楽観的・ご都合主義的すぎると批判することは可能だろうが、そこには、市民の善良さ(賢さ)への信頼がある。『スパイダーマン2』で、スパイダーマンの正体が「まだ少年じゃないか!」と知った電車の乗客たちが協力して彼を助け、その正体については沈黙を守ることにするというシーンがあるが、アメリカ社会のベースにはそういった市民の善良さへの信頼、民主主義への信頼があるように思われる。
 これが日本だと、『デビルマン』になってしまう。いったんたがの外れた大衆の悪魔性への傾斜を抑えるものは何もない*4(もちろん、日本にも、一般大衆の「人間性」を信頼する作品はたくさんあるだろうが、それは非政治的な人間性(すなわち、個人的な善良さ)である傾向があるように思う)。


 長々と取りとめもないことを書いてきたが、僕が言いたいのは、『ダークナイト』は、多様な解釈を許すだけの深みを持った作品であるということである。だから、僕の解釈が唯一の「正解」だと主張するつもりもない。優れた作品が与えてくれる解釈する悦びを享受しようとしただけである。他の人には他の解釈があるだろうし、そうであればこそ他の人の解釈を読む悦びも生じる、というのが僕の考えである。


 最後に、先日、スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』(鈴木晶訳)を読んでいたら、これまで述べてきたジョーカーの性格を的確に言い表していると思われる文章をたまたま見つけたので引用しておく。

《「彼は人間ではない」と「彼は人でなしだ」とは同じではない。「彼は人間ではない」はたんに彼が人間性の外にいる、つまり動物か神様であることを意味するが、「彼は人でなしだ」はそれとはまったく異なる何か、つまり彼は人間でも、人間ではないものでもなく、われわれが人間性と見なしているものを否定しているが同時に人間であることに付随している、ある恐ろしい過剰によって刻印されているという事実を意味している。おそらく、これこそがカントによる哲学革命によって変わったものである、という大胆な仮説を提出してもいいだろう。カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う〈理性の光〉という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の彼の隠喩は〈夜〉、〈世界の夜〉なのだ)。カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである。
 この〈他者〉の恐ろしい奈落にじかに晒されるという外傷的な衝撃を、どうしたら避けられるのか。〈他者〉の欲望との危険な出会いに、どう対処したらいいのか。ラカンによれば、〈他者〉の欲望の謎に対する答を与えてくれるのは幻想である。》(pp.86-87)

 ジジェクは、ラカンが「ラメラ」について書いた一節を引用した上で、次のように言う。

《熱心な映画ファンなら、ラカンのこの一節を読んで、「これは全部どこかで観たことがある」という感覚を拭い去ることができないはずだ。ラカンによるラメラの描写は、ホラー映画のぞっとするような怪物たちの一つを思い出させるだけでなく、ラカンがこの文章を書いた十年以上後に製作された映画、すなわちリドリー・スコット監督の『エイリアン』のショット一つひとつを解説している文章として読むことすらできる。この映画に出てくる怪物エイリアンはラカンのラメラにあまりによく似ているので、ラカンはこの映画ができる前にこの映画を観たのではないかとさえ思えてくる。この映画には、ラカンが述べていることが全部出てくる。》(pp.111-112)

 だが、僕もジジェクの文章に関して同じことが言いたい。「ジジェクは『ダークナイト』ができる前にこの映画を観たのではないか」と。
 上の非人間性について論じた文章は、期せずして『ダークナイト』の完璧な注釈になっている。「人でなし」とはジョーカーのことである。彼は「人間でも、人間ではないものでもな」いフリークであり、彼の狂気は過剰であり、この映画において我々は「人間存在の中核が制約をぶち破って爆発する」さまを目撃することができる。それに対抗する主体性(主人公)たるバットマンは“ダークナイト”と呼ばれるが、それはすなわち彼が〈夜〉の隠喩で呼ばれるということである*5。「〈他者〉の恐ろしい奈落にじかに晒されるという外傷的な衝撃」とは、僕が言うところの「落下」のことである。それに対処するための「幻想」は、ハービーが最後までジョーカーに屈せず戦った“光の騎士”であるという、バットマンとゴードンがついた嘘のことである*6
 このように重ね合わせてみると、この文章は、なぜバットマンは嘘をつく必要があったのかも教えてくれる。それはフィクション(この映画を含む)が必要な理由と根本的なところでは同じである。すなわち、人々が〈他者〉という恐ろしい奈落と直接接触するのを避けた上で、〈他者〉との関係を取り結ぶことができるようにするためである。

*1:それ以前から「トゥーフェイス」と呼ばれていたとされているが、この映画独自の設定らしいし、どうしてそう呼ばれていたのかという理由の説明はない。おそらく内務調査部という役職に関係したもので、善悪の二面性を意味していたのではなく、正義に基づく二面性を意味していたのであろう(悪人(汚職警官)に対する冷酷さとか)。

*2:そうとも言い切れない面(キャラクターの自立)があるのだが、ここでは一般的な話にとどめておく。

*3:そうだとすると、キャラクターをストーリーから解放してやることが倫理として要請されると僕は考えているのだが、この問題は今は措いておく。

*4:だから、日本のヒーロー(あるいはヒロイン)は、正体を敵に知られることよりも一般大衆に知られることの方を怖れる。

*5:いや、“knight”と“night”を掛けた洒落じゃないですよ? ホントにw。

*6:さらに、ハービーに関しては真実を知っているバットマンブルース・ウェインも、人間である以上、「幻想」から完全に自由なわけではなく、レイチェルについては幻想を抱いたままである。彼の幻想を守ったのは、レイチェルから預かった手紙を燃やしたアルフレッドである(こういうエピソードを入れてくるのが、この映画の念の入ったところである)。