オタクはどこから来たのか?オタクは何者か?オタクはどこへ行くのか?

消費者であるとはどのようなことか?

 岡田斗司夫氏が『オタクはすでに死んでいる』というタイトルの新書を公刊し、新聞のインタビューで、最近のオタクは「消費するばかりの存在」だとの発言をしたことが、ネットで話題になっている。
 しかし、では「消費するばかりの存在」とは何か?というと、いまいちよく分からない。
 そこで「消費者マインド」に関する、内田樹氏の分析を参照してみよう。
 消費者マインドおよび消費主体について内田氏が言っていることを箇条書きにする(ページ数は『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』(講談社、2007年)のもの)。


(a)幼くして自己形成を完了させてしまっている(pp.126-127, pp.134-136)。
(b)変化しない主体である(pp.65-66)。
(c)自分が買う商品のスペックをすでに知っているということが前提になる(p.146, pp.43-44)。
(d)それが何であるかをあらかじめ知っているものばかりを選択する(pp.146-147)。
(e)経済合理性に基づいて(p.52, pp.143-144)、等価交換原則(無時間モデル)に従う(p.136, p.149, p.154, pp.173-176, p.211)。
(f)自己決定・自己責任の原理に忠実な弱者であり(p.108)、孤立した人間である(p.110,pp.202-203)。
(g)ぜんせん勉強してないけれど、自信たっぷり(pp.111-114)。学びや労働から逃走することから自己有能感や達成感を得ている(pp.114-115)。
働いたら負けかなと思ってる
(h)自己に外在的な目標をめざして行動するよりも、自分の興味・関心にしたがった行為のほうを望ましいとみる(pp.73-74)。
(i)自分自身の価値判断を「かっこに入れる」ことができない(p.151, pp.169-170)。
(j)不快を記号的に表示することで交換を有利に導こうとするタクティクスを採用する(pp.47-59)。
 重複するものも互いに関係が深いものも浅いものも同列に順不同で並べている。
 内田氏がそのように主張する根拠等の細かい議論は参照ページを記しておいたので、実際に本文に当たっていただきたい。
 では、これが、岡田氏が「消費するばかりの存在」と言う最近のオタク(第三世代オタク)にも該当するのか検証してみよう。


・(a)
 内田氏は、消費主体と労働主体とを対置させて、それ以外の主体のあり方については述べていないが、その他にも制作主体とでも呼ぶべきあり方があるのではないだろうか。
「就学以前に消費主体としてすでに自己を確立し」た子どもは同時に、買いたいものが買えない、欲しいものが売っていないという飢餓感も味わったはずである。そのとき、子どもがどうするかと言えば、友達を作る。それでも足りなければ、手持ちのもので何とかしようと工夫する。同じおもちゃで何度も遊んだり、正規の遊び方とは違う遊び方を発明したり、複数のおもちゃを組み合わせたり、おもちゃを解体したり、自分で新しいおもちゃを作ったりする。
 限定された品物から最大限に楽しみを得ようと努力し工夫する。それによって制作主体として自らを立ち上げる。そこから第一世代オタクの主体的・創造的な楽しみ方が生まれたのではないだろうか。

・(c)
 岡田氏について自分の意見を述べている人のほとんどに共通することがある。それは、岡田氏のことを完全に分かっている(かのように振舞う)ということである。オタキング=第一世代の言いたいことは全て分かってる。要は「昔はよかった」ってことでしょ? というのがネット上で支配的な反応である。
 だが、岡田氏の議論はそれほど分かりやすいものでもないはずである。にもかかわらず、岡田氏の言うことは分からないと言う人がほとんどいない。それは、岡田氏が最近のオタクや萌えが分からないと言っているのとは対照的である*1
 岡田氏は第三世代オタクのことが分からないと言い、第三世代オタク*2は岡田氏のことを分かっている(かのように振舞う)という、この非対称性は興味深い。
 ここに見られるような消費者マインドは、岡田氏に対してだけ発揮されるわけではなく、ネットでの議論やアニメ作品などに対しても見られる傾向である。議論や作品全体を見ていないのに、それらについて十分に分かっているかのように評価・批判するというのは最近では見慣れた光景である。

・(j)
 ネットでは岡田氏に共感を表明する人より不快を表明する人の方が圧倒的に多い。そうすることによって彼らは自分が被害者であり、岡田氏が加害者であるという形で岡田氏に貸しを作り、自分を有利な立場に置くことができる。

 このゲーム*3のルールは「先に文句を言ったもの勝ち」ですから、このゲームで幼児期から鍛えられてきた子どもは、どんな場合でも、誰よりもはやく「被害者」のポジションを先取する能力に長けてゆきます。人間、生きている限り、さまざまな不快なできごとに遭遇しますが、そのすべてにおいて、「私は不快に耐えている人間」であり、あなたは「私を不快にさせている人間である」という被害−加害のスキームを瞬間的に作り上げようとする。
(p.57)

 実際には、そういった形で岡田氏に貸しを作ったからといって、心理的な利益以上の利益を得られるわけではないのだが、そうでない場合もある。それは、ニコニコ動画やファイル交換で違法に手に入れたアニメ等を観賞する場合である。
 消費者はその価値が分からないものにお金を払うことはできない。だから、とりあえず無料で観賞する。観賞した結果、くだらなかったアニメにはお金を払わなくてもよい。なぜなら、くだらない作品を見ることで時間を浪費し、その間不快に耐え続けたのだから(こちらは「不快という貨幣」を既に支払ったのだから)。そのような心理操作を行って、違法に無料でアニメを観賞している人は、さらに進んで、自らの見るアニメがくだらないことを望むようになる(屈折したダメ指向)。なぜなら、そのほうが無料で違法に観賞することが正当化できて、自分は得するのだから。そして、くだらないと言いつつ、大量のアニメを無料で違法に見続けることになる。そういう人に対して「くだらないのなら見なければいいのに」と突っ込むのは意味がないということは分かるだろう。彼にとっては自分の見る作品はくだらなくなくてはならないのである。

・(h)
 岡田氏などの先達の言葉やメディアや学術的な批評より自分の「萌え」(感性)を優先させる。岡田氏が言うところの「自分の気持ち至上主義」である。
 また、特定の理論的分析だけでなく、自分を含む集団に対する理論的分析そのものを拒絶する心性が見られる。他人が自分のことをさも分かった風に語るという意味で、説教に似たものと感じられ、それ自体に拒否感を覚えるのかもしれない。この心性は一般に女性オタクの方が強いように思われる。オタクであることがアイデンティティの問題=個性(自分らしさ)の問題であるので、十把一絡げに論じられるということ自体が許せない。それによって捨象される小さな差異こそが重要であるのだから。だから、女性たちは一方で自分に対する友人の評価や占いは気にするが、それはそれらが自分の個性(固有名や顔と言い換えてもよい)を認めてくれる(という錯覚を伴う)からであるのかもしれない。

・(i)
岡田斗司夫のひとり夜話』#12*4での岡田氏の発言。
 新聞の記事やニュースを見たとき、評論などものを書く人はまず原典に当たる。それから1週間とか1ヶ月といった時間をかけて考える。昔の知識人は一ヶ月ぐらい考えるのが当たり前だった。それは考えをまとめるため。
 ネット時代は、記事やニュースを見たとき、まず自分の感情が出る。その感情が当たっているかどうかを見るためにいきなり他の人の意見を見てしまう(答え合わせの答えを見るのが早すぎる)。大量に他の人の意見を見れば見るほど、最初に自分が感じた感情が絶対に見つかってしまう。それで自分の感情が肯定され、安心してしまう。そうして、あっという間にみんなと同じ意見になってしまう。あまり愚かなことは書かなくて済むが、その代わり図抜けた意見もなくなる。周りの大勢に逆らった意見が書けなくなる。
 ネットは、いろんな意見があっという間に同一温度になって、一つの似たような価値観に収束していく速度が速くなっていく「祭り化」が激しくなる装置になっている。

・(b)(g)
(g)を端的に表す言葉は「働いたら負けかなと思ってる」。
 ただ先行作品や歴史などの「教養」を知らないだけではなくて、知らないということに積極的な価値を認めている。教養を知らなくちゃ作品を楽しめないなんて不幸だね。俺たちはそんなもの知らなくても十分に楽しめるよ。
 だから学ばない。だから変化しない。観賞する前と後とでは自分が変わってしまっているような作品との出会いを想定できない。教養がそういった出会いをもたらしてくれると信じることができない。

・(d)
 上の記述とも関係することだが、自分が萌えられるものしか観賞しない。
 好きな画風や話ではないが教養だから一応見る、ということはしない。

・(e)
 岡田氏は最近のオタクがバカになったと言うが、正確にはバカになったのではない。昔と今とでは賢さのあり方が違うのである。彼らには、オタク的コンテンツに関する広く深い知識を習得することが賢いとは思われなくなった。彼らは経済合理性に基づいて、オタク的教養を学ぶことからそれに見合う対価を得られないとクレバーに判断しているのである。
 オタクコンテンツが昔に比べて膨大に増えたために、それに比例してオタク的教養も膨大に増えた。それを習得するよりは、豊富なコンテンツを手当たり次第に漁った方が効率がよい(楽しい思いが味わえる確率が高い)。しかも、見逃して困るような作品(私に決定的な変化をもたらす作品)はないのだから。


 岡田氏が、オタクがアイデンティティの問題になったと言うときのオタクとしてのアイデンティティとは、「消費主体としてのアイデンティティ」(p.143)であると言ってよいかと思う。第三世代オタクが全員上のようだということではなくて、岡田氏が「消費するばかりの存在」と言う第三世代オタクは上のような特徴を持つオタクであるということである。

自然主義に対する反論

 ここで少し寄り道するが、後の議論に関係してくることなので、ご容赦いただきたい。


なぜオタクはニコニコ動画を語れないのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
 最近の、ニコニコ動画を楽しむオタク(第四世代オタクとも言われる)が動画を見るのは、それによって「自然な快感」を感じるからであり、彼らが動画を好きなのは「好きだから好き」なのであり、それは認知系よりも行為系が先行させるという「自然な振るまい」である。それ故、「ニコニコ動画は、旧来のオタクによる作品(ソフト)評論を挫く」。
 こういった、「現代のオタク(第三世代あるいは第四世代)は、自然の欲求や快楽に素直なだけであり、それ故理論化に馴染まない」とする考え方を仮に「自然主義」と名づける。細かいニュアンスは異なるものの、しばしば目にしたり耳にしたりする意見であり、その根底には、自分たちはあらゆる理論やイデオロギーから自由であるという自己理解があるように思われる。
 だが、この「自然主義」はナイーブに過ぎる見方ではないだろうか?
 そもそも「自然」という語があいまいである。「現実」という語と同じくらいに。
 自然の対義語は人工だろうが、人間の手の入っていない自然など少なくとも日本にはない。だから、日本には自然は存在しないとも言える。また、人間に関する全ての事象に自然など存在しないとも言える。もちろん、そこには人間の感覚も含まれる。そこにも様々な仕方で人為が働いているからである。
「自然だから理論化できない」というのも全面的に首肯できる主張ではない。
 もちろん、どんな人間も徹頭徹尾理論に従って行為しているわけではない。もしそうだとしたら、他の人(学者)などに分析されるまでもなく、自分の行為を理論で説明することができたであろう。
 だが、人文科学系の学問は人が意識することなく「自然に」行っていることの内に、その行為を合理化している認識を見出そうとする。自然現象が法則に従っているという意識などないのに、物理学者がその内に法則を発見するように。
 そもそも、上で「自然な振るまい」と言われているものは、非常に人工的な環境の中で行われている。コンピューターもインターネットもニコニコ動画も音楽も非常に人工的なものである。なのに、それを見たり聞いたりして快感を感じることがどうして「自然」であると言えようか*5。例えば、人間以外の動物が自然に音楽を聴いて楽しむということがあるだろうか?
 しかも、人の趣味嗜好には文化的な偏りが見られる。それが本当に「自然な振るまい」であるのなら、どうして全人類が同様の振る舞いを行わないのか。つまり、どうして同じ曲を聴き、同じ動画ばかりを見ないのか。器質的な理由があるとは思えない。それにしては多様性がありすぎる。しかも、身体的な差異が理由なら、同一文化圏(日本文化圏、オタク文化圏、等)内で類似した振る舞いが多く見られることや流行り廃りがあることに説明がつかない。つまり、それは趣味嗜好が生得的にではなく(自然にではなく)、後天的に(文化的に)獲得された振る舞い方であるからではないか。だとしたら、その仕組みを分析することは無駄な試みではない。それは、身体化するまで浸透したイデオロギーの析出という意味を有するからである。

僕たちの時代には「ナイーブに自己の称揚」を続ける若者がたくさんいます。「自分らしい生き方」を求めて社会の「常識」に逆らい、きっぱりと「自分らしさ」を実現していると主張する彼らの言葉づかいや服装や価値観のあまりの定型性に僕たちは驚愕しますが、それこそ「階級の特徴づけられた社会構造の規則性に日常的に個人をしたがわせるイデオロギーの作用」の圧倒的な影響力を証示するものでしょう。
(p.115)

 例えば、我々は歩くときに腕と脚とを交互に前に出すのを「自然な振るまい」だと思っているし、身体感覚としてもそうであるだろう。だが、それは歴史的な始まりを持ち(明治以前は腕と脚を同時に前に出す歩き方が普通だったらしい)、教育過程で教え込まれたが故にそのような歩き方ができるようになったのであるが、にもかかかわらず我々はそれを自然な歩き方だと思い込んでいる。
《面白いものは面白い。心地よいものは心地よい。それが「自然な振るまい」である》という認識は非常にイデオロギー的であり、歴史的に見ても普遍妥当な命題ではない。言い換えれば、現代的な定型的反応である。つまり、型にはまった答えであり、そのような考えをナイーブに「自然」だと言うことはできない。それはただ、ディシプリンによって身体に刷り込まれた身体技法やイデオロギーに従順であるということを意味するだけである。
 上のエントリでは、なぜかニコニコ動画の最大の特徴の一つであるコメント機能についてほとんど言及されていない。それは、それが「認知系/行為系」という区別にひびを入れるからであろう。コメントを書き込むまたは読むという行為は、認知系とも行為系とも言える。無理にどちらかに入れることはできるだろうが、そうすると「認知系/行為系」という区別が曖昧にする。だったら、ニコニコ動画ではなくYouTubeを例に挙げておけばよかったのにと思わないでもない。そして、コメントを読み書きすることまで「自然な振るまい」であると強弁することはできないだろう。
 さて、だとすれば、不自然なのが(旧来の)オタクという主張も読み替えねばならない。すなわち、ドミナントイデオロギーに従順でないのが(旧来の)オタクである、というふうに。そして、新たなオタクが自然な振る舞いをしているというのはドミナントイデオロギーに従順になったということを意味する。
 では、ドミナントイデオロギーとは何か。現代の日本においてドミナントイデオロギーとは資本主義(市場経済や等価交換の原理)である*6。上のエントリではニコニコ動画と音楽の類比性を指摘しているが、音楽こそ資本主義イデオロギー(商業主義)に従った最たるものである。とはいえ、ニコニコ動画はまだオタク的な部分、脱資本主義的な部分を残している。だが、最近は「ニコニコ市場」なども作られ、ニコニコ動画も資本主義に接近してきた。ニコニコ動画を提供しているニワンゴは株式会社であるのだから、それは当然のことであるし、そのこと自体は別に悪いことではない。ただ、それに連れてオタク的でなくなっていくというだけである。
 では、(旧来の意味で)オタク的でなくなったオタクはどうなっていくのだろうか?
 僕の予測を述べれば、フェティシズムに似たものになる。
 フェティシズムにもサブジャンルがあり、それぞれにそれなりの数の同好の士がおり、独自の歴史があり、フェティシスト向けの商品が多数存在する。だが、それだけである。独自の歴史があるといっても、歴史好きには意味があっても、個々のフェティシストたちには何の関係も無い*7
 そういったものとしてオタク趣味は存続していき、オタクコンテンツは消費されていく、というのが僕の予測である。「萌え」はその兆候である*8

オタクの一生および死後の世界

 岡田氏のオタク論については既に、『オタクはすでに死んでいる』の元になったイベント「オタク・イズ・デッド」の記事を読んで論じたことがある。
平坦な戦場でおたくが生き延びること−Spur-of-the-moment ideas−考えのはずみ

 基本的には上のエントリを書いた時点と今とであまり意見に変わりはないが、補足説明する形で付け加えておく。
 昔は、オタクはオタクというだけで(ある程度)連帯できた。
 それはオタクの間には共通認識があり、なおかつ、共通の敵(世間)がいたからである。
 細かい違いは措いておいて、自分たちは同じオタクだという仲間意識を感じていた。
 だが、今の「萌え」は排除の原理になっている。
 オタクかどうかは個人の(アイデンティティの)問題となり、共通認識でつながったオタクという集団(トライブ)はなくなった。
 もちろん、オタクと呼ばれる人、オタクと自任する人はまだまだたくさんいるが、その内実は各人で異なっている。ほとんど共通項がないほどに。「萌え」という言葉でかろうじてつながっているが、逆に言えば、それぐらいでしかつながることができないということでもある。しかも、それは言葉によってつながっているように錯覚しているだけで、その「萌え」の内実はやはり各人で異なっている。
 例えば『涼宮ハルヒの憂鬱』だったら、昔なら、少なくとも『ハルヒ』オタクを自称している者は原作ラノベを読んでいると前提できたであろう。だが、今はそんな前提は無条件には成り立たない。ラノベから『ハルヒ』に入った者、アニメから入った者、ニコ動から入った者、ラノベを読んでアニメを見ていない者、アニメは見たがラノベを読んでいない者、ニコ動でハルヒMADは見ているが、アニメ本編は見ていない者。他にも、コスプレだけ、同人誌だけ、ダンスだけといった自称オタクがいるであろう(少なくともいないと確言することはできない)。
 それが「共通認識」がなくなったということ(の一端)である。


 それから、今回のことで岡田氏がオタクを捨てたという非難が散見されるが、岡田氏のオタク第一段切り離しは、ガイナックスを退社したとき(1992年)に既に完了していると思われる。
 そして、退社後に出版した処女作は『ぼくたちの洗脳社会』(1995年)であった。『オタクはすでに死んでいる』にも見られる、岡田氏のグランド・セオリー志向はこの頃から既に表れている。
 おそらく、1998年ごろオタク切り離しは第二段を迎える。2005年ぐらいまでの時期に、『フロン―結婚生活・19の絶対法則』など結婚や恋愛に関する本や『プチクリ!―好き=才能!』などの生き方本を多く出している。同時にオタクに関する著作も公刊している。両輪立ての時代。
 そして、今は第三段切り離しに入ったのだと思われる。『オタクはすでに死んでいる』や「岡田斗司夫の『遺言』」などで過去のオタク遺産の整理を行い、『いつまでもデブと思うなよ』をメインブースターにして、新たな宇宙へ飛び出して行きたいという思惑があるのだろう(オタクから完全に足を洗うというわけでもないとは思うが)。
 叶姉妹の肩書き「トータルライフアドバイザー」は岡田氏にこそふさわしいと思う。叶姉妹はスーパー読者だったが、岡田氏はオタクだった。でも、何がしたいのか、何をしているのか、どうやって儲けているのかはよく分からない。みたいな?


 岡田氏が「死んでいる」と言うオタク(強いオタク)と現存しているオタク(第三世代オタク)が同じ「オタク」という名前で呼ばれるのが事態をややこしくしている。両者を別の名前にすれば混乱は少なくなると思うが、岡田氏によれば両者は別物であるが、なだらかな連続性があるので、簡単に別の名前にするわけにもいかないだろう*9。そこで比喩を用いて、両者を分かりやすく区別する努力をしてみよう。


・集団およびそのメンバーを指す名称だったのが、形容詞に
「オタク」とはオタク的特徴のいくつかを有する人、オタク的な人という意味になった。
 だから、「オタク」という言葉の無かった時代にもオタクはいたと言うこともできるようになる。


ラカンの「女は存在しない」というテーゼとの類似
 このテーゼに対して「女性は現に存在しているじゃないか」「私は女性です」と反論してもあまり意味は無い。そんなことは承知の上で言っているからだ。
 このテーゼの意味するところはこうだ。
《「女は存在しない」という言葉をもっとわかりやすく言い換えるなら、「女性を言葉で明確に定義づけることはできない」というほどの意味になる。》(斎藤環『生き延びるためのラカン』p.152)
 一般化された「女性なるもの」はどこにも存在しない。だから、女性を言葉でもって定義することはできない。
 同様の意味で、「オタクは存在しない」=「オタクはすでに死んでいる」。
 だから、これに対して、「オタクはまだいるじゃないか」とか「私はオタクです」と言っても反論にはならない。


・オタク=モード
 オタクにファッションのような「モード」がなくなった。流行を気にして服を着る(あるいは、着ない)ということがなくなり、それぞれ個人が好きなものを着るようになった。その事態を「ファッションは死んだ」と呼ぶことができるように、「オタクはすでに死んでいる」と言うことができる。


 岡田氏の議論の解釈およびまとめはこれぐらいにしておく。
 では、岡田氏の議論から離れて、岡田氏の言論やそれに関するネット上の言論を読んで考えた、僕なりのオタク論を展開してみよう。
 第一世代から第三世代の間でいちばん変化したことは何であろうか?
 岡田氏は第一世代を「貴族」、第二世代を「エリート」と呼ぶ。第三世代は明言はしていないが一般大衆(「消費するだけの存在」)となるだろう。かなり単純化して言えば、「富裕層→中流階級下流」という流れである。これは、オタクが大衆化していく流れである。
 なぜオタクは大衆化したのか? その根底には、一言で言えば、オタクであるために必要とされるコストの減少がある*10
 費用(購入費、交通費、参加費、等)の低下、社会的圧力(オタク差別や親からの圧力)の低下、必要な知識(教養)の低下、手間(本屋に行く、都会に行く、情報をチェックする、特定の時間にテレビの前に座る(ビデオを予約録画する)、自分の趣味嗜好を他人に分かってもらう、趣味の異なるオタクと付き合う、等)の低下などがざっと考えられる。
 つまり、「オタク趣味のコストパフォーマンスは良くなる一方」なのである。
 一言で言えば、オタク趣味の一般化と格差社会化の相関ということなのだが、これについては多くの人が指摘している。

・参照(リンク先も参照):
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080512/1210583059

 極言すれば、萌えられさえすればオタクになれる時代になった。
 岡田氏が述べる第三世代オタクの欠点はほどんどコスト低下の副作用だろう。
 限られた人しか入れない場所と、誰でも入れる場所とでは、入ってくる人の質が異なる。そもそも母数が増えるのだから変な人も増える(割合は変わらなくても絶対数が増える)。「大学全入時代になったら、大学生にもバカが増えた」という言説と同じである。


 オタクが大衆化したとはどういうことかと言えば、オタクが資本主義化したということである。
 オタクは元々資本主義から距離を取る人たちだった。「貴族」「エリート」といった岡田氏の言葉遣いにもそのことが表れている。
 本田透氏も『電波男』などで恋愛資本主義を批判し、その外部にいる人たちとしてオタクを擁護しようとした点でこの伝統に則っている。
 もちろん、オタクは資本主義の恩恵に浴した、資本主義の申し子であり、資本主義社会下でしか生まれえなかった存在であろう。だが一方で、資本主義が想定していたのとは別の仕方で資本主義を享受したという側面もある。その証拠に、資本主義社会ならどこにでもオタクがいるわけではない。今でこそ、ある程度世界にオタク趣味は広がりつつあるが、その発祥は日本であり、他の国のオタクは同時発生的に生まれたものではなくて、多かれ少なかれ日本の影響を受けて生まれたものである。だから、オタクは非資本主義的とは言えないまでも、脱資本主義的であるとは言えるだろう*11
 分かりやすい例は二次創作同人誌である。コミケで行われているのは紛れもなく商行為であるが、かといって商業主義に染まりきってもいない。市場原理に照らせば許されないはずのことが、そこでは許されている(黙認されている)。
 自覚的かどうかは別として、オタクとは資本主義の内部で資本主義に抵抗しようとする運動、資本主義から享楽を搾取しようとする運動であったのだ。
 それが、最近のオタクはどんどん高度資本主義的エートスを身に着けつつある。高度資本主義的エートスとは、消費者マインドのことであり、市場経済や等価交換の原理である。
 つまり、オタクは文化でなくなり、商業活動になっていくということである。オタクコンテンツは「作品」ではなく「商品」「製品」となる。それが「オタクはすでに死んでいる」ということでもある。「消費するばかりの存在」とは何も作らないということではなく、何かを作るときに作品としてではなく製品として作るということである。そして、受け取る側もそれを作品としてではなく製品として受け取り、消費するということである。
 野村総合研究所の「オタク市場の研究」などをはじめとして、オタクおよびオタクコンテンツをビジネスの観点から捉えようとする動きが出てきて久しい。TVでオタクが頻繁に取り上げられるようになったのも、その一環である。これから新たにオタクになる人の大半はそういった観点を通過した上でオタクになっていくだろう。だとすれば、オタクの資本主義化はこの先も進むと思われる。しかし、もちろん、まだまだその流れに抵抗している場も存在していると思う*12
 ただし、資本主義化自体は悪いことではない*13。そんなことを言ったら、資本主義下で生きる自己否定になってしまう。ただ少し寂しくはあるが、それは個人的な感傷である。
 そして、もしオタクの資本主義化(市場原理への取り込み)が完了したなら、次に来るのは、世代間闘争ではなく、消費するオタク(金を出すオタク)と消費しないオタク(金を出さないオタク)の間の対立であるだろう*14


 最後に妄想。
 オタキングはもう一度オタクを一つにするために、あえて自らをオタク共通の敵とすることで、スケープゴートになったんだよ。
 宮台真司氏における天皇を反転させたような存在になったという意味ね。
 さすがオタ“キング”。

*1:そうは言っても「定義」しちゃうのがお茶目な点なのだが。

*2:岡田氏に倣って、「第四世代オタク」という言葉は使わず、第四世代と言われることのある世代(90年代生まれ)も第三世代オタクに含める。

*3:「この家庭のメンバーであることから最大の不快、最大の不利益をこうむっているのは誰か?」をめぐる派遣争奪戦。

*4:「パソコンテレビGyaO」内の番組

*5:それを「自然」だと感じる感受性の広がり(動物化)の方に重点を置くなら、それを(広い意味で)「自然」(人工的な自然、ゲーム的な自然)と呼ぶことも許されるかもしれないが、だとしても、理論化を否定する根拠にはならない。動物にだって、例えば動物行動学(ethology)などが成立するのだから。

*6:http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080513/1210715284参照。ここで言う「普通」は、今問題にしている「自然」とほぼ同じ意味だと思われる。

*7:フェチの世界のことはよく知らないので間違っていたらご指摘ください。

*8:萌えとフェチが一緒という意味ではなく、萌えがフェチに限りなく近づきつつあるという意味。例えば、アイマスMADブームを駆動しているのは「動き萌え」だと思うのだが、それは従来の萌えよりフェチに近い(俺と萌え(番外2)斉藤環氏とのやりとり: たけくまメモ

*9:せいぜい、「おたく」「オタク」「ヲタク」と表記を変えるぐらいか。

*10:同じことは、ニート非モテ非コミュなどの増加にも言えるだろう。参照:http://news.ameba.jp/weblog/2008/05/13673.html

*11:この場合の資本主義はグローバリズムと言い換えてもよい。

*12:先に挙げたニコニコ動画とかコミケとか。しかし、これから先もずっとそういった場であり続けるかどうかは予断を許さない。というのも、オタクの聖地と言われている秋葉原は既に資本主義の論理に飲み込まれてしまいつつあるように見えるからである。

*13:例えば、アニメの制作現場では脱資本主義的エートスの故に資本主義的システムによって搾取されている人たちがいるが、そんな人たちはもっと資本主義化した方がよいと思う。すなわち、労働者としての権利をもっと主張していいと思う。

*14:そこで以前のエントリで書いた「オタクのヤンキー化」が重要になってくる。ヤンキー化したオタクあるいはオタク化したヤンキーは金を出すが故に、金を出さないヤンキー化していないオタクを糾弾・差別するという構図が生まれるのではないか。もちろん、業界側は金を出してくれる前者を応援するだろう。まぁ、単なる夢想に終わってくれればそれでよいが。