子育て映画としての『コクリコ坂から』

 言わずと知れたスタジオジブリ制作のアニメーション映画であり、宮崎駿氏の長男、宮崎吾朗氏の監督第二作。
 吾朗監督は、1967年生まれ。30歳までアニメとは全く関係ない仕事をしていたが、その後、三鷹の森ジブリ美術館建設に関わり、同館長を務めた後、2006年『ゲド戦記』で監督デビューした。それには鈴木敏夫プロデューサーの意向が大きく、宮崎駿氏は強硬に反対したという。宮崎駿氏の息子の初監督作ということで注目を集めたものの、『ゲド戦記』の世間での評価は、あまり芳しくなかった。とはいえ、2006年邦画興行収入1位でもあった。

ゲド戦記 (映画) - Wikipedia
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 さて、今作であるが、舞台は横浜、時代は1963年。
 海を見下ろす坂の上に立つコクリコ荘。その名前通りにコクリコ(ひなげし)に囲まれた、その古い家は、元は病院だったが、現在では下宿屋となっている。そこには、家主の松崎花と、その孫の海、妹の空、弟の陸、それと、3人の下宿人が暮らしている。
 海の母親は大学教授で、アメリカに行っており不在。父親は船長だったが、海たちが幼い頃に、航海中に事故で船が沈んで死亡した。
 海がコクリコ荘の家事一切を取り仕切っており、学校へ行っている間だけはお手伝いさんを雇っている。そして、コクリコ荘の庭から父親のために毎朝「安全な航行を祈る」という意味の信号旗を揚げるのが日課である。
 海は高校二年生で、海という意味のフランス語「メール」(mer)から「メル」とも呼ばれている。海の通う港南学園では、現在、文化部部室が集まる建物「カルチェラタン」の取り壊しが計画されており、それに反対する一部生徒が反対運動を行っていた。その中心人物は、三年生の新聞部部長・風間俊とその親友で生徒会長の水沼史郎。
 俊は女子生徒たちの憧れの的。父親はタグボートの船長で、登校する際は途中まで乗せて行ってもらっている。その船上でいつも海の揚げる旗を見て、その返礼として船の信号旗を揚げているが、それは海からは見えていない。
 新聞部では「週刊カルチェラタン」を発行しており、成り行きで海はそれを手伝うことになる。そうしている内に互いに惹かれあう海と俊だったが、しかし……。

 冒頭部分、説明がほとんどないまま場面が次々に進んでいくため、いまいち分かりにくかったので、後で得た情報を元に再構成してみた。
 予告編を見ただけでは全然魅力を感じなかったので観に行くつもりはなかったのだが、結構褒めている意見を見かけたので、それならばと観に行くことにした。
 しかし、率直に言うと、面白くなかった。というか、面白がれなかった、楽しめなかった。監督の前作『ゲド戦記』よりは断然良いし、全然酷いとは思わないのだが、いまいち入り込めなかった。だから、褒めている人たちがどうして褒めているのかがよく分からないというのが正直なところである。
 だが、良くも悪くもジブリらしい映画であることは確かである(新しい試みも行われているが)。そこで、僕がジブリらしいと思った点を列挙してみる。

・髪へのこだわり

 ジブリ作品においてヒロインが髪を結んだり、留めたりするのは、決意の表明であり、戦闘準備である。だから逆に、髪をほどいているときは無防備であることを意味している。そして、髪にはこだわるが、ファッションには無頓着なのもジブリ作品の特徴である。ジブリヒロインが服のブランドにこだわったり、ファッションに手間暇かけることはほぼない(サブキャラは必ずしもそうではないが)。

・子供が働く

 ヒロインの海は高校二年生でありながら、コクリコ荘を切り盛りし、家事一切をこなしているが、それを厭う素振りも見せない。学生たちは、カルチェラタンの大掃除の際には、女性も含め、大工仕事に精を出す。

プラトニックな恋愛。

 恋愛のドロドロや性的なものが一切出てこない。本作は時代設定もあるが、高校生だというのにキスすらしない。甘いイチャイチャがない。あくまで清い交際である。

・声優嫌い

 相変わらずの職業声優嫌い。にもかかわらず、案外ミーハーな声優選び。ヒロイン役の長澤まさみ氏は特に独り言が下手だった。全体的に笑い声がわざとらしくて上滑りしていた印象。手嶌葵が声優として歌いだすシーンは明らかに声質が変わっていて違和感があった。一人だけ録音方法が違うんじゃないかと思うほどである。

・その他

 横浜が舞台ということもあって、同じく港町が舞台だった『崖の上のポニョ』を思い出させる。船にちなんだ交信方法が出てくるのも同じであるし。
 ヒロさんは『魔女の宅急便』のウルスラっぽい。
 カルチェラタンは、その階層構造と乱雑さが『千と千尋の神隠し』の湯屋を彷彿とさせる。

 そして、ジブリらしい最大の箇所がキャラクターたちが真っ直ぐであることである。どのキャラクターも真面目で、いつも背筋をピンと伸ばして胸を張っていて、背中を曲げて歩いたりしない。坂本九氏に言われるまでもなく、いつも上を向いて歩いている。彼らは真っ正直で、嘘をついたり、ごまかしたりしない。明朗闊達で勇敢で後ろ暗いところがない。他人を不当に貶めたりせず、快活。生真面目で生硬で青臭い。凛として、常に人の目を真っ直ぐに見て話す。陰湿さがなく、ジメジメ、ウジウジしていない。悪人は一人も出てこず、「気持ちのいい連中」ばかり。
 だが、それこそが僕が本作を楽しめなかった理由なのである。

 有り体に言って、本作は、学生運動的なものを全肯定する映画である。
 後に、学生運動安保闘争は急速に衰退し(ほぼ失敗に終わり)、連合赤軍事件などでその闇の部分の一端を覗かせたが、時代設定の妙もあり、カルチェラタン取り壊し反対運動に参加している学生たちにはまだ全然屈託がない。ただ自分の信じるところに従って学校側と闘う純粋さ、若いエネルギーの真っ直ぐな発露があるだけである。
 そして、僕が本作にのめり込めなかったのは、まさにそれによるところが大きい。その真っ直ぐさについていけないというか、引いてしまったというか、鼻白んでしまったのである。
 自らの正義に何の疑いも持っていないようなところ、他者と触れ合うこと・意見をぶつけ合うことを全く怖れないところ、常に「太陽のあたる場所」を歩いているといった風情なところ、一言で言うと“勁い個人”であるところ、そういったところが、僕自身の性格や趣味嗜好と合わなかったのである。そういった勁さを、僕は眩しく感じると同時に、敬遠したいと思ってしまう。お近づきにはなりたくないと思ってしまう。
 公式サイトの「プロダクションノーツ」などを読むに、確信犯的にそのようなストレートなキャラクター造形にしたらしいが、僕にはどうにもリアリティが感じられなかった。昔の日本人はそうだったんだと言われても、日本人は曖昧表現を得意とするとか、自己表現が苦手だとか、本音と建前の使い分けとかいった伝統的な日本人論とどう調和するのか分からないし。そういう人たち(全共闘世代)が現在の日本社会を作ったはずだろうに、昔は違ったと言われても簡単には信じられない。
 本作はおそらく、宮崎駿氏やプロデューサーの鈴木敏夫氏の「黄金時代」を描いた作品である。黄金時代とは、ノスタルジックに回顧された青春時代のことである。悪いことは忘れ去られ、よいことばかりが思い出され美化された、記憶の中にだけ存在する「あの頃はよかった」時代のことである。
 そして、それを監督しているのが、その時代にはまだ生まれてもいなかった宮崎吾朗氏であるというのが面白いが、このことについてはまた後で触れる。
 ちなみに、この時代設定は映画オリジナルである。原作マンガではもっと後の時代(1980年頃)の話である。この変更は当然、企画・脚本の宮崎駿氏の意向が大きいと思われる*1押井守氏によれば、鈴木氏の意向も大きいようだが)。
 というわけで、その後顕著になる学生運動等の負の部分は本作では描かれていない。ただ無視されるだけである。本作を観ても、彼らが作ったはずの今の社会がなぜこうなっているのかは分からないし、今の社会を改善する処方箋も示されてはいない*2。無論、それはそれで、娯楽に徹するというアニメーション映画のあり方の一つではあるのだが、そういう割り切りがあるとも思えない(というより、本当はどういうつもりなのかあまり見えてこない)。
 すなわち、キャラクターたちの性格が全体的に苦手なタイプであることと、人間、そんな綺麗事ばかりじゃないだろうという脳内ツッコミのせいで、本作にあまり没頭できなかったのである。そこらへんは「ファンタジー」だと割り切ればよいのだろうが、そう割り切るには、設定や作画や関係者発言に含まれるリアリティが邪魔をする。逆に言えば、本作を純粋な「ファンタジー」として見るのは割り切りすぎだろうと思う。

 さて、楽しめなかったものを楽しめるものにするために、解釈という迂回路を経由したいと思う。僕の常套手段なのだが、解釈することそのものが一つの楽しみ方であるのと同時に、解釈の結果現れる作品の別の新たな姿――それは別の新たな物語と言ってもよい――を楽しむのである。
 そういうことなので、しばらくお付き合い願いたい。
 予め結論を述べておくと、タイトルにもあるように、本作は子育て映画である。

 本作は、というより、集団作業で作る映画というものすべては、多層的である。異なる複数の層(レイヤー)から映画は出来ており、それらの内のどの層に注目するかによって感想や評価が変わったりする。僕はこれから本作のいくつかの層に注目し、その他の層は無視する。僕が無視した層(作画や音楽など)については他の人の意見を参照していただきたい。僕が注目する層は、構造、テーマ、海の物語、男の物語、監督の物語である。

 以下、ネタバレあり。

構造

 本作を構造的な観点から見ると、すれ違いを埋めていく物語である。
 本作の構造を象徴しているのは、海が毎日揚げる信号旗である。
 海が揚げる信号旗を俊は見ていて、返礼としてタグボートの信号旗を揚げるが、海の位置からはそれは見えないので、そのことを海は知らない。俊は俊で、自分が返礼しているのを海が知らないということは知らない。後に海はヒロさんからタグボートの旗のことを知る。
 一方からは見えるが、他方からは見えていない。だが、見えている者も、相手が見えていないということは知らない。だから、わざわざ改めてそのことを相手に教えたりはしない。そこで発生するのが知の不均衡、食い違いである。
 この知の不均衡を発生させているのは彼我の高低差=坂であるという点は興味深い。
 知の不均衡=食い違いが二人のすれ違いを生み、不幸をもたらす。そして、双方の知が共有され、食い違いが解消されれば、幸せが訪れる、というのが本作の構造である。
 例えば、信号旗がそうであるし、俊の出生の秘密がそうである。
 俊の出生の秘密を最初は俊だけが知っており、海は知らない。海もそれを知ることで二人はいったんは疎遠になるが、それは正しい情報(知識)ではなかった。その誤解が生じたのは、海の父親と俊の養父の間の知の不均衡のせいで(前者が後者に俊が自分の実子ではないと伝えなかったせいで)生じた悲劇である。その後、海が母親から真実を知り、遅れて俊もそれを知ることでハッピーエンドとなる。このタイムラグは物語上不自然なだけに興味深い(二人が一緒に知ることにした方が、物語上はすっきりしていたはず)。
 それだけでなく、ほかには理事長と学生たちの間でも同じ構造が見られる。理事長がカルチェラタンを実際に訪問し、学生たちとの食い違いが埋まることによって、取り壊し中止という幸せな結果がもたらされる。その展開に関しては、あまりにもあっさりと問題が解決されすぎだと思った人も多いと思うが、本作がそのような構造に貫かれていると考えると納得しやすくなるだろう。
 さらに言えば、その展開は、カルチェラタンの問題がそのような形で解決することで、同じ構造の海と俊の問題も、同様に解決することを前もって示唆しているのだと言える。逆に、カルチェラタンの問題が不首尾に終わっていれば、海と俊の間にも暗雲が立ち込めることになったであろう。
 本作の最後、海は初めて海の上からコクリコ荘の旗を見る。それは、俊が毎朝見ていた光景を共有することである。すなわち、二人が同じ知を共有する=知の不均衡を解消することで終わるわけである。僕が本作は「すれ違いを埋めていく物語」だと言った理由が分かってもらえただろうか。
 ここにあるのは、知識の差(無知)が誤解(すれ違い)を生み、誤解から不幸が生じるが、当事者と会って、きちんと話をすれば誤解は解けるという、ある意味、素朴なコミュニケーション観である。

テーマ

 本作のテーマは一言で言えば、「古いものを大切にしよう」であろう。
 それは、全学討論会における俊の演説で端的に表明されている。
「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」
「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」
「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」
 ここで述べている「古いもの」とはカルチェラタンのことであるが、同時に、コクリコ荘のことも指している。そして、それは父祖たち(の記憶)を大切にするということでもある。それは、物語の終盤の展開、父親たちの思いを知るということへも繋がっていく。
 本作では、古いものイコール尊重すべき素晴らしいものなのである。そうでない古いものもあるというツッコミは野暮というものであろう。

海の物語

 本作を海の物語として見るなら、一言で言うと、ファザコンの少女が、父親の承認した相手と結ばれる物語である。
 海が毎朝旗を揚げるのは父親のためである。10年も前に亡くなった父親のことを未だに引きずっているのである。そして、父親のために揚げた旗に対して返礼するのが俊である。だから、海は俊に言う。
「私が毎日旗を揚げてお父さんを呼んでいたんで、お父さんが代わりに風間さんを贈ってくれたんだと思うことにしたの」
 しかも、その俊は海の父親が親友から引き取って自分の戸籍に入れた子供であったということが後に判明する。
 俊は、二重の意味で海の父親からの承認を受けており、父親からの贈り物である。故に、彼女は俊を好きになるのである。
 この解釈が身も蓋もないと思われる方のために傍証を一つ提出しておこう。俊は初登場時、養父のタグボートに乗って海からやって来る。海で亡くなった父親に向けて旗を揚げ、俊はそのメッセージを受けて海からやって来る。それは俊が海の父親の身代わりであるという証拠である。
 では、なぜ彼女はそれほどに父親(の承認)を必要とするのか? それは彼女が母親を持たないからである。生物学上の母親はいるが、海外へ行ってほとんど育児放棄状態である。母方の祖母も、母親代わりという感じではない。むしろ、彼女自身が母親の役割を演じている。したがって、母親のパートナーである父親を欲せざるをえない。もちろん、二重の意味で父親と結ばれることは不可能だから(実父であり、既に亡くなっているので)、父親の承認した男性と結ばれることができればそれが最善である。

男の物語

 本作の主人公は女性なわけだが、同時に女性の影が妙に薄い作品でもある。ヒロインの海以外はほとんど印象に残らない。彼女の妹の空が少し印象に残る程度だが、途中からはほとんど空気である。
 それは海以外の女性がほとんどストーリーに関与しないからである。女生徒たちはほとんど名前も分からぬモブだし、コクリコ荘の住人たちもどういう人たちなのかよく分からないし、海の祖母も母親も作中で大した役割を果たしてはいない。ストーリー上の役割も、肉親としての役割も。
 それはどういうことかというと、ヒロインである海が、本作における女性性を一身に担っているということである。彼女は登場人物たち皆にとっての母親であり、恋人である。
 前者は分かりやすいだろう。冒頭、海が家族と下宿人たち全員のために食事を用意するシーンから本作は始まるのだから。彼女は、コクリコ荘の家事を一手に引き受けている。それだけでなく、家計のやりくりも彼女がしているようだ。すなわち、コクリコ荘において母親の役割を担っているのは、祖母でも母親でも妹でも、ましてや下宿人やお手伝いさんでもなく、海である。コクリコ荘は、吾朗監督曰く「女の館」であるが、そこで女性性を発揮するのは海だけなのである。他の人たちは「職業婦人」であったり、技術を持っていたりして、伝統的な(近代的な?)女らしさからは逸脱している(むしろ「男前」である)。誰にも恋人がいる様子もないし。
 本作が学生運動に肯定的であることとも関係するのだろうが、本作に登場する女性たちは、(経済的に)自立していて、あるいは自立を志向していて、専業主婦は一人も出てこない(もしかしたら、俊の養母がそうかもしれないが、確証はない)。すなわち、ウーマンリブ的またはフェミニズム的である。
 後者に関しては少し説明が必要だろう。風間俊は女生徒たちの憧れの的であると言われている。海の妹の空も、彼に憧れていた。だが、俊と海の仲が深まっていくのを邪魔したり、それに嫉妬したりする(少女マンガではお馴染みの)女性は現れない。それどころか、二人は、いつの間にか、まるで全校生徒公認のカップルであるかのようになっている。学生たちを代表して東京へ行く俊たちに唯一の女子生徒として同行することになった際も、生徒たちから祝福されている。空もいつの間にか俊に憧れていたことなど忘れたかのように、二人の仲を見守っている(生徒会長の水沼に鞍替えしたと思わせる描写もあるが)。そして、本作において、彼ら以外の恋愛やカップル(夫婦は除く)が描かれることはない。それはどういうことかというと、海と俊のカップルは、全校生徒にとって模範(モデル)・象徴なのである。
 以上のことをまとめると、海は本作における唯一の「女性」であり、いわばグレートマザー(みんなのお母さん)なのである。

 女性たちの存在感が薄いのに対して、男性たちの存在感は大きい。学生たち、父親たち、理事長、男たちが生き生きしていて印象に残る。そういう意味で、本作は男性の物語である。
 それについて語るために少し回り道をさせてもらう。
 本作における構成の最大の問題点は、俊の出生の秘密が二度語られるということである。クライマックスで、海と俊が揃って小野寺から話を聞く前に、海と観客たちは、彼女らが本当の兄妹でないことを海の母親から聞かされて知っている。故に、クライマックスのカタルシスが薄れてしまう。
 ドラマを盛り上げるためには、観客たちはもちろん、海も小野寺から初めて真相を聞かされるという展開にした方が断然よかっただろう。そして、それは少しのシナリオ改変で可能だったはずである。
 しかし、それがミスではなく狙いであったと考えてみることにしよう。そうするとどうなるか?
 俊の出生の秘密が明かされること、そして海と俊の恋愛が成就することが、本作のメインではないということになるであろう。その傍証としては予告編が挙げられる。
 本作の予告編では俊が海に自分たちは兄妹であると告げるシーンも出てくる。「ということは、そのままでは終わらないはずだ」という予想を観客は当然抱くはずである。もし二人が兄妹でないという事実が明らかになることが作劇上のクライマックスであると制作者側が考えていたならば、そのような予告編は作らなかったはずである。
 では、一度目と二度目で何が違うのか? 二度目には、俊が引き取られた経緯が詳しく語られるという点が異なっている。ということは、それこそが本作が最も強調したかった点であると考えてよいだろう。すなわち、彼らの父親たちの友情・絆こそがこの物語のメインなのである。
 宮崎駿氏曰く、この時代そういうことはよくあったことなのだそうで、昔の美風を今の人たちに伝えたいという意図もあるのだろう。それは「古いものを大切にしよう」というテーマともつながっている。

 そこにあるのは、船乗り仲間(商船大学の同窓生)の男同士の友情であるが、それはホモソーシャル的でもある。

ホモソーシャル - Wikipedia
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 船に女性を乗せるなという禁忌は誰もが一度は耳にしたことがあるだろう。船乗りというのは、長い間男性たちだけで生活して、一致団結して困難を乗り越えたりするので、非常にホモソーシャル的になりがちである。「港々に女あり」というのも、一種の女性嫌悪だと考えられる。
 俊は実父の立花洋から戸籍上の父・澤村雄一郎へ、雄一郎から養父の風間明雄へとやり取りされる。それは、女性を交換することで、ホモショーシャル内の紐帯を強めるのと相似である(例えば、同じ風俗店に連れ立って行くとか)。
 レヴィ=ストロース的に言えば、俊は贈り物として機能したのである。贈り物をやりとりすること(贈与)によって集団内や集団同士の関係性が維持されたり深められたりするというのがレヴィ=ストロースの発見だった。典型的なのは婚姻(=女性の交換)である。
 そして、俊が贈り物である以上、明雄は俊を長く占有することはできない。俊と海が結ばれれば、俊は雄一郎の娘へと贈り返される(反対給付)ということになる。
 彼らの関係から女性が排除されているという主張を補強してくれる点を一つ挙げておくと、身寄りのない親友の子供を引き受けるのはよいが、その際、男たちは実際にその世話を引き受けることになるであろう妻に前もって相談したりはしない。小野寺も、「その時、自分は海に出ていたが、沢村と同じことをしただろう」と言うが、「妻の了解が得られれば」などと断りを入れたりはしない。
 彼らの友情の間に、女性が入り込む余地はない。

 カルチェラタンもまたホモソーシャル的である。そこは「男の魔窟」であり、女子生徒は入ることさえ躊躇われる場所として描かれている(それでいて、同性愛者はいない)。
 大掃除をきっかけにそれも変わるかもしれない。だが、取り壊し反対という形で、変わることを拒否した彼らが、カルチェラタンアイデンティティを揺るがすような変化を受け入れるだろうか? 僕はそれは疑わしいと思う。大掃除の時に女性を受け入れたのは、それが女性の仕事だと男たちが思っているからではないか。だから、ある意味安心して、あくまで一時的な措置として女子生徒たちを受け入れたのではないか。そういう疑念を捨て切れない。

 そして、そんな父親たちと仲間たちを持つ俊がどのような男性になるのか不安ではある。
 彼が運動家であることはその不安の否定材料には成り得ない。
 進歩的で開明的な思想を身に付けたはずの連合赤軍の男性たちが、口先では「男女平等」を唱えながら、女性メンバーたちに対して因習的なジェンダー・ロールを押し付け、いかに抑圧的に振舞ったかについては、大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍サブカルチャー戦後民主主義』などを参照して欲しい。
 本作内での俊と海の関係を見ても、本作の中でただ一人女性性を体現する海は、でしゃばらず、あくまで俊の仕事をサポートするだけである。
 母親は大学教授だが、海は自らの主義主張を声高に述べることはなく、俊と議論を闘わせることもない。俊の言動に対して、異議を唱えることもない。カルチェラタンを掃除すれば良いという提案もあくまで提案であり(しかも、いかにも女性らしい提案であり)、それを採用・実行するのはあくまで俊である。
 俊は、海の提案であっても海が主導権を握ることを認めず、自分から行動しろとか、自分自身のしたいことをしろとか、自分の夢を目指せなどと海に言うことはない。自分を補佐させているだけである。
 その行動から見るに、俊はかなり家父長的な夫になるだろう。二人のその後が心配ではある。二人の間に生まれた息子が、俊に対して「あんたに育てられた覚えはない!」とか言い出したりしないかとかw。

 いささか想像の翼を広げすぎたが、本作は基本的に男たちの物語(ドラマ)であり、本作内に女たちの物語は存在しない。ただし、そのように主張しているからといって、倫理的に非難しているわけではない。

監督の物語

 ここで物語の外へ目を転じてみよう。
 宮崎吾朗監督の前作『ゲド戦記』と本作とを比べてみると、暗から明への移行は明らかである。前作は終始暗いトーンだったが、本作は途中こそ暗い雰囲気になるが、結末は非常に明るい。この違いは何を意味するのだろうか?
 前作では父殺しを描いた吾朗監督だったが、本作ではインセスト・タブーを描いている。俊は海に対して欲望(お望みならば、愛情と言い換えてもよい)を抱くが、彼女が妹であると知って(勘違いなのだが)、欲望を断念する。これは、そうとは知らずに母親と結婚したオイディプスに倣ったかのようであり、エディプス・コンプレックスからの卒業(「去勢」)と同じ過程である。
 父殺しに近親相姦の断念。これでエディプス・コンプレックスの構成要素が出揃ったことになる。だとすれば、本作が明るいのは、エディプス期を卒業し、父親との同一化を果たしたからだということになる。
 本作は、親の時代を礼讃した映画を息子が監督するという奇妙な映画である。宮崎吾朗氏は、自分が生まれる前の時代を描いた作品を監督したわけである。もちろん、企画と脚本を宮崎駿氏が担当しているからという理由はあるだろう。しかし、父親たちの青春時代(黄金時代)を描いた作品を監督するということが、人に何をもたらすのかを考えると興味深い。しかも、そのテーマは「古いものを大切にしよう」であり、それは言い換えれば「父親を大切にしよう」ということでもある。
 そして、構造の点から見ると、お前と俺との間には誤解があるが、それが解消されさえすれば、良好な関係になれるという父から子へのメッセージを読み取ることもできる。

 そこで僕は、本作は「子育て映画」であると主張したい。
 それは、子育てを主題として扱った映画、という意味ではなく、子育てのために作られた映画という意味である。それは、本作を監督させることで宮崎吾朗氏がスタジオジブリの次世代を担う監督として成長するのを促すというだけではなく、内容(物語)のレベルにおいても、成長を促す映画であるという意味である。
 ここで言う成長とは、子供を母親から引き離し、父親の世界=社会に組み入れる(ホモソーシャル的集団に加入させる)ことで「一人前」の男にすることである。そのために、父親たちの経験したこと、父親たちの人生を追体験させることで、父親との同一化=成長を促すというのが、この映画(物語)の機能である。
 吾朗監督は、1年以上にわたって、父親の書いたシナリオと向き合い、それについて真剣に考え続けねばならなかったわけで、かなり深いレベルまでシナリオにコミットせざるを得なかっただろう。そのことが及ぼす教育効果は、計り知れないものがあっただろう。普通の父子ではあり得ない教育方法である。
 そして、子育てのための映画だから、あえて暗部を描かなかったと思われる(パンフレットなどを読むに、宮崎駿氏は、この時代の暗部を僕などより遥かに承知している)。世間の厳しさは世間から学べばよい。親の役割は世間の厳しさを教えることではなく、時には子供と世間との間の緩衝材に、時には両者の媒介になることである。故に、理想化された青春時代=黄金時代が題材として選ばれた――のだとしたら、僕も許容できるのだが。

 自分の出生に苦悩する俊は、吾朗監督である。
 では、ヒロインの海は何を表しているのだろうか?
 とりあえずは、父親からの承認を求め続ける海もまた吾朗監督であると言える。だが、別の解釈も可能であるように思う。
 岡田斗司夫氏は、ニコ生で『借りぐらしのアリエッティ』を分析して、おばさんなのに少女らしさを残したアリエッティの母親は(宮崎駿氏が作る)アニメのメタファーであり、それを捕まえてビンに閉じ込める家政婦は宮崎駿氏であると指摘していた*3
 それに倣って言えば、海はアニメ(映画)の隠喩である。
 そうすると、本作は、父親から子供へとアニメが受け渡されたという話と読み解くことができる。
 本作の最後が、俊と海が並んで立ってコクリコ荘を見上げているシーンで終わるのは、宮崎駿氏がタッチするのはそこまでという意味であろう。それから先の未来を作っていくのは二人自身であるように、これから先のジブリアニメを作っていくのは宮崎吾朗氏であるという意味であろう。
 そういう意味では、本作そのものが父から子への贈り物なのである。アメリカ映画で父親が息子へ成人の祝いとして車を贈るシーンを見ることがあるが、その車とほぼ同じ意味合いである。
 以上のことを、宮崎駿氏が意識的に全て計算して行っているとはさすがに思わない。ただ、頓挫した企画もあった中で、なぜ本作の企画が生き残ったのかを考えると、上で述べたような機能を無意識的にでも期待したからではないか。そうでも考えないと、今この時期にこのような映画を作る意味がよく分からない。宮崎駿氏は時代的制約がなくなったからだと言っているが、それは本作を作ってもよいと思った理由であって、作るべき理由ではない。
 もちろん、宮崎駿氏が息子一人のためだけに本作を企画したとは思わない。宮崎駿氏がパンフレットに寄せた文章の最後にはこう書かれている。
《観客が、自分にもそんな青春があったような気がしてきたり、自分もそういきたいとひかれるような映画になるといいと思う。》
 この「観客」のところに吾朗監督を加えてもよいのではないか。それが僕の言いたいことである。

 では、吾朗監督は、本作を監督した結果、どうなったのか?
 インタビューなどから推測するに、父親が宮崎駿氏であることを「運命」として受け入れる気になったのではないかと思われる*4。それは言い換えれば、偉大な父親の跡を継ぐことを受け入れたということであるだろう。
 それを示すかもしれない印象的なエピソードがある。
 ある朝、鈴木敏夫プロデューサーが宮崎駿氏のアトリエを訪ねると、吾朗監督に口出しするつもりはないと公言していた宮崎駿氏が1日でポスター用の絵を描き上げていて、それをポスターに採用しようと思った鈴木敏夫氏が吾朗監督のところへ持って行って見せると、この父子の対立を知っていた鈴木氏が緊張しながら反応を窺っていたところ、吾朗監督は、しばらく沈黙した後、「……いい絵ですね」と言ったそうである。

 というわけで、本作は、物語内と物語外、二重の意味で親子のドラマなのである。
 つまり、非常にドメスティックな一親子の子育てが、全国の映画館という非常にパブリックな場で公開されていることになる。しかも、それは皇室に次いで、継承問題が国民の関心の的になっている親子なのである。
 あれ、なんだかオラ、わくわくしてきたぞ!
 実際、ここ最近、宮崎親子の関係に焦点を当てたTV番組や雑誌記事等を多く見かける。彼らの親子関係込みで本作を楽しむという視点は、なにも僕だけのものではないということなのだろう。

*1:参照:http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110727/1036973/?ST=life&P=2

*2:もしかして、「上を向いて歩こう」が処方箋ということなのだろうか?

*3:つまり、ジブリスタッフによる宮崎駿氏批判が込められているというわけである。

*4:http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110727/1036973/?ST=life&P=6