『魔法少女まどか☆マギカ』と時間遡行者・虚淵玄

魔法少女まどか☆マギカ 感想リンクまとめ - おひとりさまなめんな!
http://d.hatena.ne.jp/maname/20110422

 前期、最も話題となったアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、『まどマギ』)がようやく最終話まで放映され、改めて話題を提供し、数多くの記事がネット上にアップされているわけであるが、その流れに僕も乗っておこうと思う。

 まずはこのエントリの前提を述べておこう。
 僕は、『まどマギ』を、あくまで虚淵玄氏の作品として解釈する。
 もちろん、『まどマギ』は、新房昭之監督や蒼樹うめ氏を初めとするその他大勢のスタッフによって制作されている。だが、今回、新房監督はあまり前に出てきていないし、世間では「大体虚淵の仕業」という認識だった(その認識が、「血溜まりスケッチ」という別称を生んだ)。細かな描写はともかく、大まかなストーリーラインに関しては、完全に虚淵氏の手になるものだと考えて良いだろう。
 まぁ、本当のところを言えば、そのように解釈したほうが便利というのが最大の理由であるのだが。というわけで、便宜的に『まどマギ』は虚淵氏の作品として話を進めるつもりなのであしからず。
 また、個々のシーンの解釈については、既に様々な解釈が提出されているので上のリンクなどをたどって読んでいただきたい。僕自身はそれで大体納得出来る解釈を得られた。したがって、以下の文章を読んでも、個々のシーンの謎が解けるということはない。僕が提出するのは結末に関する、大枠の解釈である。
 あと、このブログの性質上、『まどマギ』と直接関係ない話もふんだんに混ざっているのでご注意を。
 ネタバレありなので、以下の文章は隠しておく。

 結末の感想から。
 意外性はなかった。前代未聞ではないし、似た物語はいくらでもありそう。実際、近い終わり方を予想していた人もいたし。ハードルが上がりすぎていたこともあってか、ちょっと失望した。だが、良作であったことは確かである。こうすればもっと感動できたという案があるわけでもないので、期待が大きかった故の、ないものねだりなのだろう。
 ほむらが時間遡行を繰り返したことで、まどかを最強の魔女に育ててしまった。キュゥべえの口から告げられたその事実にほむらは打ちのめされるが、しかし、そのおかげでまどかは因果律そのものを改変するまでの力を得ることができた。そして、まどかが時空を超えた存在になることで、ほむらが時間遡行を繰り返すことで生まれた二人の間のズレが一挙に埋まり、まどかがほむらが「最高の友達」だったと気づくという展開――悪が善へ転回するという展開――は上手いと思った。
 終わり方としては、『風の谷のナウシカ』を代表とする、個人を犠牲にすることで最もマクロな幸福が実現される清浄な世界を拒否して、個人の意思や多様性や悪を許容する猥雑な世界の方を選択するという王道の物語の系譜だと思った。
 結末の意味に関しては、まどかは、魔法少女が必然的に魔女になることのない、いわゆる「魔法少女モノ」が成立するための前提となる魔法少女空間を、概念となり遍在することで創り出したのだと言える。この結末は「魔法少女モノ」が含んでいる欺瞞を告発している、と言ったら言い過ぎか(もしそうだとしたら、ああいう結末にはしなかっただろう)。
 この点に関しては、誰か一人の犠牲によって、あるコミュニティが成立したという意味で、フロイトが『トーテムとタブー』や『モーセ一神教』で述べた「原父殺害」を思い出した。それは、ユダヤ教成立の過程には、ユダヤ人たちによるモーセ殺しに対する罪悪感があったという説である。
 しかし、まどかは自ら望んで犠牲になった点でモーセとは異なる。むしろ、イエス・キリストに近い*1。たった一人の人物が自ら過去も未来も含めて世界中の罪を背負い犠牲になることで罪が浄化されるというのがイエスの物語であるが、そういう物語――誰かの自己犠牲によって世界が救われるという物語――は数多く作られている。例えば、『グラン・トリノ』もそういう話だった。『グラン・トリノ』におけるグラン・トリノが、『まどマギ』におけるリボンと弓矢である。

・Floating_mine : ずっと明日待って
http://balvtigla.exblog.jp/15866793/

「まどかは英雄じゃない! 普通の女の子やろ!」という叫びは、キリスト教において「イエスは神じゃない。普通の人間だろ!」とニカイア公会議で主張したアリウス派と重なる。
 物語においてそういう結末(仮に「キリスト・エンド」と呼ぶ)を否定しているのが、『魔法騎士レイアース』である。その終わり方には、一人の少女の犠牲によって(文字通りの「人柱」である)、世界の平和と安定を保っているという構造そのものに対する否定がある。
 しかしながら、イエスの物語がそうなっているから人々がキリスト・エンドに感動するのではなく、人々が感動するからそういう物語が採用されたと考えるべきだろう。さもなくば、キリスト教圏ではない日本でもその種の物語が受け入れられる理由がなくなってしまう。
 ではなぜ人々はキリスト・エンドに感動するのか、とさらに問う必要があるだろう。
 それが最も純化された自己犠牲だからである。
 ではなぜ、自己犠牲に感動するのか。
 最も人間の生理(動物的欲求)から遠いからである。言い換えれば、最もありがたいから(稀少という意味で)である。
 人間は一般に、基本的欲求から遠ざかる行為ほど高尚だと感じ、ありがたいものを貴重だとありがたがる性質があるものだから。

 ここでキュゥべえに目を転じてみたい。
 キュゥべえはいわば「理性(合理性)のおばけ」である*2。時間・空間に縛られないマキシマム・マクロ思考を行う存在である。実際には必ずしも合理的と思えない言動を行うが、設定としてはそういう存在であることを意図して作られたキャラクターだと思われる。であるがゆえに、彼は現実=必然を体現する存在でもある。彼は必然しか語らないし、必然が必然であることにいかなる感情も抱きはしない。
 無論それは虚淵氏の考える必然であり、必然が必然である限り悲劇は避けられないというキュゥべえの基本思想は、虚淵氏の基本思想でもある。

・とある神尾の雑文目録 / 【まどか9話バレ】キュゥべぇさんの元ネタはFate/Zeroあとがき説
http://www.mypress.jp/v2_writers/kamisra2/story/?story_id=1973197

 少し長くなるが、同人版『Fate/Zero』第1巻の「あとがき」から引用する。

 虚淵玄は、心温まる物語を書きたい。
 過去の私の芸歴を知る人ならば、笑えない冗談だと眉を顰めることだろう。だって他でもない私自身がそう思う。この指がキーボードを叩くたび、現れ出るのは狂気と絶望の物語ばかりなのだから。
 昔は、それでも、まだマシだったと思う。手放しで喜べるようなエンディングではないにせよ、劇終のシーンに立つ登場人物には、『まぁ今後も色々と大変だろうが、頑張れや』と背中を叩いて送り出してやれるような、そういう結末を描けた頃が、私にも、あるにはあったのだ。
 それがいつの頃からか、出来なくなった。
 ヒトの幸福という概念にどうしようもない嘘臭さを感じ、心血を注いで愛したキャラたちを、悲劇の縁に突き落とすことでしか決着をつけられなくなった。
 物事というのは、まぁ総じて放っておけば悪い方向に転がっていく。どう転んだところで宇宙が冷めていくことは止められない。“理に適った展開”だけを積み上げて構築された世界は、どうあってもエントロビーの支配から逃れられないのである。
 故に、物語にハッピーエンドをもたらすという行為は、条理をねじ曲げ、黒を白と言い張って、宇宙の法則に逆行する途方もない力を要求されるのだ。そこまでして人間賛歌を謳い上げる高潔なる魂があってこそ、はじめて物語を救済できる。ハッピーエンドへの誘導は、それほどの力業と体力勝負を作者に要求するのである。
 虚淵玄は、その力を失った。今もまだ取り戻せない。この『バッドエンド異存症[ママ]』との闘病は現在進行形で続いている。もしかしたらこれは不治の病なのかもしれないし、もう私は潔く『愛の戦士』への憧れに見切りをつけ、青白い馬に跨って病原菌を撒き散らす側に転身した方がいいのかもしれないが……諦めがつかないのだ。未だに私は往生際悪く、人々に勇気と希望を与える物語を作りたいと願望して止まないのだ。(これを書いている今現在、『勇気』を『幽鬼』と誤変換するような、そんなIMEを使ってる時点で――あ、今『IME』が『忌め』になった――もうどうしようもないとは思うのだが)
[中略]
 その後の経緯は、きのこ氏の解説にもある通りだ。切嗣と綺礼の対決シーンだけを描く短編という当初の構想が、妄想に歯止めが利かなくなり、気がつけば七組分のマスターとサーヴァントの構想が出揃っていた。私は、再び物語を紡ぐことを愉しんでいる自分に気がついた。『Fate/Zero』という企画は、まさに私のライター生命を救ってくれたのである。
 いま私は、救済によって終結する物語を書いている。正確にはその一部を、だ。
 そう、『Fate』という壮大な物語は、主人公、衛宮士郎によって大団円に導かれることが、既に約束されているのである。たとえその課程にある『Zero』がどんなに残酷な結末に終わろうとも、作品世界全体のハッピーエンドは揺るがない。
 いま私は、思う存分、何の引け目もなく手加減抜きのバッドエンドを描く機会に恵まれたのだ。この胸の内に巣食う病理をどこまでさらけ出そうとも、総体として見れば、あくまで私は“愛の戦士・奈須きのこ”の片棒を担いでいることになるのである。ヒャッホウ!

 この文章から読み取れることをいくつか抜き出してみる。

・必然に従う限り、物語は悲劇に終わる*3
・物語をハッピーエンドで終わらせるためには、必然に逆らい、必然をねじ曲げねばならない。
虚淵氏は、ハッピーエンドを書きたいと思ってはいるが、必然をねじ曲げる力がないため、どうしても書けない。それについて虚淵氏は真剣に悩んでいた。
・しかし、その状況が『Fate/Zero』を執筆することで変わった。それは『Fate』(『Fate/stay night』)がハッピーエンドの物語で、『Fate/Zero』がその前史を描く物語だからである。

 言い換えれば、物語をハッピーエンドで終わらせるためには、ご都合主義が必要であるということである。ちなみに、「悲劇とは必然の物語であり、喜劇とは偶然の物語である」というのが僕の考えなのだが、それについて詳述することは主題からずれるのでやめておく。
 しかし、虚淵氏は、ご都合主義という不合理を許容できない。にもかかわらず、物語をハッピーエンドで終わらせたい。虚淵氏は、奇跡を望む必然主義者、あるいは、ハッピーエンドを望む悲観主義者であると言うこともできよう。その葛藤の解決策が、既存のハッピーエンドの物語から逆算し、遡行する形で物語を作ることだった。そうすれば、かならずハッピーエンドに至る物語が書けるからである。
 さて、『Fate/Zero』においてはその既存のハッピーエンドの物語とは『Fate』という特定の作品(想像力)だったのが、『まどマギ』においては、「魔法少女モノ」という集合的想像力になっていると考えられる。『まどマギ』の結末は、通常の魔法少女モノのフォーマットに近い世界(希望のある世界*4)の到来である。『まどマギ』は魔法少女モノの前史を描くことでハッピーエンドの物語(の一部)を描こうとしたと言える。
 しかし、もしそうだとしても、それが「魔法少女モノ」である必要はなかったのではないか、という疑問が生じるかもしれない。実際、まどかたちが男であったとしても成立する話であるという指摘がなされてもいる。
 しかし、ここまでくればその理由も推測可能である。なぜ「魔法少女モノ」でなければならなかったのか。それは少女が最も不合理な存在だからである。実際にそうだということではなく、広くそうイメージされているという意味である。あくまで「不合理」であって「非合理」ではない。非合理であるという点では少女より幼児や動物の方が勝る。無機物を加えてもよい。しかし、彼らは理性を持たないが故にかえって合理的に振舞う。無機物にいたっては、自然法則に完全に従う。理性を持ちながらそれに背く行為をなすのが不合理ということの意味である。不合理であるという点において少女は成人や幼児よりも、そして少年にすら勝っている(とイメージされている)。そして、『まどマギ』内では、その不合理は「感情」と呼ばれている。
 もちろん、少女たちを不合理な存在(感情的存在)と見なすのは、虚淵氏が男性だからということもあるだろう。そういう意味で重要なのが、女性漫画家集団CLAMPが作った『魔法騎士レイアース』である。
 この作品の結末に対する最も男性的な反応は、「そもそもエメロード姫もそう願えばよかったのに」というものだろう。しかし、もしエメロード姫がそれを聞いたとしたら、そして自由に発言できたとしたら、こう反論するに違いない。
「あなたたちが私がそう願えないようにしていたのでしょう!」
 世界の平和や安定をたった一人の少女に押し付けて恥じないセフィーロという世界全体、社会全体が、エメロード姫に、“柱”であることを要請(実際は、強要)していたわけで、そういう世界で育ったエメロード姫自身も、その価値観、イデオロギーを内面化していたであろう。だから、そのシステムそのものを覆すなどということは思いつきもしなかったのであろう。その結果が、あの遠回りな自殺であると思えば、その選択を愚かだと笑うことはできなくなるであろう。むしろ、その程度のことさえ思い付けずに、社会的使命と個人的感情との間で引き裂かれた彼女の悲劇を嘆くべきであろう。そして、“柱”システムという世界が架した鎖を解き放つには、異世界から来た少女が必要だったのだ。セフィーロイデオロギーパラダイムに全く染まっていない少女であったからこそ、獅堂光はシステムそのものを打ち崩す願い*5を思い付くことができ、その願いを実際に口に出し得たのである。

 話があらぬ方向へ進んだが、そろそろまとめよう。
 このエントリのタイトルにある「時間遡行」とは起源を捏造することである。「アナクロニズム」と言い換えてもよい。そもそも起源については語り得ないので捏造するしかないのだが。
まどマギ』は「魔法少女モノ」の起源を騙った作品である。それはどういうことかと言うと、
「まどかは存在しない。なぜなら、魔法少女が存在しないからである」
というタイプの言説に反論しているのである。
「魔女も魔獣も存在しない。故に、魔法少女は存在する。故に、まどかも存在する」
と。
 そのことは、Cパートの冒頭に表示される英文が示している。

――Don't forget.
Always, somewhere,
someone is fighting for you.

――As long as you remember her,
you are not alone.

 ところで、最後の2行は、

As long as you remember her,
she is not alone.

となるのが普通のはず。なぜ彼女のことを覚えていると、「あなた」は孤独じゃなくなるのか。そもそも、キュゥべえ曰く、まどかは誰にも記憶も認識もできない存在になってしまったはず。いや、この宇宙の一員ですらなくなってしまったのだから、存在すらしていないと言える。

「まどか、これで君の人生は始まりも、終わりもなくなった。この世界に生きた証も、その記憶も、もうどこにも残されていない。君という存在は一つ上の領域にシフトして、ただの概念に成り果ててしまった。もう誰も君を認識できないし、君もまた誰にも干渉できない。君はこの宇宙の一員ではなくなってしまった」

 かつても今もこれからもこの宇宙に存在しないもの、そのようなものをどうやって覚えておくことができるのだろうか。それは過去の記憶(起源)の捏造によってである。記憶を捏造する者だけがまどかを覚えている。そのような者が魔法少女となる。
 もちろん、普通の魔法少女モノの魔法少女はまどかのことなど全く覚えてはいないだろう。だが、魔法少女になることを引き受ける少女の存在が、その起源としての(あるいはトラウマとしての)まどかの実在を証し立てるのである。そういう意味であなた=魔法少女は孤独ではないのである。

 最後は何を言っているのか分からない人もいたと思うが、大丈夫、僕もよく分かってないから。おもいっきり乱暴に言うなら、まどかは非実在少女であると同時に、非実在少女として存在しているということかな。

*1:あの結末以降の物語が作られるとしたら、ほむらはまどかのことを他の人々に教え伝える使徒の役割を担うことであろう。

*2:それに対して、まどかは「自己犠牲の塊」である。

*3:エントロピー」云々は、そのことを科学用語で言い換えただけであると思って構わないだろう。

*4:「希望を持つ限り救われない」ということのない世界。

*5:キュゥべえなら「因果律そのものに対する反逆だ!」と言うところだろう。