『言の葉の庭』(ネタバレあり)

 新海誠監督の2年ぶりの最新作、アニメーション映画『言の葉の庭』を映画館で観賞した。
 これまでの新海誠監督映画は一応全て(5本)DVDで見ている。申し訳ないが、新海監督作品はどれもあまり好きになれなかったのだが(あくまで自分の好みではないというだけであって、その技術的達成についてまで否定するつもりはないのであしからず)、ネットでの評判を見て、上映時間と料金も手頃だったので、初めて映画館で見てみようという気になった。
 平日昼間の上映を観に行ったが、客は20人ぐらいであまり多くはなかった。若い人が多かったが、初老の夫婦もいた。映画の1シーンが印刷されたポストカードが貰えた。
 最初に上映されたのは、同時上映の「だれかのまなざし」。数分程度の小品。
 時代設定は近未来らしいが、そのことはドラマとはほぼ関係しない。舞台が現代であっても問題なく成立する話である。
 タイトルの「だれかのまなざし」が誰のまなざしなのかが最後に判明するという仕掛けが感動をもたらす。
 確か最初期の作品(『彼女と彼女の猫 -Their standing points-』)も猫が主人公だったはずで、犬監督と猫監督という私が勝手に考えた分類に当てはめるなら、新海監督はやはり猫監督であろう。その意味では宮崎駿監督の系列である(犬監督の系列の代表は押井守氏)。『星を追う子ども』!
 温かな気持ちになる小品なのだが、最後の宣伝が興を削ぐ。「結局、宣伝かよ」と醒めてしまった。
 元々、野村不動産のマンションブランド「PROUD」とのコラボレーションで制作された作品なので、改めて映画館で上映するに当っても、宣伝を取り除くことができなかったのだろう。
 そういう作品だと割り切れればよいのだろうが、私がセンシティブ過ぎるのだろうか?

 で、「言の葉の庭」。
 ビル街の中にある森。その森(日本庭園≒新宿御苑)の中にある小さな四阿(休憩所)。描き込みの細かさもあって、その対比が鮮やか。雨の中、その休憩所は、二重の意味で(都会の喧騒(満員電車)からの避難所という意味も加えれば、三重の意味で)避難所として機能している。これはそこで出会った二人の物語である。
 いきなり批判めいたことを言って申し訳ないが、新海監督はストーリーメーカーとしては大したことがないという、これまでの印象が上書きされた。全ての展開に既視感があるし、意外なことは何一つ起こらない。以下、ストーリーに関する不満点を少し述べさせてもらう。
 最も違和感を感じた展開は、タカオがユキノが辞職する原因を作った先輩女子の元へ行くシーンである。その行動には自らの怒りを個人的に少しばかり発散するという以上の意味はない。その結果は、タカオのユキノへの想いを見透かされ汚された上に殴られたというものであった。下手をすると、ユキノへも迷惑がかかったかもしれない。誰も得しない行動である。タカオは一体どういう結果を望んで、元凶に会いに行ったのだろうか?
 もちろん、メタな視点から見れば、タカオのユキノへの想いの強さを分かりやすく示すシーン、観客のタカオへの感情移入をより強く促すシーンなのだろうが、私はタカオの行為の愚かさの方が気になって感情移入できなかった。
 それから、ユキノがタカオの告白を受け入れない理由が弱すぎる。ユキノはもはやタカオの学校の教師ではないわけで、一昔前ならともかく、現代では歳の差も含めて相思相愛なのに拒絶するには説得力がない(教え子と結婚した教師だって、現実にはいっぱい存在しているし)。拒否しきれなかったからこそのクライマックスシーンなのであろうが、だったらさっきまでの逡巡は何だったんだという話である。拒否する理由が弱いので、単にテンプレに則った行為にしか見えない(だからこそ、少し前に見た映画『悪の教典』のハスミンの行為には衝撃を受けた)
 ユキノが部屋を飛び出してすぐの所にタカオがいるのもどうかと思う。下手をすると、タカオが待ち構えていたようにも見える。おそらくは、すぐに帰る気になれなくて物思いに耽っていたのだろうが、足が滑ってこけるなどのベタな展開はあるものの、ユキノがタカオをあっさり発見しすぎて拍子抜けする。ここはもう少し引っ張っても良かったのではないか?
 総じて、二人はすぐ近くにいるのに、しなくても良い遠回りをしているだけのように思えてしまう。
 もう少し好意的に考えると、この二人は生きるのが不器用なのだろう。ユキノは不器用であるが故に退職まで追い込まれ、タカオは手先こそ多少器用なものの、高校生活には馴染めず、ユキノに会いたいと思っていても雨という理由がないと日本庭園に行けないという不器用さを併せ持っている。タカオが先輩の教室に行くのも、不器用さ故だと思えば辛うじて許容できる。
 それから、家族の問題。家族関係からは、タカオがどうしてそこまで悩み、鬱屈しているのかが分からない。普通にタカオの夢を応援してくれそうな家族のように見えるので。だから、タカオの孤独を説得力のあるものにするためには、家族のことを全然描かないか、もっと描いてタカオを追い詰めているものを明確にするかのどちらかにした方が良かったのではないかと思う。
 幼い頃の母親への誕生日プレゼントのエピソードは、それだけではタカオが靴職人を目指すようになった根拠としては弱すぎる。せめてもう一段階、靴職人という具体的な夢を抱くに至った過程を描いて欲しかった。
 タカオは母親へ強い愛情を抱いていたが、気の多い(男にだらしない)母親はタカオにさほどかまってくれず、満たされない母親への愛情を昇華するため、タカオはかつて母親が喜んでくれたという幸せな記憶をもたらした靴作りへと執着するようになる。そして、ある日出会った、母親に似た(ちょっとだらしない)年上の女性を愛するようになる。つまり、この物語はマザコン少年の話なのである。――というような裏設定があるというならかなり納得がいくのだが。
 もし万が一そういう話なのであれば、そういう描写がもっと欲しかった。その場合は、特に母親の足(素足)に関するエピソードは必須である。そこにおいて、タカオが靴職人を目指していること、ユキノの足を測定し彼女に惹かれることに必然性が生まれるからである。

 とはいえ、以上のようなストーリーに関する批判は的外れであろう。なぜなら、新海監督の本領は物語以外のところにあるからだ。彼は、既存の物語をベースにして細部(ディテール)を作り込んでいくことにこそ本領を発揮するタイプの監督であろう。風景(光や天候や人工物を含む)、小物、表情、仕草、演出、等々。細部を作り込み描写する作風は必然的にフェティシズムとの親和性が高い。タカオがユキノの足を撫で回しながらサイズを測定したり型を取ったりするシーンは、フェティシズムに溢れた、本作最高のラブシーンであった(本作におけるキスシーンだと言っても良いかもしれない)。

 雨が重要なモチーフとなっている今回の作品を観ることではっきりと分かったが、ウェットであるというのが、新海監督の作品を私が好きになれない理由なのだろう。新海作品はたとえ雨が降っていなくても全体的にウェットでジメジメしている。言い換えれば情緒的で、しかも悲しみ(哀しみ)を基調としている。端的に言えば、笑い(ユーモアを含む)がない。そこが好きになれない理由なのだと思う。もちろん、それは私の求めるものがないというだけの意味で*1、それが作風(作家性)なのだとしたら、それはそれでアリであろう。私自身の状況が変われば、心に響くようになる可能性はある。いや、既に「好きになれない」という形で心に響いているのかもしれない。
 まとめると、新海作品は、メロドラマでありポエムである。ここで言うポエムとはJ-POPの歌詞のようなものである(「J-POPにありがちな歌詞」などでググってみて欲しい)。J-POPの世界と新海作品の世界は近似している。新海作品においてJ-POPがベタに(ドラマの最高潮で、ドラマの内容とシンクロした歌詞の曲を、といった風に)使用されるのも、それ故であろう。

 ところで、ビールのつまみにチョコレートはアリだろう。ビールが苦いのだから、それに合うつまみは甘いものなのは当然だと思う。普通のことだと思ったので、タカオが驚くことにこそ驚いたのだが、一般的なことではないのだろうか。

*1:コメディ以外は認めないという意味ではなく、たとえ悲劇であってもその中にカラッと乾いた明るさや余裕みたいなものが垣間見える作品が好きだという意味である。