『マイマイ新子と千年の魔法』の魔法

 ぼやぼやしていると上映が終了してしまうので、通常料金の日ではあったが映画館へ見に行く。チケットを購入すると、エコバッグをもらった。こんなものがもらえるとは全然知らなかった。調べると、数に限りがあるとか。
 平日だということもあったろうが、観客は10人足らず。座席数自体も少なく、映画館側もそれほどの収益を見込んでいないものと思われる。
 僕が心配することではないが、メインターゲット層が見えないという印象がある。公式サイトを見ると、子供向け映画ということらしいが、にしては、そういった層へのアピールがあまり目につかないように思う。口コミ頼みなのかなぁ。


 さて、映画本編についてだが、満点はつけられない。突出した映像表現や卓越した構成や唯一無二のオリジナリティがあるわけではないからである。だが、隅々にまで配慮が行きとどいた丁寧な作りになっており(一度見ただけではそのすべてを把握できたわけではないが)、誰にでも安心して勧めることができる仕上がりになっている。
 平屋建ての民家がぽつぽつと建ち、その周囲は見渡す限り麦畑の海。青々と実った麦の穂が波のように風に揺れ、つむじ風がその上を踊りまわる。麦畑の間を小川が流れ、直角に曲がる。遠くには山並みが連なり、その上には白い雲が浮かんだ青い空がどこまでも広がっている。
 昭和30年代の防府が活写されている。
 僕が生まれるずっと前の話なので、もちろん全部が全部というわけではないが、なぜか時折ひどく懐かしいと感じる光景が映し出される。例えば、三田尻駅のシーンは、高架化される前の防府駅を思いだした。防府駅の前身が三田尻駅なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、しかし他方で、時代の隔たりを考えると、当たり前というほど当たり前のことでもないと思う。
 それから方言もかなり忠実に再現していて、特に「じゃんけんもってすっちゃんほい」は不意打ちで、思わずほっこりしてしまった。確か、あいこだと「あいこー、アメリカ、ヨーロッパ」と続くんだったかな。
 最初は抑えた出だしで、新子が貴伊子と仲良くなるあたりから面白くなってくる。


*以下、ネタバレあり。


 空想の翼を広げる新子を見ていてまず思ったのは、『赤毛のアン』のアンに似ているということである。新子の“マイマイ”(二つ目のつむじ)は、アンの赤毛と同じスティグマ(聖痕)である。それらは彼女らが聖別されたあかし(しるし)である。それらは彼女らが特別な想像力・感受性を持った、他の人たちとは異なる人間であることを証し立てている。それらを「スティグマ」と呼んだのは、赤毛もつむじが二つあることも、それぞれの文化の中で負の価値づけがなされがちな特徴だった(である)からである。
 だから、貴伊子は、自分が諾子(なぎこ)や母親のことをうまく想像できないのはマイマイがないせいだと考えるし、諾子と同一化した時には、彼女の頭にはマイマイができていた。
 しかし、新子はアンほど問題児というわけではなく、妙に弁えているというか物分かりがいいというか冷めているというか、かなりはっきりと空想と現実の区別がついている。自分が空想したものが自分の頭の中にしか存在しないことをしっかりと認識し、それが他の人たちには見えないことを弁えている。そういう意味では、新子はあまり危なっかしいところのない、良くも悪くも逸脱することのない、「いい子」である。
 逆に言えば、そのいい子ぶりが鼻につくとも言える。足早に大人になろうとする友人をたしなめ、子供の内にいっぱい遊ぼうという物言いとか、まるで子供時代が子供の内にしか味わえない貴重なものだと知っている大人の言である。すなわち、新子を大人から見た「いい子」にしすぎではないかと思うのである。物語に「いい子」が登場するのはかまわないが、それが自伝的小説の主人公だという知識が頭にあるとちょっと鼻白んでしまう(念のために断っておくが、原作の新子もそうだとは限らない)。
 だからなのかどうかは分からないが、子供たちは大人たちに叱られない。冒頭に、新子が妹の人形を壊して母親に叱られるぐらいで、もっと大変なことをたくさんしでかしているのに、その時には誰も叱ろうとしない。酔っぱらったり、妹から目を離したり、夜遅くまで外出していたり、夜の繁華街に子供だけで行ったり……。子供向けの映画だからと言うのなら、子供向け映画であればこそ、締めるところは締めるべきだと思う。ただし、本作に本当の悪人が出てこず、いい子と優しい大人しか出てこないという点については、リアルではないということで批判するつもりはないのであしからず*1
 アンとの共通点ということで言えば、新子は、アンと同じく本好き、物語好きである。
 新子は「面白いことはみーんなおじいちゃんが教えてくれる」と独白するが、確実に読んでいる物語の影響もあるだろう。つまり、彼女は物語(ラジオドラマや映画も含む)を愛する典型的な文学少女であり(原作が作家である作者の自伝的小説であるのだから当然だが)、彼女の持つ想像力の大半は文学的想像力であると言って差し支えないのだが、にもかかわらず文学少女臭が消されている。貴伊子の部屋にも本が置かれていて、文学少女つながりで仲良くなるというパターンもあったはずである*2。『ハイジ』などの本を思わせぶりに映しておいて、そこはスルーする。なぜなんだろうか?
 どちらかと言うと、新子は自然児っぽく描かれているが、新子の家族は、祖父は元学校の先生で、父親は大学の先生というインテリ一家である。つまり、階層的には貴伊子と同じ階層に属している(だから、仲良くなれたのだという見方もできる*3)。
 インテリ階級に属する空想好きな子供ということで、貴伊子と同じく、クラス内で浮いていてもおかしくないはずなのだが、そうでもないようだ。というか、映画を見ている限りでは、新子の学校やクラス内での立ち位置が分からない。仲の悪い女子グループがいることやクラスのリーダーではないということは何となく分かるのだが。『ちびまる子ちゃん』のまる子の立ち位置に近いのかなと思う(おじいちゃん子だし)。
 先ほど新子が弁えていると述べたが、タイトルに「魔法」の文字は入っているが、この映画にファンタジックな生物や力は実在するものとして登場することはない。そういったものは全部、新子の空想や夢としてのみ描かれる。例えば、妹がいなくなってもトトロやネコバスは現れない*4


 前半は新子の所属する世界、子供の世界*5が描かれる。しかし、金魚“ひづる”の死をきっかけに雰囲気が変化する。そこから大人の世界が子供の世界に侵入してくる。大人の世界とは大人が「現実」と呼ぶものであり、その究極が「死」である。
 本作では、美しい子供の世界と汚い大人の世界という対比がなされている。
 例えば、ひづる先生(金魚の名前の由来)が妻帯者への恋をふっ切るために東京の男と結婚することを知った男子が、「何かきちゃねぇ気がしてもうた」と言う。
 例えば、クライマックスで新子とタツヨシが赴く繁華街の猥雑さ。
 牧歌的で美しい子供の世界に、大人の世界の汚さが影を落とす。幸福な子供の世界に、大人の世界から不幸の影が忍び寄る。子供の世界の輝きは、大人の世界の闇に包まれ、光を失ってしまう。自分たち子供から理不尽に何かを奪っていく者として大人が立ち現れる。その理不尽さに新子は怒りを覚える。タツヨシの父親の死と本来は無関係であるはずの新子が、タツヨシと一緒に「カタキウチ」に赴くのは、その怒りがあったからである。「明日の約束を返せ!」という要求は、それだけ見れば理不尽な要求だが、それは大人の理不尽さに対するものであるのだから、理不尽なものになるのは当然である。
 死という「現実」にぶつかって、新子は魔法を信じるのをやめてしまう。魔法では死者をよみがえらせることはできないと知ったからである。魔法でも失せた輝きを取り戻すことはできない。その時、彼女は「現実」を知り、子供の世界から大人の世界へと足を一歩踏み入れたのだと言える。魔法は非「現実」的であるがゆえに、大人の世界には存在しないのである。
 では、子供の世界は、魔法は、大人の世界を、「現実」を前に敗北するしかないのだろうか? 魔法とは、現実を知らない子供の妄想にすぎないのだろうか?
 いや、本当の魔法はそんな「現実」では損なわれないというのがこの映画のメッセージなのであろう。だからこそ、最後に新子は魔法を信じる心を取り戻す(具体的には「緑のコジロー」が再び見えるようになる)。
 というのも、その「現実」とは、大人たちにとっての現実にすぎないからである。言いかえれば、その「現実」とは現在のことしか指していない薄っぺらくて厚みのないもの、一つの視点しか持たない狭くて貧弱なものである。現在のことのみ、利益のことのみを必死で考えるのが現実的な態度だというわけである。だが、本当の現実とは多層的なものである。
 さまざまなパースペクティブが折り重なってできているのが現実だし(無数のパースペクティブを可能的・潜在的に内包しているのが現実だと言った方がより正確かもしれない)、時間的に見れば、あらゆる過去が現在という瞬間の内には包含されている。言いかえれば、現在は過去をその都度書き換えることによって存在しているわけではない。過去は決して消え去りはしない。そんな過去の上に積み重なっていくことで現在はできている。そして、その現在もすぐに過去となり、別の現在がその上に積み重なっていく。現在という大地は、過去という地層の上にあるのであって、地層なしに大地が存在しないように、過去なくして現在は存在しない。そして、過去を知らずに現在を、そして未来を知ることはできない。本作で、千年前(平安時代)と昭和30年代が並列して描かれているのはそんな理由によるのであろう。すなわち、多層的な現実、現実の多層性を示すためである。
 そういった認識を踏まえれば、死者をよみがえらせることではなく、私が今ここにこうして生きていることこそが「千年の魔法」であると言える。言いかえれば、今私が生きているのと同様に、千年前も誰かが生きていたということ、そのことがそれ自体で魔法なのである。
 物語の最後、新子が闇の中で金魚を見つけ、貴伊子が諾子と千古が友達になった夢を見る。それによって、彼女らの世界に光が少し戻ってくる。新子と貴伊子が闇の中で見つけた金魚は、“ひづる”がよみがえったわけではなく、よく似た別の金魚である。そこには何の不思議なこともなく、魔法など一切介在していない、というのが「現実」的な解釈なのだろう。しかし、ひづるが死に、そのすぐ後にひづるにそっくりの別の金魚が現れたというそのことがそのままで魔法なのである。ひづるがかつて生きていた。そして、よく似た別の金魚が今ここに生きている。そのことの不思議あるいは奇跡が魔法なのである。
 そして、魔法を信じる心を取り戻し、再び「緑のコジロー」が見えるようになった新子は、改めて「みんな、いい人ばっかり」であることに気づくことができた。だって、そのようであることもまた魔法の力なのだから。というのも、現実を光り輝かせるもの、それが魔法だからである。
 あえて一言で言うならば、この物語は、「世界の豊饒さへの信頼の回復」を描いている。大人の世界に直面することで「現実」へと縮減しようとしていた新子が再び、世界はこんなに豊かで美しいということに気づくという話である。


 以上のように考えると、対比され一見対立するように見えていた子供の世界と大人の世界は実は対立していないということが分かる。
 大人とは子供の否定ではない。子供という地層が積み重なった上に大人というものは成立している。大人とは例外なく、かつて子供であったものであり、かつては子供だったのだから、大人の中にも子供がいる。
 したがって、子供の世界と大人の世界、どっちが正しいという話ではない。両者は並立しうるし、現に並立している。だから、その意味では新子が弁えすぎるのは問題だと思う。大人の価値観をあらかじめ先取りしすぎではないかと思うのである。新子は決して空想を現実と混同することなく、空想は空想で楽しむだけの分別を備えている。しかし、空想を現実と混同することこそ、子供の真骨頂ではないか(フロイトはそれを「心的現実」と呼んだ)。もちろん、子供を内包している大人もまた、時折両者を混同してしまうことがある。誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。だが、それは必ずしも現実逃避を意味するわけではない。むしろ生きるために必要なこと、生が要求することですらある(場合もある)。「本当はいないんだ」と醒めるのではなく、「本当はいるんだ」と夢見る。少なくとも子供の内はそれもよいだろうし、現に子供はそうしているのではないだろうか。だから僕は、例えばトトロなどのように、緑のコジローや平安人たちが実在しているかのように描いた方がよかったのではないかと思う*6。それはおそらく、『となりのトトロ』のキャッチコピーが、「このへんな生きものは、もう日本にはいないのです。たぶん。」から「このへんな生きものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」に替えられた機微に関わることである。本作では、新子の想像力にブレーキがかけられてしまっているのではないだろうか。言いかえれば、新子の弁えっぷりからは、「大いに空想を広げましょう。ただし、頭の中だけでね」というメッセージが読み取れてしまうのである。それは、「思いっきり自分の好きなように絵を描きましょう。ただし、画用紙をはみ出してはいけません」といった物言いと似ている。


 ところで、先ほど、昭和30年代と平安時代とを並列して描いているのは現実の多層性(豊饒さ)を示すためだと記した。ところが、観客のわれわれから見れば、新子らの生きている昭和30年代もまた過去である。新子と貴伊子が、千年前の少女のことを考えるのと同じことが、観客と新子らとの間で行われている。ということは、そこには「千年の魔法」ならぬ「五十年の魔法」が働いているのだ。
 そして、その意味では、直接描かれてこそいないが、平安時代と昭和30年代だけでなく、この作品には現在もまた描かれているのだと言える。新子と貴伊子が、一人ぼっちの諾子に千古という友達ができたのを、まるでわがことのように喜んだように、われわれは新子たちの行動に一喜一憂する。その時、過去は単なる過去ではなくなり、同時に現在でもあるような過去となる。それが「魔法」である。
 想像力とは過去を現に存在させる魔法であり、そういう意味では死者をよみがえらせることができるのである。
「うちらが忘れんかったらいつまでもそこにおるよ」


 エピローグにも軽く触れておこう。短いが、物語の締めとしてよくできている。
 エピローグにおいて、新子の祖父が死んだと語られたとき、僕は当然そうでなければと思った。展開的に祖父は死なねばならぬ。どうしてそう思ったのかを説明するのは難しいが、祖父が死ぬのは、物語的に正しい。物語の力学がそれを要求するのである。これだけでは説明になっていないのでもう少し言葉を重ねてみる。
 新子は物語を通じて成長した。彼女は本作の最初と最後では別の人間になっている。そして、成長した者が次に為すべきは、親離れ、巣立ち、独立といったことである。祖父は面白いことをみんな教えてくれた、いわば新子の師匠でもあったわけだが、修行を終えたとき、弟子は師匠から離れ、次のステージへ移行せねばならない。それは別の師匠に就くことであったり、独りで修業を続けることであったり、弟子を取ることであったりする。そして、師匠が死ぬことは、継承が行なわれた、大事なことが確かに受け継がれた、ということを示す、もっとも単純で効果的な物語的手法である。
 別の言い方をすれば、逆説的に祖父は死なないと示すために祖父は死なねばならなかったのである。祖父の持っていた大事なことは、新子に受け継がれた。祖父は新子の中で生きている。だから、新子は祖父のことを決して忘れないだろう。祖父の死は、そのことを一瞬で観客に伝えてくれる。


 そして、最後に新子一家は引っ越す。
 貴伊子がやってくることで始まった物語は、貴伊子が再び引っ越すか、あるいは新子が引っ越すかのどちらかで終わるのが、物語としてもっともきれいな終わり方である。本作では、貴伊子が残り、新子が引っ越すという『まなびストレート!』方式が採用されている。
 このエピソードも、物語における機能は祖父の死と一緒で、継承の告知である。最初は浮いていた貴伊子が完全に周囲に溶け込み、新子を必要としなくなった(この言い方が悪ければ、新子から独立できた、と言ってもよい)ことが示されている。


 どちらのエピソードも本質は同じであり、ここで行われているのは世代交代である。新陳代謝と言い換えてもよい。人の思いは後の世代に受け継がれていく。だからこそ、千年前の小川が現在も流れており、千年前の人に思いをはせることもできる。死んだ者は帰ってこないし、去った者は戻ってこない。だとしても、それは無になったのではない。過去は消えず、ただ堆積し、その上に新たな現在が積み重なっていく。現在を少し掘り返せば、そこには過去が息づいている(自分自身の過去、すなわち子供時代を含めて)。「魔法」とは、それを知ることである。


 派手なシーンのない低刺激性の作品で、感動の押しつけがない分*7、個人的にはぜひ見に行くべしとまでは言えないのだが、世界を少しだけ豊かにする魔法をかけられたいのなら、見に行かれたし。


※補足:

  • 筆者はかつて防府市に住んでいた。生まれた場所こそ違うが、幼年期から青春時代の大半を防府市で過ごした。
  • 上の文章を書いた時点で、原作小説の帯で「日本の赤毛のアン」と謳われていたことは知らなかった。
  • 声優2人が実写版『ちびまる子ちゃん』の出演者であることも後から知った。
  • 新子が「弁えている」のは意図的にそうしてあるということも後で知った*8。すなわち、本作は新子の成長物語ではなく、貴伊子の成長物語である。文中にも書いたように、新子は貴伊子のメンターという役割を担っている。

*1:ただし、そのせいで、結局タツヨシの父親がなぜ自殺したのかは分からなくなってしまうのだが。

*2:「この本、私も読んだ!」とか「これ、読んだことない。今度貸して」とか。

*3:枕草子』を書いた清少納言ももちろんインテリである。

*4:タイトルはジブリ作品と同じく、『○○の○○』という形になっているが。しかも、『千と千尋の神隠し』とは『○○と○○の○○』という形まで共通している。だからどうしたと言われると困るがw。

*5:ちなみに本作の主題歌は「こどものせかい」である。

*6:別にはっきりと実在しているように描く必要はない。ひょっとしたら実在しているのでは?と思わせるような演出をすれば、それでよい。

*7:「すっごい感動しました」とか「泣けました」とかは言いにくい作品である。

*8:《危うさをもっていない新子が望ましくて、大事なものだと考えたんです。》(「この人に話を聞きたい」『月刊アニメージュ』2010年1月号 vol.379)