『マイマイ新子と千年の魔法』の風景

 しかしその後、同じ地元の映画館へもう一度見に行ったのだが(客数は最終上映にもかかわらず1回目より少し多い程度だった)、そしたら1回目に見た時より感動したのである。そのおかげで、この映画の不思議さ、奇妙さをやっと少しばかり実感することができた。もしもう一度見たら、もっと感動してしまうかもしれない(映画館で観ることはもう難しいだろうが)。
 そこで、本作の何が感動を引き起こし、なぜその感動の原因を上手く説明できないのかを新たに考察してみることにした。前回は内容における多層性に注目したが、今回は形式における多層性に注目してみた。


 結論から先に言えば、それは本作で描かれているのが物語ではなく風景だからである。
 物語とは有り体に言えば、因果関係である。とある原因がある結果を生み、その結果が原因となってまた別の結果を生むという出来事の連鎖が物語である。いわゆる起承転結であり、構造・構成と呼ばれるものである。この点に関して本作は弱い。視点がぶれたり、大きな出来事に伏線がなかったり、ドラマツルギーという観点からすれば不合理な展開が多い。そのことに対して監督は自覚的で、インタビューでは「納得」を放棄したと語っている。
《構成について足掻くのはそこであきらめたんです》(「この人に話を聞きたい」)
 一方、風景とは目に映るすべてのもののことである。いや、目とは限らない。五感で知覚されるすべてのもののことである。そこに存在するものすべて。空、天候、光、地形、樹木、生態系、人工物、等々。そこには物質だけでなく、現象も含まれる。
 風景を構成するものは特定の意図によって集められ配置されたわけではないから、単一の意味に還元することはできない。だがしかし、風景は決して没価値的なものでもない。むしろ、それを見る視点によってそこから様々な意味が汲み取れるという意味で、意味が充溢している(「目に映るすべてのものがメッセージ」)。それは意味というよりは原意味と言った方がよいかもしれない。
 風景においては、論理的・物語的には相互に無関係な多様なものが、重層的に積み重なっている。無関係なものがたまたま共にそこに在る。その重なり方を決定するのは風景自身ではなく、それを眺める者がたまたま立った位置、すなわち視点である。だから、そこに単一の意味は存在しない。それを眺める者次第で様々な意味が読み取れる。
 どうしてそうなのかと言うと、風景とは内面の投影であるからである。と言っても、風景が主観的なものであると言いたいのではない。主観と客観という区別・対立が無効化するのが風景であるということが言いたいのである。風景とは別に、それを眺める私が存在するのではなく、私もまた風景の一部なのである。したがって、私が風景に対して抱いた感情もまた風景の一部なのである。私がある風景を見て悲しみを感じるとき、それは私が悲しいのではなく風景が悲しいのである。風景と同じく、風景として、その悲しみという感情は存在しているのである。そのとき、私と風景は一体化している。
 風景はひとつの視点(眺め)を意味するという意味では星座に似ている。星座を構成する恒星は、互いに何十光年、何百光年と離れている。それが、地球という視点から眺めることでひとつの配置(アレンジメント)を構成する。同様に、風景もそれを眺める者次第で様々な風貌を見せる。どこから眺めるか、どんな状態で眺めるか等によって風景もまた姿を変える。だから、同じ風景というものは存在しない。人によって時間によって変化するのが風景である。私が変化すれば風景も変化し、風景が変化すれば私も変化する。
 したがって、風景は背景とは違う。背景はむしろ物語に近い。それは説明の一種であり、登場人物に関する確定記述(データ)である。
 風景は記号とも違う。記号(シンボル)はそれが示す意味と一対一で対応しており、一つの記号は一つの意味しか指し示すことができない。それに対して、前述したように風景は一つの意味に還元できない。それ故にそこから無限の意味を引き出すことができる。記号的な風景など存在しない。


 以上のように物語と風景を対置させる形で定義するならば、本作においては、決して物語が描かれていないわけではないが、風景を描くことに、より重点が置かれている。だから、感動を引き起こすフックは無数にあるので、感動している人たちはそれぞれ別々の個人的な理由で感動している。しかしながら、それは物語による感動のような分かりやすい感動ではない*1
 本作は凡庸なノスタルジー作品とは一線を画しているという意見も多い。ノスタルジーとは単に過去を懐かしむことではない。現在において欠落しているものを過去に求めることこそがノスタルジーである。だからこそ、過去に存在したことのないもの、経験したことがないものであっても、人はノスタルジーを掻き立てられることがある。一度も見たことがないはずなのに懐かしい光景というものが世の中には存在するのである。言い換えれば、「存在しない」を「今はもうない」に変換するのがノスタルジーと言ってもよい。したがって、ノスタルジーとは、現在のあなたには欠けたものがあるという告発なのである。ノスタルジーそのものがドグマやテーマ性を内包している。だから、時にそれが鼻につくこともある。
 本作がノスタルジーを売り物にした作品ではないということは、テーマ性が薄いということでもある。言い換えれば、何が言いたいのか分からない。だがそれは、「この風景は何が言いたいのか分からない」と言うのと同じである。
 本作の客層は中年の男性が多いと仄聞するが、もしそれが本当なら、「風景」のよさが分かるのは年を取ってからだからなのかもしれない。


 本作が風景の映画であることは動画サイトでも公開されている冒頭5分を見ただけでも分かるだろう。新子のいる風景、新子という風景が、丁寧に、それでいて広がりをもって描かれている。。
 とはいえ、通常の意味での風景が綺麗に描かれていれば即、風景映画であるというわけではない。では、本作では具体的にはどのように「風景」が描かれているのだろうか。
 とりあえずは、物語(構成)のレベルではなく、表現のレベルを追求することによってであると言える。
《作画とか、背景の見せ方も全部含めて、観た人が納得するしかないところに、表現をもっていってしまおうと思ったわけなんですよね。》(「この人に話を聞きたい」)
 そのためにどうするかと言うと、前述したように、多様なものを重層的に積み重ねる。それによって、情報量を増やし、密度を上げる(「世界の強度を上げる」)。
 作画の重層性については様々あるが、アートワークの撮影編を見てもらうのが一番分かりやすいだろう。


・WEBアニメスタイル | 【artwork】『マイマイ新子と千年の魔法』第15回 撮影(1)
 http://www.style.fm/as/02_topics/artwork/artwork_maimai15.shtml


 ここで行われているのは、様々な素材を重ねることによって「厚み」を出すということである。それによって、ベタに一色で塗りつぶしたのでは出ない深みやリアリティを出すことができる。
 音楽もまた重層的に作られており、作中にBGMとして印象的に用いられている、アカペラ多重録音によるスキャットの録音風景を見てもらえれば、そのことは一目瞭然であろう。


・「マイマイ新子と千年の魔法」サントラより / Minako “mooki” Obata スペシャルライブ #1
 http://www.nicovideo.jp/watch/1259594468


 このBGMは昭和30年代という時代とある意味ミスマッチな軽快な音楽で、そのことがかえって特別な効果を生んでいる。その意味でも風景的である。もちろん、音声や効果音も例外ではない。
 内容においても多層的に作られていて、登場人物たちがそれぞれ別の層を構成している。登場人物たちは誰もが、ただ物語(ストーリー)に奉仕するだけの存在ではないし、主人公の都合によって動かされているわけでもない。勝手にそれぞれの人生を生きている。それは新子と貴伊子であっても同様である。新子は新子で、貴伊子は貴伊子で生きている。新子が「カタキウチ」に行っているとき、貴伊子はそれには全然関与せずに諾子になっている。そこには何の因果関係もない。だから、二人は最後は別れる。別れることができる。しかし、だからこそ、彼女らの交友が尊く映る。こう言ってよければ、登場人物たちもまた風景の一部として描かれているのである。
 さらに言えば、風景の重層性には、空間的重層性と時間的重層性があり、新子が想像した千年前の光景を新子の現在の光景に重ね描きすることで、時間的重層性を空間的重層性に重ねて、さらなる重層性・多層性を作り上げている。言い換えれば、新子の空想も風景として描かれているということであり*2、この「二重写し」は一種の発明であると言えよう。
 両者の間に無理に関連性をつけないのがミソである。無関係な多様な要素が併存しているのが風景なのだから。逆に言えば、どれだけ無関係な多様な要素を詰め込めるかが風景を描く際のポイントである。ただし、ここで「無関係」というのは、直接の因果関係がないという意味であって、各要素がまったく隔絶しているという意味ではない。併存している以上、そこに何らかの影響関係はあるだろう。
 分かりやすい例を出せば、モンシロチョウがそうである。スクリーン内に風景として存在し、ストーリーや登場人物とは無関係なままであるが、決して何ものからの作用も受けずに独立して存在しているものとして描かれているわけではない。しかも、それが描かれていることによって、そこから多様な意味が生じうる。


 もちろん、アニメにおける風景と実写における風景は違う。
 実写では制作者(監督やカメラマンなど)が意図しないものが映り込む(それが実写の弱点であると同時に強みでもある)。それに対してアニメでは描いたものしか映らない。アニメーションにおいては、目に映るすべてのものは描かれたものである。
 実写における風景は元々存在しているものを空間的・時間的に切り取ったものである。アニメにおける風景は元々は存在していないものを、素材(色彩や音など)を積み重ねることによって一から作り上げたものである。出来上がるものは現実の一部を切り取ったものであっても、作る過程は単純な素材の積み重ねである。引き算ではなく足し算である。だから、風景の存在しないアニメもある(他方で、風景の存在しない実写映画は存在しない)。
 本作では新子たちのいる風景を作り上げるために、現実の風景を可能な限り参照している。それはおそらく、現実を参照しないで想像だけで作るものには限界があるからであろう。想像だけで作ったものは単調になる。そこには作った人の色が色濃く出るが、所詮は単色である。そういう意味で想像というものは言われるほど自由ではない。それは――当たり前だが――個人の想像力を超えない(そして、大抵の場合、想像力は経験を超えない)。だから、多層性を表現するためには、言い換えれば、風景を描くには、現実から多層性を借りてくるのが一番手堅い方法である。天才と呼ばれる人ならば、現実を参照することなく想像力だけで多層性を実現できるかもしれないし、多人数で想像するという方法(ブレイン・ストーミング)もあるだろう。しかし、どれも確実な方法ではない。私たちの周囲には、現実という多層的なものがあらかじめ存在しているのだから、それを利用しない手はない。無論、これはこれで地道な努力が必要となるのだが(だから、それがおざなりなアニメも多い)。
 実際、スタッフは考証をかなり厳密に行ったらしい。歴史考証やロケハンも含めて。約50年前と1000年前の両方について、手に入る限りの資料を集め、それらを参照して、50年前の光景に関しては、原作者が感嘆し、地元民たちからも文句がでないほどに再現している。1000年前に関しても、衣食住はもちろん、行動についても資料から逸脱した行動は何一つさせていないという徹底ぶりである。もちろん、原作が現実を舞台にした、作者の実体験に基づいた小説だからこそ、そこまでやる意味があるわけで、架空の都市や世界が舞台だと、どこかで現実から離れねばならないだろうが。
 ここで、そんなに現実が重要なら、アニメーションではなく(『ALWAYS 三丁目の夕日』などのように)実写映画にすればよかったではないか、という疑問が思い浮かぶかもしれない。(コストの問題は無視するとしても)しかし、現実の風景は雑多すぎる。ドラマ上の効果から見ればノイズが多すぎる(ノイズが多いからよいという面ももちろんあるが)。その点では、戦略的・組織的に素材を積み上げた、アニメの風景の多層性に分がある。そのためかどうかは分からないが、見たことのある風景がアニメの中に登場するとそれだけである種の感動を覚える。以前に実際に見たときには何の感動も覚えなかった風景が、本作の中では特別なものに見える。また改めて本物を見に行きたいと思わされる。現実に忠実であればあるほど「異化効果」が働くようで、不思議である。
 本作では(本作に限ったことではないが)風景を描くことは手段に過ぎない。目的は「人の心」を描くことであり、それによって、観る人の心を動かすことである。現実はただ利用しているだけだとも言える*3。想像という個人的なレイヤーに閉じてしまわないために、現実という万人に共通のレイヤーを感動のための基盤として利用している。決して現実を描くことそのものが目的ではない(だから、祖父の死という生々しい場面は意図的に避けている*4)。
 現実は、観ている人がキャラクターたちの心やその交流を信じるための縁(よすが)である。重要なのは現実をそのまま描くことではなく(抽象化・理想化はもちろん行われている)、現実とつながりを持たせるということである。
 しかも、物語がその内に視点を含むのと同様に、風景はその内に視点を含む。本作ではそれは主に子供の視点である。すなわち、子供の視点から見た風景が主に描かれている。そして、子供の風景はアニメーションと親和性が高い。それはアニメが主に子供向けの表現形式であるという社会的・文化的事実があるからであるが、それだけというわけではなく、子供にとっては現実がアニメのような風景として見えているからでもあるのではないだろうか。このように言うと反発を招きそうだが、証明するのも難しいので、具体例を挙げてみる。
 例えば、キャラクター・ショーなどで見かけるアニメのキャラクターの着ぐるみというものがある。これにそのアニメやキャラクターが好きな子供は熱中するわけだが、私はいつも不思議に思っていた。アニメで観ているキャラクターとは似ても似付かぬ(と私には思える)着ぐるみを、どうして自分の好きなアニメのキャラクターと同一視できるのか、と。
 あるいは、子供が描いた母親の絵などを見ると、顔が突出して大きく、しかもみんな笑顔の、かなり類型的な絵になっている。
 おそらく、子供にとって世界はそのように見えているのだろう。だから、アニメと着ぐるみの間にそんなに齟齬を感じないのではないだろうか。子供の想像力の中では両者は同一であり、同等に現実的であるのではないだろうか。
 推測がちょっと行き過ぎたが、それはともかく、現実と空想を同じレベルで描くということはアニメにしかできない。実写では空想も現にそこに存在したものとして描くことしかできない。空想のシーンといえども、現にある場所の中で、現に役者が演じなければ撮れないからである。現在と千年前の風景の「二重写し」も実写では不可能とは言わないまでも非常に困難であるだろう。アニメの中で描かれることによって空想は、まったくの想像であるとも過去の現実であるともどちらともつかない、どちらでもあるようなものとして存在することができる。
 したがって、本作のような形で風景を描こうとするならば、少なくとも現段階の映像の技術レベルではアニメという形式が最適であるだろう。


 ここまで『マイマイ新子と千年の魔法』を「風景」という視点から分析してきたが、もちろん、監督自身が私が定義したような風景という概念を意識して作ったと言いたいわけではない。監督自身は、構成の破綻を表現の深化で解消しようとしたとインタビューで語っているが、その表現の深化を私は「風景(を描く)」と呼んでいるのである。そして、表現の深化によって何を目指しているのかといえば、リアリティである。
 リアリティの追求の行き着く先が風景の(再)発見であったという意味では、本作は自然主義的作品であると言える。とはいえ、単なる昔ながらの自然主義への回帰というわけでもなく、新しい要素も加わっている。あえて名付けるなら「ファンタジック・リアリズム」といったところか*5。現代における自然主義の可能性を考える上でも興味深い。これからもっとこういう作品が作られるようになってもよいと思う(が、興行成績のことを考えるとなかなか難しいかも)。


 さて、私の言う風景は、観客の側からはどう見えるのか。
 前述したように本作は多様な層(レイヤー)から成り立っているが、観客がすべてのレイヤーに気づくわけではない。いや、むしろ気付かないときにこそ、その効果は最大化する。すなわち、もっともリアリティを感じ、もっとも感動することができる。
 誤解を招くであろう言い方を許してもらえるなら、本作に観客は集中することができない。というのは、本作の感動の主要原理は、感情移入ではなく、いわば共鳴であるからである。感情が一人の登場人物に収束するのではなく、拡散する*6。言い換えれば、人物にではなく風景に感動する。なぜなら、人の心と風景は別のものではなく、両者は一体化しているからである。したがって、それは共鳴であると同時に感染でもある。人から人への感染ではなく、風景から人への感染である。
 理詰めで考える人はそれを合理化して、自分が感動した原因を一、二個の要素に求めるだろう。それは決して間違いではないのだが、完全な正解でも唯一の正解でもない。感動する理由は人の数だけ、いやそれ以上に存在するからである。それどころか、自分がなぜ感動したかを語ることすら困難である。なぜなら、物語は語ることができるが、風景は語ることができないからである。風景に関しては、言葉によって感動を他の人に十全に伝えることはできず、ただ「見ろ」としか言えない。だから、もし未見の人にこの映画の感想を聞かれたとしたら、私に言えることもただ一つである。
「見てくれ」*7

*1:監督は「できるだけ泣けないように作ろうとしていた」と言っている。

*2:新子の空想を風景に溶け込ませるために、新子の空想は、最初は幼児の描いたクレヨン画のような絵として表現され、次は水墨画のような絵になり、最後に周囲の風景と同じアニメ絵になるという“仕掛け”が施されている。

*3:ただ、その利用の仕方はハンパないのだが。

*4:現実を描こうとか泣かせようなどと思っていたならば、祖父の死の場面はそのために格好のものであったろう。

*5:ただし、ここでのファンタジーとは、《絵空事という意味ではなくて、どこか心の中で抱く物語としてのファンタジー》(「片渕須直監督演出の魔法(1)」http://animeanime.jp/interview/katabuchi1.html)のこと。

*6:そういう意味では音楽に近い。曲を聞いてどこに感動したかをピンポイントで指摘することはできない。感動したポイントを指摘しようとすればするほど、それは限りなく拡散していく、曲全体へと。

*7:現在ではそれも難しいですが、続映・再映している映画館もあるので、その輪が広がることを願いましょう。