趣味と政治の相克―児ポ法問題に寄せて

http://d.hatena.ne.jp/araignet/20080316/1205667464

 一言で言えば、「表現規制には反対だが、二次オタは反対の仕方を間違っている」という話である。
 以下、このエントリに対する疑問点を列挙し、この問題に関する僕なりのまとめを提示する。

まず、この問題を、いきなり萌え系全体、さらには宮崎アニメにまで拡張された場合を勝手に想定して、児童ポルノ禁止法の不備を指摘する議論が多すぎる。改正賛成派が改正案を通すにあたって、彼らなりの現実的な線を出してくるだろうし、それが行き過ぎなのであれば、その時に議論すればいいことだろう。この改正案が確実に萌え文化全体に波及するに違いないと主張して、他のあらゆるライン引きの可能性を全否定する議論に、何の有効性もない。──そして、こうした議論がもっともらしく通用してしまうのは、もちろん論者が問題が「二次オタ」差別だと思いこんでいるからだ。

「二次オタ」差別だと思い込んでいる人がいることには同意する。しかし、この問題の原因をそこに還元するのは間違っているとも思う。
 というのも、それならなぜ「彼らなりの現実的な線」を最初から出さないのかを説明していないからである。
 そこで思い出されるのが刑法175条の教訓である。そこでの「わいせつ」概念は曖昧であり、そのために制作者や出版社は出版するまで作品が「わいせつ」かどうか自分たちでは判断できず、当局もまたその曖昧さを利用して、恣意的に取り締まっている。例えば、松文館裁判では、同程度あるいはそれ以上に過激な作品はいくらでもあったにもかかわらず、なぜあの作品だけが罪に問われたのか、法理的な根拠は今にいたるまで示されていない。
 そのことがあるから、オタクたちは敏感にならざるを得ない。決して児ポ法および改正案が二次オタ差別だから(というだけ)ではない。それが全く根拠のない不安だと言うのなら、どうして改正派は明確な基準を提出していていないのだろうか。どうしても刑法175条と同じ効果を期待しているからではないかと邪推したくなってしまう*1
 だから、コメント欄で以下のように言われているが、僕は、改正派は最後まで基準を明確化しないだろうと思っている。するとしたら、最後の最後にしぶしぶだろう。

どこまでがセーフなのか明らかにされて、大衆が「あ、そういうのなら規制された方がいいよね、どうせ自分には関係ないし」って認めだしたら、もうアウトなんですよ。》

 というのも、基準を明確にすればそれだけ反論しやすくなってしまう、言い換えれば、反論可能性に対して開かれすぎてしまうからである*2
 万人に認められる基準が作成可能ならば、現時点でそれを提出すればよい。そうしないのはそれが不可能だからではないか。
 だから、僕は逆に、明確な基準を出せるものなら出してみろと思っている。そして、アドホックに反論に対応するのではなく、法案中にそれを条文として盛り込んでいただきたい。そのように言うことが改正派への最大の反論なのではないかと思っている*3
 宮崎アニメ等を持ち出すのは、そういった現実的不安を伴った反論の一形態である。
 一方で他の国では『ドラえもん』のしずかちゃんの入浴シーンが削除されているという現実があるわけで、コンテンツ産業振興のために日本のマンガ・アニメを国際基準に適合するものにするというお題目には、そうなるという意味も含まれているはずである。
 そういった瑣末な問題に瑣末であるからこそ、「危機感がない」とか「筋がよくない」と切って済ますのではなく、きちんと「法案内のこの条文により、そのような拡張は不可能である」と反論して欲しい。
 なぜなら、改正派のターゲットが二次オタでないとしても、改正案の文言は二次オタに適用されることを妨げるものではないということもまた確かであるからである。である以上は、巻き込まれただけなら殺されてもよいと思う人がいないのと同様、法律が公共的なものであり、二次オタを特別に狙い撃ちしないのと同じく、二次オタを適用の例外にしてくれるわけでもない以上、二次オタが改正反対の声を挙げるのは当然の権利である。
 問題はその声の内容が正しくないのではないかということなのだろうが、政治的には声を挙げるということ自体が力を持つ。注目を浴びないうちならこっそり法案を通すということもできるだろうが、注目を浴びればそれはできなくなる。人は内容の正しさではなく声の大きさに動かされるものなのだから*4
 ともあれ、なぜ今この段階で、(刑法175条の教訓を生かすことなく)これほど強権的で曖昧な改正案が提出されたのかがよく分からないというのが根本にある*5。その謎という空白を埋めようとして、人々は様々な物語を作る。松文館裁判のときはある議員からの介入があったようだが、この場合もそのように外的な理由があるのではないかと、人々は日本ユニセフ協会が悪の元凶だとか、二次オタ潰しだとか邪推する。最近の例だと、mixi利用規約変更問題と同じである。

さて、こうした鬼畜ロリが一般女性にどのように映っているのだろうか。

 いきなり「一般女性」という言葉が出てくるが、児童買春・児童ポルノ処罰法って、一般女性のための法律だったろうか? 「児童の権利の擁護」(第一条)のための法律じゃなかっただろうか。
 それは改正派が一般女性であるという認識からであろう。だが、それは事実認識として誤っている*6。男性で改正に賛成の人もたくさんいるし、女性で改正に反対の人もいる。にもかかわず、これ以降、議論は「一般女性」(「彼女たち」)がどう思っているかを述べるだけで、児ポ法改正に賛成する男性や子どものことには触れられない。より正確に言えば、「男性一般」は二次オタによって代表させられ、子どもは「少女一般」によって代表させられ、少女一般は一般女性に吸収される。つまり、「女子ども」の論理である。
 全体的にどうもそういった乱暴な一般化が目立つ。

そして、それは「ロリコン」キモイということでは決してなくて、「女性一般」に対する「男性一般」の暴力への恐怖として受け取られるのだ。

 なぜ、「女性一般」「男性一般」なのか? 普遍化(ゲシュタルト化)ということなら、「『人間一般』に対する『人間一般』の暴力への恐怖」として受け取られてもいいのではないか? 実際、対人恐怖症というものもあるわけだし、鬼畜ロリ表現によって引き起こされた恐怖は男性一般への恐怖へと拡張されるが、男性一般を超えて他人一般へと拡張されることはない(鬼畜ロリ表現によって恐怖を引き起こされるのは女性一般であり、男性一般であることは決してない)とする根拠はどこにあるのだろうか?
 女性間の差異は無視して「女性一般」とし、男性間の差異は無視して「男性一般」とするのに、男女間の差異を無視して「人間一般」としないのはなぜなのか? 男女の非対称性にもかかわらず、男性同士は皆対称的、女性同士は皆対称的なのはなぜなのか? 男女が非対称ならどうして女性同士が皆対称的であると分かるのだろうか? もしかして、男性にとっては女性は皆対称的だから(別の言い方をすれば、男は女性であれば誰とでもヤれるから)だろうか? もしそうだとしたら、終始男性にとっての女性の話をしてるのであろうか? つまり、女性には「ちょっとした下ネタにすら顔を伏せてしまう」ような存在であって欲しいということなのだろうか? だからこそ、そちらの女性を女性二次オタより優先するのだろうか?

それゆえ、二次鬼畜ロリ表現は当人が未成年でなくとも恐怖を与えるのであり、「これは少女であって、あなたではないでしょ?」とか「これは二次であって、三次ではないでしょ?」という言い分は通用しない。

 論理的には同様に、「これは女性であって、男性ではないでしょ?」という言い分も通用しないはずである。もしそうだとしたら、男性も「二次鬼畜ロリ表現」によって恐怖を与えられることになるはずである。だから、二次鬼畜ロリ表現を描いたり読んだりする男性は、恐怖に耐えながらそうしているということになる。
 そうではないのだとしたら、なぜ一足飛びに「女性一般」へとは拡大されるのに、「人間一般」へとは拡大されないのか説明が必要だろう(男性が決してレイプされないということはないのだから)。男性と女性というセックスあるいはジェンダーの間に明確な境界線を引く根拠はセクシズムでないとしたら何なのだろうか?
 レイプという性的関係においては性差が決定的だからと答えるのだとしたら、どうして性的関係に限定しなければならないのだろうか? 暴力行為一般ではなくレイプのみを特別に問題視せねばならない理由は何なのだろうか? 暴力行為一般に問題を広げるなら、ポルノ禁止も暴力表現の禁止の一環として位置づけられる。それでは駄目なのだろうか? 「レイプの動機は単に性的欲求ではなく、力の誇示」であるので、そちらの方が実情に合っていると思うのだが。
「男性が男性にレイプされるのと、女性が男性にレイプされるのでは、圧倒的に確率が違う」という事実を根拠にするのなら、女性であっても年齢によって区分できるだろうし、レイプに遭う確率よりは交通事故に遭う確率の方が高い。だから、女性はレイプに遭う恐怖よりも交通事故に遭う恐怖の方が大きくて切実であるはずである。したがって、児童ポルノを規制するより、自動車等を規制する方が先のはずである。しかし、そうはならない。なぜなら、コメントで他の人も言っている通り、恐怖は確率に駆動されているわけではないからである。
 ついでに指摘しておくと、《レイプ犯は相手を指定して襲うのではなく、単に手ごろな女性を狙うのだ》と言われているが、日本ではレイプ犯罪において被害者と加害者が顔見知りの割合は少なくとも三割以上、「知らない人にレイプされた人に比べ報告しない傾向が強いので」、実際にはもっと割合は高いと思われる。さらに、被害者が子どもの場合は行動範囲が狭いので、もっと顔見知りである割合が増えると思われる。家族や恋人が加害者の場合は、そもそもレイプであると認識されていないことも多いだろう。
参照:
レイプにまつわる「迷信」
http://www.msf.or.jp/2006/09/05/5100/msf1.php

 男性と女性という分け方をするから話がおかしくなるのであって、準児童ポルノを見たい者と見たくない者(および、見せたくない者)という分け方をすれば話はすっきりするのではないか。
 男性であろうが女性であろうが、見たい者はいくらでも見ればよいが、見たくない者・見せたくない者の目に不用意に触れない仕方で売買・所持・観賞すべき。見たい者が見たいのは見たいからであり、見たくない者が見たくないのは見たくないからであり、見せたくない者に見せたくないのは見せたくないからである。以上。
 そうすれば、「私は準児童ポルノを見たくない、なぜなら私が女性であるからであり、というのも準児童ポルノは男性による性的暴力衝動の具体化した図像であるが故に、それを見た女という性に属する自分は、女性一般に対する男性一般の暴力への恐怖を引き起こされるからである」といった、セクシュアリティにまつわる「告白の政治学」に巻き込まれないで済む。すなわち、内面を問われないで済む。しかも、女性のみが一方的に「告白」を強いられるという不均衡も避けられる。


 さらにまた、子どもではなく女性一般が問題にされているので、準児童ポルノという限定すらも必要ない。《児ポ法に伴う御題目は形式上のものであって、そもそも問題はペドフィリアにない可能性すらある》という言葉は何よりも自分自身に返ってくる。
 ここで言われていることは、ポルノ全部に当てはまることであり、警告はオタク業界だけでなく、ポルノ業界全体に対して発するべきだろう*7。いや、いわゆるポルノ業界に限った話でもなく、暴力表現を含むすべてのメディアに対して警告すべきである。話の展開としてはそうなるはずである(それとも、ちゃんと書かなかったが本当はそういうつもりだったのかもしれない)。
 いや、暴力表現にすら限定する必要はない。どんな表現にもそれを不快に思う人たちはいる。例えば、「道化恐怖症(coulrophobia)」というものがあるらしい。だとすれば、ピエロの格好をして街頭に立つことや、ピエロをメディアに登場させることも規制されてしかるべきのはずである。
X51.ORG : 笑顔か、あるいは狂気か - 道化恐怖症とは


 以上の点を踏まえて、下の文章を少し書き換えてみよう。

現実に女性は夜一人道を歩く時、就寝前に閉じまりを確認する時、男性からの性的暴力の恐怖を脳裏によぎらせながら生活することを強いられている。誰の発言かは忘れてしまったが、ある女性が、女性がそうしたリスクを背負うことを、さも当然のように要求する男性論者に対して、「自分の欲望も制御できない男どもはかたっぱしから去勢しろ」と述べていて、そう言われると本当にそうだなぁ、と思うし、自分に男性器があることを少し呪った。

 現実に歩行者は道を歩く時、横断歩道を渡る時、自動車やバイクからの暴力の恐怖を脳裏によぎらせながら生活することを強いられている。誰の発言かは忘れてしまったが、ある歩行者が、歩行者がそうしたリスクを背負うことを、さも当然のように要求するドライバーに対して、「自分の欲望も制御できないドライバーどもはかたっぱしから免停にしろ」と述べていて、そう言われると本当にそうだなぁ、と思うし、自分が運転免許を持っていることを少し呪った。


 たちのよくない議論の広げ方であり、詭弁に近いと承知している。ただ僕は知りたいのである。児ポ法は妥協の産物で、いきなりの大規模な規制は無理と考えての現実的な落としどころなのか、論理的な根拠に基づく限定なのかを。
 そして、ここまでのことから分かるのは、おそらく児ポ法およびその改正案は論理的には擁護できないであろうということである。論理的一貫性を保とうとするなら、他人に精神的苦痛を与える怖れのある表現はすべて禁止すべきであり、それは実質的にはほとんどの表現を禁止することである。
 中にはそこまで主張する(主張したげな)人もいるようだが、そこまで主張するのでない人は、論理的整合性を根拠にできないので、別の正当化の根拠を持ち込まねばならない。araignetさんの場合それは女性一般の恐怖である。それは児ポ規制正当化の根拠であるだけでなく、児ポ規制問題に論理的一貫性を要求しないことの正当化の根拠ともなっている。つまり、児童ポルノを見て深刻な恐怖を感じる女性がいるので(女性は一般にそういうものであるので)、論理的一貫性を欠いているとしても、児童ポルノに何らかの規制を加えるべきである(ゾーニングが好ましい)。


 だが、準児童ポルノを読むことで深刻な恐怖を与えられた女性が実際どれほどいるというのだろうか?
 それとの関連で言うと、準児童ポルノコミックの表紙の問題に言及しているが、表紙がゾーニングとして機能しているという側面もあるのではないだろうか。ある程度の覚悟のない者にとっては「こんな表紙の本を購入するのは恥ずかしい」と思わせ、未成年には周囲の目が気になり購入しにくくさせる。表紙によって「自分たちもやばいものを、恐る恐る販売してるんですよ、というメタメッセージ」を発しているとも考えられるわけである。逆に言えば、中身が過激でも、表紙がおとなしいものだと、さほどの抵抗なく一般書店で購入できてしまう。レディースコミック等で問題になったのはそこである。穏当な表紙だから、親や地域の人たちの監視の目が届かない。ヌードグラビアのある男性週刊誌と似た不都合である。
 その意味では、過激な表紙も「区別を可視化する努力」の一環だと言える*8
 そのような表紙のおかげで、遠くからでも怪しげな本が置いてあることが一目瞭然であり、女性たち(見たくない人たち)は、遠目で見てその一角には近づかないだろう。これは頼りない方法に思えるかもしれないが結構強力で、書店を日常的に利用する成人男性であってもライトノベルやBL小説の存在すら知らないことが多いが、これは物理的にそれらが隔離されているからではなく、表紙等の外観でそこに自分の求めるものはないと分かるからである。
「これは何の本だろう? 手にとってよく見ると、『全身何かの液にまみれていて、下着の中にはローターやバイブが入ってたり、露骨に男性器が挿入されてたりする』。私もこんなことをされるかもしれない。怖い」と感じるまで表紙を凝視する女性が一体どれほどいるというのだろうか? それとも女性は子どもと一緒で自分がアクセスする情報を取捨選択することができないと考えているのだろうか? それは性差別ではないのか。
 その点では規制推進派も一緒で、全然読んだことがないか、一冊読んだことがあればよい方だろう*9。内容のチェックのために義務感でたくさん読んでいる人は少数いるだろうが、規制派の大半は、準児童ポルノを読みもしないで規制論を唱えているのではないか、という疑いを拭い去れないのである。鯨を食べる習慣のない国が捕鯨に反対するように。人は自分の快楽や利益に寄与しないと思っているものに対しては非常に冷淡になれる。非喫煙者が喫煙者に対して冷淡なように。
 規制派は児童ポルノが切実な脅威となっているからではなく、むしろ児童ポルノが自分に無関係だと思っているからこそ、規制を叫ぶのではないか*10。その意味では、関係者が規制の音頭を取るという案(法律で規制される前に自己規制案)には賛成する。
 若い女性が日常的に男性に襲われるかもしれないという恐怖を潜在的に抱いていており、時によっては、あるいは人によっては、深刻な恐怖を抱くこともある、ということまでなら納得できる*11。しかし、araignetさんが示唆するように、女性が皆、女性であるということ自体によって必然的に深刻な恐怖を感じており、他方で男性は皆、全然そのような恐怖を感じることがない、という話は信じられない。そのように深刻な恐怖を感じていると前提しては理解できない女性たちの振る舞いが多すぎるし、とりわけ自発的に性産業に従事する女性がいるなんてことはありえないはずである*12。それとも、性産業に従事する女性たちは全員強制的に働かされているのだろうか。さらには、男性が女装したり、性転換したりする現象も理解不可能になる。それは深刻な恐怖を全く感じない状態から絶えず感じ続ける状態へと自発的に移行することになるのだから。
 僕が男性であるから分からないのだと反論されるならば、男性であっても災害や事故やレイプ以外の理不尽な暴力等の被害を受ける可能性は常にあるが、普段それらに怯えながら生活しているわけではない。それとも、女性やレイプのみが特別なのだろうか。
 その上で、「一般女性に深刻な恐怖を、その表現そのものが与えている」ということがもしあるとしたら、それはどれほど確かなものなのだろうか? それは、二次オタの弾圧への恐怖と同じくらい想像的なものではないだろうか? つまり、現実(実態)をよく知らないが故に沸き起こる恐怖や不安なのではないか? だとすれば、必要なのは規制ではなくて、よく知ってもらうための努力ではないのか。準児童ポルノに関する紹介や批評ではないのか。
 ハイカルチャーが「芸術」というコンテクストを作り出し、それを利用することで、ヌードを社会に許容させたように、オタク業界も自分たちの表現を許容させるためのコンテクストを作る努力をせねばならない。マンガに関しては既に、大学の学科に組み入れたり、マンガミュージアムを作ったりと、その努力は始まっている(まだ始まったばかりではあるが)。再びマイナー化して世間の人たちの目の届かない場所に引きこもって、いつ規制や迫害の対象となってもおかしくないとびくびくしながら当局のお目こぼしにすがって過ごすつもりでないならば、分析や批評をいたずらに嫌がっているだけでは済まない。非オタクによるオタク文化の搾取だと非難するだけでなく、逆に非オタクを利用してやるぐらいの心構えでいいと思う。そういう意味でなら「幼年期は終わった」という見解に同意する*13


 男女の非対称性と対照を成す形で現実と虚構の対称性(「二次と三次に区別はない」)が主張されているが、それにもいささか疑問がある。
 準児童ポルノの中に登場する女は、男の妄想の中の女*14であり、現実の女とは非関連である*15。その意味で、準児童ポルノにおいては(三次元の)被害児童はいない。
 だが、araignetさんによれば、準児童ポルノは《一般女性に深刻な恐怖を、その表現そのものが与えている》が故に悪い。なぜ恐怖を与えるのか? それを読んだ女性に「男性による性的暴力衝動」を想起させるからである。その点では、二次の方が三次より勝ってさえいる。

二次による表現は、三次による表現以上に女性にダメージを与えてしまう可能性がある。なぜなら、それが純粋なファンタジーであるが故にこそ、「男性一般」の欲望が、一瞬で把握される図像として、あからさまな形で提示されてしまうからだ。

 松文館裁判で裁判所はマンガは実写よりわいせつ性が低いという判断を下した。だからそれが正しい、と言うつもりはないが、少なくとも上の見解が一般的なものだとは言えないだろう。それだけでなく、改正提唱者たちは二次元の児童ポルノを「準児童ポルノ」と呼んでいるが、そこには三次元の児童ポルノに準ずるものという意味が込められていると思われる。決して「純児童ポルノ」とは呼んでいないのである。
 そもそも、準児童ポルノは「純粋なファンタジー」だから悪いのか、それとも、ファンタジーであるだけでは済まず、現実の性的暴力を想起させるから悪いのかがはっきりしない。後者だとすれば、写実的であればあるほどまずいということになるが、前者だとすれば、写実的でなくなればなくなるほどまずいということになる。
 どうやら絵であれ実写であれ、男性が持つ女性への性的暴力衝動を提示し、「女という性に所属する自分」への具体的性的暴力を想起させるものは、女性の恐怖心を引き起こすので駄目ということらしい*16。だが、そのように二次と三次の区別を認めないのであれば、自分のレイプ体験を告白することも、レイプ事件を報道することも、自分もレイプされるかもしれないという恐怖心を喚起するので規制すべきとなってしまう。それはそれで「報道被害」という考慮に値する問題だと思うが、それだけでなく、レイプされた女性が加害者を訴えることも裁判に関わる女性の恐怖心を喚起するので控えるべき(あるいは、裁判に女性を関係させるべきではない)となってしまう。
 これは論理的にはそうなるという話であると同時に、現実に女性の恐怖はそこまで広がるのではないのかという疑問、そうではないとしたらそれはなぜかという疑問でもある*17(だから、反論ではない)。


 araignetさんの議論からは離れるが、もっと単純な人だと準児童ポルノを単なる「欲望の代替物」と見なす。
 児童を犯すマンガを描く者や読む者は児童を犯したいと思っている。だから、何かの拍子にその欲望が三次元の児童へ向けられると懸念する。
 だが、ミステリ作家および読者は人を殺したいと思っているのか?
School Days』の制作者および男性視聴者は女性に殺されたいと思っているのか?
 レイプされた男性に惚れるというストーリーが多く見られる少女漫画は少女たちのレイプ願望を示しているのか?
 そんな単純な話ではないと言うのなら、どうして準児童ポルノのみが例外とされるのか?
 一般に男性向け成年コミックで微に入り細に入り描写されるのは女性の快楽であって、男性の側の快楽の描写は女性に比べれば圧倒的に貧弱である。男性がポルノにおいて男性に感情移入して観賞しているなら、女性が感じているかどうかはどうでもよく、男性が快楽を感じていさえすればよいはずである。現実のレイプとはそういうものである(女性の都合(快苦)を一切考慮せず、男性が身勝手に女性を性欲の捌け口にする)。
 つまり、永山薫氏が指摘しているように、エロマンガ等において男性読者は女性の側に感情移入しているとも考えられるのである。この見解が正しいかどうかはともかく、ポルノであっても話は単純ではないということは分かっていただけるかと思う*18
「性的暴力衝動→レイプ」という筋道はまだ分かる(納得できるという意味ではないが)。だが、「性的暴力衝動→鬼畜ロリ執筆・観賞」という筋道はよく分からない。鬼畜ロリの読者が決して性犯罪を犯さないという意味ではない。なぜ性的暴力衝動が鬼畜ロリを読むことで部分的にであれ満足するのか、その筋道が分からないということである。仮に両者が結びつくとしても、それは直接にではなく、その間には様々な途中過程が介在しているだろう。それどころか、二次元と三次元ではそこに向けられる欲望の構造が異なる、というのが僕の現時点での考えである*19
 代替物論者は別に二次オタを差別しているわけではない。むしろ、彼らにとっては真の意味での二次オタは存在しない。彼らにしてみれば、いわゆる二次オタは、三次元でモテない欲求不満を二次元で(不完全に)解消しているだけということになるだろう。
 僕が言いたいことは、二次元と三次元を区別すべきということ、現実と空想を混同するなということである。
 その意味では、創作物を規制する別の新しい法律を作るという案の方がまだよい(賛成はしないが)。


「中途半端な一般化が目立つ」と言ったが、意地悪に過ぎる見方だったかもしれない。
「一般」を「普遍」ではなく「普通」の意味で取るべきなのかもしれない。すると、一般的な人たちを念頭に置いているのであって、例外的な人たち(マイノリティ)はとりあえず考慮の外に置くという議論構造になっていると思われる。
「一般女性」あるいは「女性一般」について語るとき、それは女性全員について語っているのではなく、女性の傾向性について語っているのである。それは言い換えれば、「確率」の問題でもある。確率の高いことと確率の低いことがあれば、確率の高い方が優先される。女性のことだけでなく、万事がその論理に貫かれている。
 そう考えれば、議論の進め方にも納得が行く。「女性二次ヲタの存在をもって、結論をひるがえすことはない」のも、鬼畜ショタについては考慮に入れないのも、確率の問題、言い換えれば、数の問題である。
 児童ポルノ問題を、社会的・政治的な次元で扱おうとしているのである。
「だから論理的正しさも、理念もどうでもいいんですね」という話も、「児童ポルノの蔓延が、児童に性欲を向けるべきではない、というコンテクストを揺るがすから危険」という話も、そことつながる。
 その立場からすれば、三次元も二次元も社会的影響において等価なものとして扱える。それは、現実とフィクションが同程度の影響力を持つということではなくて、社会の次元においては、現実とフィクションという区分は働かず、社会的影響の大小によってのみ捉えられるということである*20
 そこでは児童本人がどう思うかは関係ない。だから、児童本人がそれを望んだのだという言い分は――たとえそれが真実であったとしても――通らない。だから、そもそも内面(人格や心)を持たない虚構のキャラクターであっても構わない。
 結局、児童ポルノ問題は社会の問題であり、個人の幸福の問題ではない、というのがaraignetさんの議論に伏在する主張である。
 もちろん、この立場自体に問題がないわけではない。
 問題の一つは、メタメッセージの不確定性である。
 上述の立場からは、ある行為や法令等の発するメタメッセージが重要となるのだが、メタメッセージもまた文脈から自由であるわけではないのだから、それがどう理解されるかは状況や人による。メタメッセージといえども、誤解の余地なくただ一つの意味が伝わるわけではないのは、通常のメッセージと同じである。
 犯罪を犯したら警察に捕まるという事実から、警察に見つかりさえしなければ何をしてもいいというメタメッセージを、法律の存在から、法律に触れさえしなければ何をしてもいいというメタメッセージを受け取る者だっているかもしれない。だからといって、警察や法律をなくせばよいとはならないはずである。
 児ポ法の場合でも、例えば、宮台真司氏は、そこから「他人を自由にするためならば何をしてもよい」というメタメッセージを読み取っている。あるいは、「準児童ポルノが児童への性的虐待の一因である」という人々の偏見を助長するメタメッセージを読み取る人もいるだろう。
 そもそも、現段階でもオタク業界は準児童ポルノについて「自分たちもやばいものを、恐る恐る販売してるんですよ、というメタメッセージ」をある程度は発している。むしろ、規制推進派は、ネガティブメッセージが現に流通しているという事実を利用して、すなわち、業界関係者の後ろめたさを利用して、児童ポルノのみをターゲットに絞る。その後ろめたさのせいで、業界関係者は強く反対できないが故に、そこが「弱い環」だからである*21
 だが、そのネガティブメッセージのせいで、準児童ポルノを紹介したり評論したりする場が生まれない。いつまでもこそこそと日陰に隠れ、それによってなおさら女性の想像的恐怖をあおり続けるという悪循環が生まれている。
 かくほどさように、メタメッセージは多義的であり、それに応じて多様な正負の効果を持つ。したがって、「児童ポルノの蔓延が、児童に性欲を向けるべきではない、というコンテクストを揺るがす」と一義的に確定できる人物はどこにも存在しない。例えば、既に児童ポルノの単純所持まで禁止している国家において児童への性的虐待が減少したという実証的データがあるのだろうか?*22
 一つの事物から正反対のメッセージを恣意的に引き出すことができる以上、ある行為を禁止する際に、具体的被害ではなくメタメッセージを根拠にすることには問題があると言わざるを得ない。
 そして、最大の問題はおそらく、子どもの問題を社会の問題へと還元・解消しようとすることであろう。第一に守られるべきは社会(一般人)であって、社会が守られる限りにおいて子どもの人権は尊重される。言い換えれば、個々の子どもを守ろうとするのではなく、子どもたちが被害に遭いにくい社会を作ることを目指す。だからこそ、araignetさんは、個々の子どもの幸福ということに一切触れずに最後まで議論を進める。
 しかし、児ポ法の目的は「児童の権利の擁護」であり、それは具体的には個々の子どもたちの不幸を減らし幸福を守ることであるはずだ。しかし、それを無視して社会の次元で議論を進めるなら、児ポ法は話のまくらに過ぎず、本題ではないということになり、なにも話を児ポ法に限定する必要はないということになる(すなわち、それは児ポ法の話に見えてそうではない)。
 もし個人の幸福に焦点を当てるなら、被害児童がいるかどうかはどうでもよい問題ではない*23
 性的虐待を受けている児童にとっては、ネガティブメッセージを発するものをなくすということはどうでもいい。それよりも今受けているこの虐待を止めて欲しいと願っているはずである。殺される者には「殺人は悪である」というメタメッセージが無力なのと同様である。無論、これは社会的次元からの議論が間違っているということではなく、複数の立場がありうるということである。
 しかも、「三次元であるか二次元であるかはどうでもいい」と言い切ってしまうことは、子どもに対する実際の性的搾取及び性的虐待の真の原因から目をそらさせる。社会的次元では、二次元における被害も三次元における被害も等しくその社会的な効果によって評定され、その直接原因ではなく社会的原因に注目するからである。だから、児ポ法改正によって実際の性的虐待が減少するか増大するかには総じてあまり注意が払われない。
 だが、直接の被害が減るのなら社会的効果は二の次でよいという考え方もあるだろう。その立場からすれば、準児童ポルノ規制という児童への直接的効果の期待しがたいことを行うより先に、実際の被害を減らす努力をせよとなるだろう。
 ここには、個人を優先するのか、それとも社会を優先するのかという対立がある*24。言い換えれば、個人主義コミュニタリアニズム*25の対立である。この対立には長い伝統があり、どちらの言い分にも一理あるので、現時点でどちらが正しいと結論を出すことは僕にはできない*26


 以上、細かい疑問点を挙げてきたが、全体としては「オタクよ、もっと政治的であれ」というメッセージとして受け取った。
 オタクとは趣味による人格類型であるが、趣味は私的領域に属し、政治は公的領域に属する。だから、オタクが政治が苦手なのは当たり前と言える。しかし幸か不幸か、オタクがメジャー化するという事態が出来してしまった。それは私的なものが私的なまま公的領域へ流出するということを意味した。
 森川嘉一郎氏が秋葉原を「趣都」と呼んだのは、個人的な趣味が街の景観を一変させたからだが、それと同じことが全国規模で漸進的に起こっているのである。森川氏はそれを「個室が都市空間へと延長する」と表現したが、言い換えれば、内と外の区別がなくなるということである。
 人は通常、家(部屋)の中と外では服装や態度を変える。家の中ではラフなものに、家の外ではフォーマルなものに。もちろん、来客があれば家の中でも服装や態度をフォーマルにするが、それは内と外という区別がないということを意味しない。むしろ、その区別があるからこそ、服装や態度を変えるのである。
 しかし、その区別がだんだんなくなってきている。今までは自分や親しい人の家の中でしかやらなかったことを、平気で外でやるようになってきている。オタクだけのことではない。例えば、電車内で化粧する女子高生などもそうである(聞いたところでは、歯磨きをする若者やカップラーメンをすする若者もいるらしい)。
 それを技術的に支えている主なツールは、携帯電話とインターネットである。ケータイは外を内にし、ネットは内を外にする。
 昔は、私的な電話は家の中でするものだった。だが、ケータイが普及したために、外で近くにいない人とも親密な会話を行うことができる。メールであれば、どんなにプライベートなことでも文章でやり取りできる。人ごみの中でもゲームやネットで自分だけの世界に没頭することもできる。さらに、ケータイや携帯プレーヤーで好きな音楽を流して、イヤホンやヘッドホンでそれを聞いて外界の音をシャットアウトすれば完璧である。
 ネットでは、政治的な見解を明らかにするという公的領域に属する行為を、自分の部屋の中という最も私的な領域にいながら行うことができる。ネットで散見される不用意な発言やたわいもない発言は、家の中で話す感覚でネットに書き込んでいるから、ということもあるのではないだろうか。
 準児童ポルノも本来私的領域で観賞するものであったのだが、そしてそれならば問題はなかった(少なくとも、社会問題化はされなかった)のだが、私的領域の公的領域への流出とともに、見たくない人たちの目にも触れる機会が多くなってしまった。そこで「ゾーニングの必要性」ということが言われるわけだが、「ゾーニング」というと何か新しいもの、面倒なもののように思えるが、要は、家の中と外の区別をはっきりつけろということである。それは本来、法律による規制だとか、ゾーニングだとかの問題ではなく、躾(マナー)の問題である。
 (準)児童ポルノを女性や子どもの目に触れないところに置くべきだという主張は、性行為自体は悪いことではないけれど、家の中で、(子供も含めて)他の人が見ていないところでしましょうという主張とそれほど変わるところはない。
 路チューしているカップルを見たら、そういうことは自分の目に触れないところで、家の中でやれと思う。それと似た苛立ちが、ゾーニングを訴える人にはある。
 そしてそれは本来マナーの問題なのだが、ただ、躾がなっていない人たちが増えたから、社会の側で対策を講じなければならない。そういうことではないだろうか。


 僕自身は、オタクが政治的に無策すぎるという意見に一定の理を認めつつも、同時に、オタクが持つ非社会的な性向、非社会性への志向を全否定したくないという思いもある。というのも、オタクというものを社会化に対する抵抗(脱社会化)として捉え、評価したいと思っているからである。
 多分に自己弁護とロマンティシズムが含まれているとは思うのだが、社会を相対化する視線を持ち続けるためのヒントにオタクがなる気がするのである。情勢がそれとは逆の方向、相対化が困難になっていく方向に向かっているのでなおさら。
 あるいは、ゾーニングをきっちりしろという話は結局、ジャンル分けを欧米並みにしろということなのだが、アメリカでは細かいジャンル分けがしっかりあって、そこから絶対に外れないために新しいものも生まれにくいと聞く(ジャンル分けに馴染まない作品は店頭に置いてさえもらえないとも聞いたことがある)。僕が聞いたことがあるのは、音楽とファッションの話で、アメリカの白人たちは自分たちでは新しいものをほとんど生み出さず、他で生まれた新しいものを取り入れるだけだという。それに対して日本ではジャンル分けがユルいために、異なるジャンルのものが融合され、新しいものが生まれるのだとか。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20080416/153213/
 だから日本のコンテンツ産業の創造性を守るために準児童ポルノを見たくない人は我慢しろ、と一方的に強いて済ませばよいというわけではないのはもちろんだが、ゾーニングということを考える際には、ジャンル分けがユルいという日本の特徴から生じる効果についても注意を払いたいのである。
 オタクのユルさは日本文化そのもののユルさである。オタクについて考えるということは、オタクを生んだ日本のユルさという独自性について考えることでもある。それを国際基準の名の下に簡単に切って捨ててよいとは思えないのだ(『2007-2008 マンガ論争勃発』(pp.195-197)参照)。


 今回も「結論がない」と思われるんだろうなぁ。

*1:無論、刑法175条と同じで、実際に逮捕され起訴されるのはごくわずかの人だけであり、大部分の人は逮捕されないだろうし、大部分の作品は見逃されるであろう。しかし、それこそが問題なのである。自分や自分の作品が法に抵触していないから無事なのか、当局のお目こぼしのせいで無事なのか、当人にはいつまでも判断できないという状況に万人が置かれることになるからである。

*2:あらかじめ、あらゆる逃げ道を塞いでおこうという意図もあるのだろうが、強力すぎる農薬は虫だけでなく人間にも害があるということを知るべきである。

*3:もちろん、映画における映倫のような機関「漫倫」を作って、そこに判断させようという方策は、それだけでは意味がない。明確な基準を作らねば、特定の団体に解釈権を独占させるだけであり、(利権云々は別としても)問題は少しも解決しない。

*4:炎上したブログがしばしば閉鎖するのは、コメントの内容が正しいからではない。ネガティブコメントの量に圧倒されるからである。

*5:(科学的には証明されていないが)仮に準児童ポルノ児童虐待に何らかの悪影響を与えるのだとしても、準児童ポルノ規制はそれほど緊急性の高い問題なのか、もっと他に先にやっておくべきことがあるのではないか、という疑問が規制反対派にはある程度共通のものとしてあるように思う。

*6:女性の割合が高いのは確かであるし、中心にいるのは女性であるというイメージがあるが、そのイメージが正しいかどうかを確認する術は今のところない。

*7:《ただ女性側に立ってみたとき、18歳未満の性暴力を描くのはアウトだけど、18歳以上と認められるならOKという標別は、理性的には受け入れられても、感情的には疑問が残るだろうなぁ、というのは確か》と言われているが、僕はむしろ「理性的に」(論理的に)受け入れられないのである。

*8:もちろん、表紙によるゾーニング効果を認めた上で、それだけでは不十分だから、もっと強力なゾーニングを行うべきだという議論はされてしかるべきである。

*9:これは純粋な想像で言っているので、間違っていたら素直に謝ります。

*10:改正案のメタメッセージの一つは「私たちは『準児童ポルノ』がこの世から消滅したとしても、全然困りません」である。オタクたちは、自分たちを無視されたことに対して苛立ち、「私はここにいる!」と言いたくて声を挙げたのだ。だから、声を発して自分たちの存在に気づいてもらうことが第一で、内容は二の次なのである。とも解釈できる。

*11:そして、その恐怖を個人的あるいは社会的にケアしなければならないという点にも同意する。だが、どのような方法でどこまでケアするのかは別に慎重に議論されねばならない問題であるし、それによって他者の権利が侵害される場合にはとりわけ慎重さが求められる。

*12:そもそも、1999年に児ポ法が制定された背景には援助交際の社会問題化がある(児ポ法が「児童買春」の処罰法でもある意味はそこにある)。それによって我々は、(倫理的な是非は別にして)女子高生(「児童」に含まれる)には自分が性的対象であることを利用する強かさがあると知ったのではなかったか? それすらも男性(優位社会)によって強いられたものと主張することは可能かもしれない。だが、それなら女性の自主性はどこに存在するのだろうか?

*13:それは女性オタクも例外ではない。どうやら女性オタクの方が危機感がないらしい(『2007-2008 マンガ論争勃発』pp.106-108)。

*14:女性作者の場合は「男の妄想の中の女と女が想定する女」となるのか?

*15:やおいやBLが実在のゲイと非関連なように。

*16:例えば、男性が動物や無機物(ダッチワイフとか)を犯している映像や絵であっても、男性の性的暴力衝動を提示している点で規制すべきとなるのだろう。

*17:女性が何に恐怖を感じ何に感じないのか、そのメカニズムが明らかにされれば、表現を規制しないで女性の恐怖を和らげる方法も見つかるかもしれない。

*18:永山氏によれば、エロマンガは多様な読まれ方をしている。そして、中にはポルノへの自己批判を含むエロマンガだってある。

*19:だから、いわゆる「ガス抜き効果」についても疑っているが、これはちょっと言い過ぎかもしれない。しかし、アニメキャラの髪が緑色であるのはたやすく受け入れられても、現実の女性がそうなのは違和感がある、というくらいには、二次元と三次元では嗜好が異なる。そして、ポルノを享受する者自身にも、自分がいかなる欲望によって駆動されているかは自明ではない(他人にとってはなおさらである)。それはポルノを嫌悪する者も同様である。

*20:例えば、「象牙に似た、乳白色のプラスティック製品」であっても、「象牙製品は複製品が作られるほどにすばらしい」という、好ましくないメタメッセージを発するが故に規制すべきという議論も成り立つ。http://www.picnic.to/~ami/repo/youbousyo3.htm

*21:僕はむしろ、規制する側に規制することへの後ろめたさを少しは持って欲しいと思っている。

*22:ネットで調べる限りではそんな事実はないようだが、これは僕の調査が不十分なだけかもしれない。

*23:二次元の子どもも三次元の子どもと同列に扱う(権利が擁護されるべき児童に二次元の児童も含める)なら別だが。

*24:これは対立軸の一つにすぎず、規制賛成派と規制反対派の対立がすべてこの対立軸内に収まるというわけではない。

*25:一語で表現したくて選んだ呼称であるが、不適切であるかもしれない。「意味の政治学」と呼んだ方がよいかも。でもそうすると今度は、対置されるのが個人主義というのがおかしくなってしまうし……。http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0404/main.cfm

*26:俗で単純化された言い方をすれば、「目の前の1人を救うのか、それとも1人を犠牲して1万人を救うのか」という問題である。