言い訳

 先日酒の席で、僕がネットにアップしている文章にはすべて目を通しているであろうリアルでの知人から、「肯定的なことを書け」「結論がない」と言われました。
 最近はあまり否定的なことは書かず、比較的肯定的なことを書いていると思っていたのですが(一つ前のエントリは特に)。否定する場合でも、なるべく単なる否定にはならないよう気をつけているつもりです。僕が何かを否定するのは、否定すること自体が目的なわけではなく、理解するため、新たな考えを生み出すためです。だから、いわば方法的否定です。ただ「ふんふん、なるほどね」と読むだけでは右から左へと抜けていくだけです。否定できるところは否定することで、何を言っているのかをより深く理解したいのです。否定するということは引っかかるということですから。さらに、否定を受けた人がその否定を受け入れたり、再反論したりすれば、何が言いたいのかということが、より明確になってきます。あるいは、他の人がもっと精緻で包括的な議論を生み出す土台(「考えのはずみ」)となるかもしれません。今のところ成果は出てませんが(笑)。
 結論がないのは仕様です。結論や答えを性急に求めることをこそ避けるべきだと思っているので。世の中の大抵の問題には「正解」などないにもかかわらず、現代人はそれを求めすぎです。もちろん、結論を出さねばならぬときもあるでしょう。その場合でも、結論は言論ではなく実践で出すべきだと思っています。その実践には言語遂行行為も含まれますが、その場合には、匿名ではなく顕名でするべきだと思っているので、このブログでは基本的にはっきりとした結論を書くつもりはありません。暫定的結論は書くとしても。
 それに、広大なネットの海の片隅で僕が結論を出したとして、それでどうだと言うのでしょう。それは、莫大な分母に対する分子1に過ぎない僕がそう思っているというだけのことです。僕が有名人なら、僕がそういう結論を出したということに意味が生まれるでしょうが、僕はどこの馬の骨とも知れぬ人間に過ぎません。それにもかかわらずこのブログを読んでくださっている奇特な方は、「この人は何を言いたいんだろう?」と問わずに、「これを読んだ自分は何が言いたいんだろう?」と問うていただければ本望です。
 最後に一言。


 結論はこのブログの中にではなく、あなた方の中にある。