ヤンキーのオタク化、オタクのヤンキー化

 先日、TBS系で放映されている、世界各地のセレブを紹介する*1世界バリバリ☆バリュー』という番組を見ていたら、後半から「ガンダム王国を作っちゃった男」として「ガンダムセレブ」*2が紹介されていた。
 カメラの前に、ごっつい車(ハマー)で現れたのは茶髪に日焼けした肌のノリの軽い男性。彼は、レポーターに「ガンダムの王国持ってます」と言う。
 彼の言う王国とは「地球連邦軍」という名前のバーのことで、彼はそこのオーナーなのである(別の場所にある「バー ZION」のオーナーでもある)。店内には彼のガンダムコレクションが展示されており、客たちは彼を「国王」と呼ぶ*3連邦軍に国王はいないだろうに。
 彼が「マチルダさん」と呼ぶ女性店員は二人とも茶髪の長髪に日焼けした肌のギャル系の若い女性で、一人は帽子をはすにかぶり、もう一人は連邦軍の制服(コスチューム)の胸元を開けていて、とても謹厳な軍人であるマチルダのイメージと合っていない。たぶんオーナーの好みのタイプなのだろう。
 その後、マンションの最上階にある彼の「工房」へ。そこで実はバーに展示してある作品はどれもその男性が作ったものであるということが明かされる。彼はモデラーだったのである。といっても、別にそれが本業ではなく、本業は美容室を何店も経営するヘアスタイリスト。そう言われれば、確かに美容師っぽい外見であると納得した。


 私が面白く思ったのは、本人はオタクであることを必死で否定していたことである。
ガンダムオタクなんですよね?」と尋ねるレポーターに、
「オタクじゃないです。僕はあくまでもハンドクリエーターなんで、手で色々作っていく人なんです」
と答えていた。
 それは、オタクにありがちな謙遜や否認(そのとおりであるが故に否定する)ではなく、本気で否定しているように見えた。言い換えれば、彼のアイデンティティは、オタクとは別のところにあるようだった。
 確かに、彼の外見や職業や言動は、一般的なオタクのイメージにそぐわない感じがした。番組の前半では矢沢永吉氏の熱狂的ファンのセレブを紹介していたのだが、むしろそちらに近いように思った。つまり、オタクよりはヤンキーに近いということである*4
 しかし、野村総合研究所による定義*5では彼らもオタクに入る。マーケティングの観点(オタクを有望な消費者として捉える観点)からすればそれでいいのだろう。だが、当事者たちにしてみれば一緒くたにされるのは不本意だろうし、どちらにも属さない私*6から見ても、両者は生活スタイルが異なるように見える*7
 番組にはガンダムオタクとして有名な芸人、土田晃之氏も出演していたが、岡田斗司夫氏は以前、土田氏の自宅の映像を根拠に、彼はオタクではないのではないかという疑念を表明していた。
 番組内で土田氏は大河原邦男氏に描いてもらった「土田専用ザク」の絵を自慢していたが、確かに、その行為(大河原氏に依頼して、作品内に登場する既存のMSではなく、自分用のオリジナルのMSを描き下ろしてもらい、それを自慢する)は、オタク的でないような気がした。
 岡田氏によれば、芸人の世界は縦割り社会であるので、文科系ではなくヤンキー文化圏に属する(体育会系に近い)。だから、「ガンダム芸人」が『ガンダム』を語るとき、「知ってる」「友達」「持ってる」という三つの話になってしまう。こんなことを知ってる、こんな人と友達である、こんなものを持ってる、ということを語るだけになってしまう*8
 岡田氏が土田氏をオタクでないと言う主な根拠はコレクションの偏りである。だからおそらく、土田氏はヤンキー系のマニアであり、ヤンキー系のマニアは体系性を持たないところがオタクと異なると考えているのであろう。言い換えれば、ヤンキーは「教養」がなく、好きなものにだけ傾注する。逆に言えば、好きというだけではオタクにはなれない。求道的な努力を必要とする。そんなオタクから見れば、ヤンキーは節操がないように見える。
 第一世代オタク的、オタクエリート主義的なバイアスがかかっているが、言わんとしていることはある程度分かる。私なりに話を広げると、オタクの中には本来「諧謔」「自虐」「反逆」の三ギャクがあったと言われるが(最近の第三世代オタクでは怪しいが)、それがヤンキーにはないということではないかと思う。
 オタクは自己批判的で、自己否定的であるという意味でネガティブな傾向性がある。それに対して、ヤンキーは一般的に陽性で行動的で権力的で(ためらいがなく、縦の関係を重視し、関係拡張的)、開放的である(もちろん、ヤンキーにも所属集団外に対しては閉鎖的になる側面があるが、自己沈潜の度合いが少ない)。言い換えれば、「仲間」「地元」を大事にし、性愛の占める割合が大きい。親社会的で(だからこそ、反社会的にもなりうる)、自分大好き。
 ヤンキーの重要な属性、「目立ちたがり」「出たがり」といった属性も以上のような性質と関係している。したがって、個人としてメディアに露出する頻度はヤンキーの方が高い。ただし、オタクがオタクというトライブと強く結び付けられた上でメディアに取り上げられるのに対して、ヤンキーはヤンキーというトライブとあまり強く結び付けられずに登場する*9
 ところで、同番組には、アムロ・レイなりきり芸人としてお馴染みの若井おさむ氏も出演していた。かなりネガティブな要素を感じるので、彼の出自はオタク的なのだろうと思われるが、テレビに出演する際には芸人としての振る舞いを強制されるため、最近はヤンキー的側面を身につけつつあるようにも思う。つまり、芸人として売れるためには、オタク的であってはならず、ヤンキー的でなければならない。その証拠に、オタク的であることを止めない(隠さない)芸人はいまいち売れていないように思われる。


 オタクがネガティブだと言ったが、オタクがあらゆる局面において絶対的にネガティブであるという意味ではなく、ヤンキーと比較して相対的にネガティブであるという意味であるという点は断っておく。
 どちらが悪いというわけではなく、ただ両者は違うと言いたいだけである。すなわち、ヤンキー系のファンやマニア*10とオタク系のファンやマニアがいるのである。両者とも広義のオタクではあるが、狭義のオタクは後者のみである。彼らはオタクという自覚のあるオタクである。「オタク」という言葉で一般にイメージされるのはこちらである。
 しかし、オタクについて語られる際、しばしば両者が区別されないまま語られているように思われる。社会現象的、データ的にはヤンキー系のマニアも含まれているのに、それらについて語る際には、彼らのことが無視されているといった具合に。
 そもそも「オタク」という名称は、互いを「おたく」と呼ぶという特徴的な生態に注目して付けられた。それが、私たちのオタクについてのイメージを規定する核となっている原(プロト)オタクである*11。オタクというのは、生活の全てを特定の趣味へ向けて特化させた人のことであり、収入の大半を趣味につぎ込むというのは構成要素の一つに過ぎない。すなわち、オタクとは特定の生活スタイルを持っている人のことであり、だからこそ、「オタクの部屋」「オタクの街」(「趣都」)というものが曲がりなりにも成立していたのである。オタクとは属性の一つなどではなく、人格(全体)であると言い換えることもできるだろう。
 しかし、原オタクが絶滅した、あるいは絶滅寸前である現状においては、そのようなオタク像はもはや過去のものなのではないのか? 現に「趣都」秋葉原はオタクの街ではなくなりつつあるという声も聞く。
 オタクもヤンキー同様、拡散浸透してきて(薄くなってきて)、特定のイメージを抱きにくくなってきた*12。だとすれば、オタクとヤンキーの垣根も昔ほど高くはなくなっているであろう。ヤンキー的なオタクもいれば、オタク的なヤンキーもいるだろう。オタクがヤンキー化しつつあると言ってもよいかもしれない。
 現状が仮にそのようだとしたら、オタクについて考えることはなかなか難しくなったと言わねばならない。それはヤンキーについて考えることの困難と類似している。では、どうすればいいのか? 人格と一対一対応させるのではなく、一つの人格の内にオタク、ヤンキー、サブカルのボロメオの輪みたいなものを考えた方がよいのかもしれない。あるいは、ハイカルチャーサブカルチャー、ヤンキーカルチャーの三位一体モデルで考えるとか。もちろん、前者はラカン、後者は中沢新一氏の概念を参照しているが、要は、オタクを人格の一要素として他の要素との絡み合いとの中で考察するということである。
 この方向性は言ってみただけというレベルなので固執するつもりはない。詳しい検討は今後の課題としておく。

*1:最近は日本ばかりだが。

*2:ガンダムで儲けたセレブという意味ではなく、ガンダムに入れ込んでいるセレブという意味。

*3:ノリのいい常連だけのことなのだろうが。

*4:どちらも、自分の好きなものに関する名前を子供につけようとするし(笑)。

*5:《「こだわりがある対象を持ち」、「その対象に対して時間やお金を極端なほど集中的に消費しつつ」、「深い造詣と創造力を持ち、かつ情報発信活動や創作活動なども行っている人々」》(『オタク市場の研究』p.2)

*6:どちらかと言えば、オタク寄りだが。

*7:例えば、オタクのファッションが地味な方向に変だとしたら、ヤンキーのファッションは華美な方向に変。ケータイ小説を愛読するのがヤンキー(的傾向を持つ人)で、けなすのがオタク(的傾向を持つ人)。

*8:・「岡田斗司夫のひとり夜話http://www.gyao.jp/sityou/catelist/pac_id/pac0005453/

*9:ヤンキーはマジョリティであるが故にトライブではなく性格類型と見なされているのかも。例えば、オタクが犯罪を犯せばオタクの犯罪だが、ヤンキーが罪を犯してもヤンキーの犯罪という見方はされず、その人自身の生い立ちや若者論に回収される。つまり、オタクはあくまでオタクだが、ヤンキーは「今風の若者」である。

*10:一時期使われていた名称を流用して「オタッキー」と呼ぶというのはどうだろう?

*11:その核の周りに、宮崎勤宅八郎氏などのイメージが積み重なっていき、一番外側の新しい層には萌えやメイドカフェといったイメージがまとわりついている。

*12:オタク・イズ・デッド」と言ってもよいし、「オタクは存在しない」と言ってもよいが。