成長を予感させるシステムとしての初音ミク

初音ミクの魅力がオタクでない僕には分からないので教えて下さい−araig.net
・僕の敵は「オタク」ではなくて「CGM翼賛体制」です−araig.net

*追記:リンク先のサイトは閉鎖したので代わりにInternet Archiveアーカイブへのアドレスを記しておきます。
http://web.archive.org/web/20071211152118/http://d.hatena.ne.jp/araignet/


 いつもはほとんどコメントがないのに(一つ前のエントリは、現時点ではコメントもTBもゼロ)、挑発的なタイトルおよび内容のせいで、多量のコメントをもらっていたのに笑った。これらのエントリ自体が釣りではないかと思うほどである。ともあれ、初音ミクのネット上での人気を改めて実感した次第である。
 で、この流れに乗って、以下では「初音ミク」について私見を述べようと思うわけだが、前のエントリで述べたように、私は「音楽音痴」なので、初音ミクの音楽性については一切評価を下すつもりはない。しかも、初音ミクユーザーでもないので、主に初音ミクを取り巻く状況について論じる。初音ミクそのものに関する濃い評論を期待すると肩透かしを食うのであらかじめ断っておく。


 araignetさんの、初音ミクへの批判点をまとめると、
初音ミクの享受のされ方は、発売元の想定内。
初音ミクおよびそのファンはリアルを目指す。すなわち、現に既にあるものを目指す。
であるが故に、創造的でない。
 逆に言えば、
・楽器の発売元の想定外の使用法を見出し、
・現にないもの、新しい音楽を創造すること
を、araignetさんは評価する。


 しかし、araignetさんが指摘しているように、初音ミクファンが期待しているのはそのようなことではない。

ところが、初音ミクファンの見ている未来はどうもそっちの方角じゃないらしい。彼らが望むのは合成人声が「よりリアル」なるということだ。

 だから、初音ミクファンというのはコアな音楽ファンよりは、アイドルファンとの類比で考えたほうが理解しやすいのではないか。
 言い換えれば、音楽(歌)の質(技術)や独創性が問題なのではないということである。


 昔のアイドルというのは歌が下手だったが、下手なのがよかったのだという言説を目にしたり聞いたりした覚えがある(わざと下手に歌ったアイドルもいたとかいないとか……)。偏見が入っているとは思うが、昔のアイドルのVTRなどを見ると、いわゆる「アイドル」にとって歌唱力が必要不可欠な要素でないことは確かであろう。下手なのに(下手だからこそ)一所懸命に歌う様子がけなげだし、その歌が下手なアイドルを自分たちが応援することによって盛り上げていく。それで売れてくれれば我が事のように嬉しいし、売れなくても、身近なままでいてくれて、それはそれで嬉しい。中には売れてしまえば興味を失って、他の新人アイドルに興味を移すファンもいる。現在でも、書店で握手会が催されるようなマイナーな新人アイドルを専門に追っかけるアイドルオタクがいるらしい(そこに、オタク特有の「ダメ指向」を読み取ることも可能だろう)。
 アイドルファンは、自分が応援するアイドルが独創的なアイドルになることを望んでいるわけではなく、売れるアイドル、有名なアイドルになることを望んでいる。それは愛や萌えに似ている。恋人が独創的でなきゃ愛せないと言う人がいるだろうか?
 アイドルファンと類比的に考えれば初音ミクファンが「よりリアル」を求めるということの意味も明らかになる。
「よりリアル」になるとは、成長するということである。アイドルファンがアイドルの成長を望むように、初音ミクファンも初音ミクが成長すること(より歌が上手くなり、より世間にその魅力を認知されること)を望んでいる。


 もし初音ミクが将来、聞いただけでは人間が歌ったものと聞き分けることができないくらい自然な歌声を獲得したとしたら、アイドルが上手くなったときコアなファンが離れるように、初音ミクファンも離れていくかもしれない。ファンはアイドルが成長していく過程を見守り、ファンという形で自らもそれへ協力することこそが楽しみなのである。だから、「そこそこ歌がうまくて、かつ歌いたい子なんていくらでもいる」ことは、特定のアイドルのファンになるための障害にはならない。むしろ、にもかかわらず、歌が下手でまだ人気もないアイドルを応援するということに、アイドルファンはある種の喜びを感じるのである。「この娘は自分が応援してあげないと駄目なんだ」「この娘は自分が応援してあげたからここまで来られたんだ」といった風に。


 初音ミクが他の生身の(3次元の)アイドルと異なるのは、初音ミクファンは、初音ミクというキャラだけでなく、それを支えている技術やシステムに対して成長を予感しているということである。
 しかも、普通のアイドルの場合は、ファンがその成長に直接力を貸せないのに対して、初音ミクの場合は、楽曲や打ち込みを工夫することで、その成長に直接力を貸すことができるということである。
 無論、大多数の初音ミクファンは、初音ミクのソフトを持っていない人たちや初音ミクのソフトを使いこなすだけの力を持たない人たちである。だが、そんな彼らも、職人たちによって日々アップされるニコニコ動画の映像などで、初音ミクの成長をはっきりと目にすることができる。この成長スピードは普通の(3次元の)アイドルとは比べ物にならない。普通のアイドルが新曲を発表するのは数ヶ月ごとだが、初音ミクはオリジナル曲や既存の曲を次々と歌ってくれる。
 一言で言うと、初音ミクは、成長を予感させるシステムであるが故に、ここまでの人気を集めたのである*1
 無論、それは予感に過ぎないのだから、当たることもあれば当たらないこともあるわけだが。


「成長を予感させるシステム」として別の例を挙げるなら、最近、二足歩行するロボットの開発が盛んであるが、「自分で歩くか、歩ける奴を連れてくればいいだけの話なのに」とはならない。二足歩行が、サッカーとなろうと、お絵かきになろうと、介護になろうと、それは同じである。我々は、ロボットがぎこちなく二足歩行する様子を見てワクワクする。それはロボット技術もここまで来たかという感動と、その延長線上に滑らかに二足歩行するロボットを予感するからである。
 初音ミクの場合も、単純に「そこそこ歌がうまくて、かつ歌いたい子なんていくらでもいる」から意味がないとはならない。
 現在の初音ミクは、確かに藤田咲氏の声が歌のジャンルおよび活躍の場を規定してしまっているが、そのために開発されたシステム自体は他のジャンルやフィールドでも応用可能であろう。
 では、初音ミクになぜ藤田咲氏の声が採用されたのかといえば、システムの不完全性がプラスに作用する声だからであろう。すなわち、彼女の声が、ぎこちなさを可愛さとして受け取ってもらえるタイプの声だからであろう。ターゲット層であるオタクがそういう人種だということでもある。
 ロボットの場合も、人型であったり、小さかったり、顔がつけられていたりして、成人男性というよりは子どもを意識したフォルムであることが多いのは、そんな理由もあってのことだろう。
 それに、滑らかに歌わせることが可能となれば当然滑らかに喋らせることもできるようになるであろう。そうすれば、今までは自分の声や知り合いの声だけで制作していた自主制作アニメにも声優の声を用いることが可能となるであろう。
 音声ではなくシステムに目を向ければ、例えば、ミュージシャンが自分の声を用いて初音ミクのようなソフトを作り、それを発売したり、自分のコンサート等に使うことは可能だろう。年齢とともに声や歌い方は変わるので、特定の時期の声をソフトとして残しておいて、昔の自分に新曲を歌わせることも考えられる。今では一種類の声だけだが、複数の種類の声が発売されれば、一人で合唱(1万人の『第九』でも!)やオペラを制作することだって可能であろう。日本人以外の声を入れれば、世界中の人たちに合唱させることもできるであろう(ヨーデルとかホーミーとかも使用可能となるかもしれない)。
 つまり、それがいいか悪いかは別として、素材として声を用いることが可能となる。その端緒として初音ミクは象徴的な重要性を持つのではないか?
 それは映画におけるCGの使用と同じである。役者はたくさんいるからCGは要らないとはならなかった。それどころか、近年ますますCGの使用率は増えている。CGにしか演じられない箇所はもちろん、そうでない箇所にまでCGが使われるようになっている(一昔前、『バットマン』で役者の側からそれが問題にされたことがあった)。
 映画にCGが多用されるのは経済的な問題(人件費の節約)も大きく、既に多くの人たちが指摘しているように、初音ミクがツールとして普及するとしたら、経済的な理由が第一であろう。しかし、そのような発展の仕方は、araignetさんにしてみれば、完全に「発売元の想定内」であり、何も生んだことにはならないのだろう(「個性を最初から考慮に入れない方法」という表現で示唆されているように)。
 もちろん、「人声」ならではの「特殊性」もある。視覚的情報に比べて加工しにくいという問題である。だが、CGがモーションキャプチャーで人間の自然な動きを取り入れたように、合成音声にも上手く人声を取り入れる方法が見つかるかもしれない。


 次に、「オタク的三要素」について。

1)3次元を2次元に融解したいという欲望

 言いたいことは分かるし、半ば以上同意もするのだが、それをこのような言葉でまとめることに対しては違和感がある。
 本当にそうだとしたら、例えば、なぜリアル絵はオタクに嫌われるのだろうか? オタクが3次元を2次元に融解したいと望んでいるなら、2次元を「よりリアル」にすることを望むはずだと思うのだが、萌え絵は写実的という方向とは別の方向を向いている。
 おそらく、2次元とか3次元とかいうのは、オタクと非オタクの違いを分かりやすい形で表現しているだけで、本当は2次元と3次元(アンリアルとリアル)という二項対立は意味を成さない。
 幼児の描く絵は、興味のあるものや身近な人がやたら大きかったり、顔、特に目が異常に大きかったりして、いびつで非現実的であるが、それは幼児にとって世界がそのように見えているからであり、客観的にどれほどの大きさであるか等を考慮に入れることなく、幼児の欲望が投影されているからである。
 萌え絵がいびつなのも、オタクの欲望の歪みを投影しているからである。
 投影先が主に2次元なのは、2次元の絵の方が3次元より欲望を投影しやすいだけで、造形技術が発達したおかげで、フィギュアという3次元の物体にも欲望をかなりの度合いで投影することができるようになった。したがって、何次元かは重要ではない(アイドルや声優は元々3次元である)。文字(1次元?)であれ実写映画やドラマ(3次元)であれ、オタクの欲望が投影されれば、それらはいびつな、オタク的コンテンツとなる。
 それに、そもそも初音ミクは「2次元」なのだろうか?
 むしろ、初音ミクは2次元と3次元という二項対立をなし崩しにするコンテンツではなかろうか?

2)初音ミクというキャラに対する萌え

 初音ミクは、公式な絵としてはパッケージに描かれている、動かない1枚絵があるのみである(少なくともメーカーの公式サイトには1種類しか存在しなかった。もしかしたら、他にもあるのかもしれないが、いずれにしても少数の静止絵しか存在しないだろう)。
 初音ミクというキャラそのものには公式なストーリーは存在しない。「ストーリーという緩衝材」は存在しない。
 それどころか、言葉(セリフ)も存在しない*2。ユーザーが自由に喋らせて(歌わせて)いるだけである。だから、どんな口調でどんな言葉を喋るかも公式には決められていない。「みっくみくにしてやんよ」という決め台詞(?)も、ユーザーの一人が勝手に(既存の2ch語等をもじって)考えたものに過ぎない。
 そのような、固有のストーリーもセリフも持たない初音ミクへの熱狂を、「初音ミクというキャラに対する萌え」と呼ぶことができるのだろうか?
 初音ミクにキャラと呼べるほどの同一性が存在するのだろうか?
 存在するのは初音ミクというソフトであり、システムであるのではないか?
 その意味では、初音ミクは、「OSたん」などの擬人化キャラや「えここ」にむしろ似ている。
 固有名と図像を備えているという点では、初音ミクは、「キャラ」としての最小限の成立要件は所持している(伊藤剛テヅカ・イズ・デッド』(p.95)の「キャラ」の定義参照)。
 ただし、「キャラ立ち」する(「キャラ」から「キャラクター」になる)ために必要とされる、初音ミクのストーリーは、その内部ではなく外部(ファンの側、リアルワールドの側)にあるのである。

3)ニコニコ動画というCGMフィールド

 私自身はニコニコ動画初音ミクCGMだと思ったことがないので(というか、CGMって何?ってレベルなので)パス。蛇足として、少し付け加えさせてもらう。
 真偽のほどは定かではないが、YouTubeは元々、自分で撮影した動画をネット上に手軽にアップするために作られたが、日本ではもっぱら過去のTV番組など既存の作品の録画をアップするために用いられている点が独特であるという話を聞いたことがある。アメリカなどでは表現のために、日本では体験共有のためにYouTubeが用いられているというのである。
 その話が本当だとすれば、日本におけるYouTubeは過去志向的だし、ニコニコ動画の字幕システムは無時間志向的だと思う(より正確には、時間反復的、無限ループ的。『ビューティフル・ドリーマー』の、永遠に繰り返される前夜祭というモチーフを思い出してもらってもよい)。
・参照:
ボケ化する世界とメタ化するツッコミ - Spur-of-the-moment ideas−考えのはずみ−

ここからは、絶対に、何も、生まれない

 絶対に何かは生まれる。いったん社会の中に生み出されたものが何も生まないことなど不可能だし、現に何かが生まれている。大量の画像や字幕コメントなどが。
 したがって、正確には、「(価値あるものは)何も、生まれない」「(新しいものは)何も、生まれない」ということだろう。
 では、新しいものとは何か?
 それは歴史観の有無や差異により、人によって異なる。ある人にとっては新しいものが、別の人には古いものに見えることだってありうる。もはや本質的に新しいものは生まれない、すべては過去に存在したもののヴァリエーションに過ぎないという意見だってある。
 だから、これは外れようのない予言である。初音ミクファンが「ほら、初音ミクからこんな新しいものが生まれました」と提示したとしても、「そんなものは新しくも何ともない」と常に反論することができるからである。
 ここで重要なのは、初音ミク肯定派と否定派の争いが、不定の未来に関わっているということである。そして、そこでは、事実に関する争いと価値に関する争いが容易に混同されてしまうということである

初音ミクファンもそんなベクトルを感じないだろうか。僕達がすでに知っているが故に、ある程度の感動が約束されている既成曲のカバー、そして「よりリアル」にを目指すが故に、ある程度見えている完成形と、その距離による評価。その自分の枠組みをかろうじて外すのは、統計的に選出された注目作品。ここでも感動が約束されている。これら過去への回帰と統計的集中のどちらも未来に向っているとは思えない。

 このすぐ後の文章で示唆されているように、何にでも当てはまりそうな(汎用性の高い)見解である。例えば、私は、日本のトップアーティスト(チャートの常連という意味ね)の曲は、基本的にどの曲を聴いても似たように感じる(バラードとアップテンポというヴァリエーションはあるが)。知らない曲でも聴けば、誰の曲が分かるほどである。よく言えば自分たちの持ち味を活かした曲ばかり作り、それがチャートでお約束のように上位を獲得する。例えば、シングルが40作連続初登場1位のB'zが典型的である。カヴァーやベスト盤やコンピレーションアルバムがよく売れ、新人の場合であっても、タイアップなどで感動が約束されている(逆に言えば、タイアップされない新曲は売れない)。
 だから、これは初音ミクのみに対する批判ではなく、日本人の傾向性に対する批判である。そして、どちらかと言えば、初音ミクよりは、現在の音楽シーンの方が保守的である分、より批判すべきは後者であろう。


 さらに言えば、ケータイ小説だけでなく「古典」と呼ばれる文学作品もまた、歴史の荒波に耐えて生き残ったという意味で(評価が確定されているという意味で)感動が約束されている。
 だから、歴史的な評価が定まっていない、新しい作品を読むのは無駄が大きいということで、古典作品しか読まないという人もいる。
 名高い古典であればあるほど、換骨奪胎されたりしてそのエッセンスやモチーフが何度も転用されている可能性が高い。だから、そこには「新しいもの」などないと言ってもよい。そもそも、古典を読むことが「過去への回帰」でなくして何だろう。
 そうではないのだ。時間的な過去未来が問題なのではない。必ずしも、未来のものが新しくて、過去のものが古いというわけではないのだ。読者が今までに出会ったことのないものが「新しいもの」であり、読者の内に今まで存在しなかった要素をもたらし、主体に変化をもたらし、新たなステージへと進ませてくれるものが「新しいもの」なのである。そして、そのような新しいものをもたらしてくれるのは、最新のケータイ小説よりはむしろ古典の方なのである。
 と、勝手に反論し、勝手に再反論したが、もしこのとおりだとすれば、やはり新しいか否かは、事実の問題ではなく価値の問題となりそうだ。


 araignetさんの一連の分析が正しいとしても、それが「初音ミク」である必要はないように思う。他にも似たようなヴォーカロイドやヴァーチャルアイドルはいくらでもいるし、これからも出てくるだろう。では、なぜ他ではない初音ミクでなければならなかったのか? まさにそれをこそaraignetさんは問うていたわけだが、この疑問に対して答えがあるとしたら、それは「愛」であろう。
 それは、初音ミクを、音楽性モデルではなく、アイドルモデルで考えることであり、創造性モデルではなく、恋愛モデルで考えることである。
 いったい誰が、創造は絶対善だと決めた?
 我が子を愛する際に、子どもが創造的でなければ愛せないと言う親がいるだろうか?
初音ミクの魅力がオタクでない僕には分からないので教えて下さい」という問いは、「あの娘の魅力が僕には分からないので教えて下さい」という問いと変わらない。
 その問いに対して、「彼女の魅力はこれこれで」と列挙していったところで、どれも彼女を愛さねばならない決定的理由とはなりえない。「確かに君が言うとおり、彼女は○○であるだろう。だけど、○○である女性なら他にもいるじゃないか」、あるいは「彼女より○○な女性はたくさんいるじゃないか」といつまでも反論し続けることが可能だからである。さらにまた、それは彼が彼女のことを好きな理由であって、僕が彼女のことを好きになる理由にはならないとも言えるからである。
 逆に言えば、「僕が好きな彼女を君も好きになってください」という願いは、無理のない願いではあるが、あまり意味のない願いでもある。
 そのように規定した上でなおかつ反論があるとしたら、
「そこに愛はあるのかい?」
ということになるだろう。
 すなわち、(ほとんどの)初音ミクファンの欲望は、「現実」(リアル)という既存のものを模倣することにのみ向けられており、初音ミクが「他者(性)」という想定外のもの、「自分のキャパを超える」もの、「外に向う回路」を欠いているが故に(あるいは、欠いている点のみにおいて)、初音ミクを愛している。だが、そんなものは真の愛ではない。自分自身を一歩もはみ出そうとしていないからである。それはせいぜい自己愛(ナルシシズム)でしかない。そして、「ここからは、絶対に、何も、(新しいもの、あるいは他者は)生まれない」。
 だから、問題はやはり愛なのだ。


 だが、このように理解すると、次のような記述と矛盾してしまう。

初音ミク、クリプトン社によって藤田咲の声をソースに作られた合成人声。これは、テイ・トウワコーネリアスのように、「ロボット声」というコンテクストで使うには少々個性が強すぎる。

 ボーカルの声の個性の強さ、ままならなさは他者性であり、その他者性の故にプロのアーティストが初音ミクを取り入れるのは無理とあきらめるところからは何も生まれないとなるはずであるが、そうは言っていない。だから、私の上のような解釈は間違っていると思われる。
 だが、自画自賛を許してもらえるなら、この誤解っぷりは悪くないと思うし、せっかくここまで書いたものを破棄するのももったいないので、そのままアップします。そういうわけなのであしからずご了承ください。

*1:2007-10-20を参照。もちろん、ネタとして享受されている面もあるが、それについては今回は触れない。 ここ などを参照。

*2:セリフは存在せず、声だけが存在するというのが初音ミクの特殊性である。この特殊性については、もうちょっと考察が必要と思うが(例えば、声は何次元なのか?とか)、今後の課題としておく。