私たちはいったい何を愛しているのだろうか?――固有名と恋愛の無根拠性について

・固有名への愛/ポリリズムの恋−araig:net
*追記:リンク先のサイトは閉鎖したので代わりにInternet Archiveアーカイブのアドレスを記しておきます。
http://web.archive.org/web/20071128133032/http://d.hatena.ne.jp/araignet/


 Perfumeの曲はPerfumeの曲だと知らずにアイドルマスターのMADで聞いたのが初めてで、名前を知ったのは『テレビブロス』のコラムでだった、音楽音痴(あれ? それって単に音痴ってことじゃないの?)のオレが口出ししますよ。


 araignet氏が批判しているmk氏の主張は確かに、「Perfumeはしかじかの属性を持ってないから固有性(固有名)を持っていない」という形に集約でき、しかし、固有名論はそもそも、固有名は属性(確定記述の束)に還元できないという話のはずなのに、固有名を属性に還元してしまっている点で、明らかに固有名論とは関係ない話になっています。
 しかし、両者の対立は本当のところは、大量生産の工業製品にアウラは宿らないとする派と、複製品(キャラ)にもアウラは宿るとする派との対立であるようにも思います。


 さて、araignetさんの主張を別の視点から補足してみようと思います。
 araignetさんの、固有名に関する論点はそのまま属性にも適用できるのではないでしょうか?
 すなわち、固有名と同様に、果たして、本当にそれが「属性を愛している」と証明できるか、とも問えるのではないか、ということです。

現時点において、二人がうまくいっているのは女性が「若い」という属性を持っており、男性が「若い子が好き」という属性を持っていて、それが一致しているからである。

 このような場合に、果たして、本当にそれが「(若いという)属性を愛している」と証明できるか、ということもまた問題にしうると思うのです。
 固有名では困難なことが属性だと容易だと考えねばならない理由はないのではないでしょうか?
「属性は時間に従って連続変化する」のであり、属性が変化しなくても別れることもあれば、属性が変化しても恋愛関係が続くこともあるのだとすれば、愛している属性をどのようにして特定できるのでしょうか?
 ある属性がいつ生成消滅したかは特定できない以上、別れた時点でいかなる属性が消滅したかは確言しがたいですし、男性の側の好きな属性が変化したから別れたのか、女性の側の属性が変化したから別れたのかも現実には特定しがたいでしょう。
 それにこの男性が、彼女が「若い」という属性を明らかに失った後でも彼女を愛し続けている場合、それは固有名を愛しているのではなく、「若い」という以外の属性を実は愛していただけなのかもしれません。
 カップルが別れた場合にせいぜい言えるのは、別れたカップルは何らかの属性(単数とは限らない)の故に相手を愛していた(すなわち、相手の固有名を愛してはいなかった)ということだけです。それも固有名は必然(永遠)、属性は偶有的(一時的)という区別を受け入れればの話です。すなわち、その恋愛は永遠ではなかったが故に、何らかの有限な属性を愛していたに過ぎなかったのだろう、と事後的に推測できるだけです。そして、本人たちや周りの人たちによって、大抵は若さや誠実さなどの目立つ属性が分かりやすい(語りやすい)理由として選ばれるわけです。
 araignetさんも次のように言っています。

僕には、彼が、固有名を愛しているのか、彼の趣味が変ったのか、まだ彼女が彼の趣味の許容範囲なのか分からないし、彼だって分かってはいない。そして結局、そんなことを識別することに意味などないのだ。

 すなわち、分からないのは固有名を愛しているかどうかだけではなく、いかなる属性を愛しているのか(趣味)すら分からないと言っているわけです。
 だとすれば、araignetさんの提出した例に出てくる男性が「積極的」であるという属性において彼女を愛していると確定的に言うことのできる根拠もなさそうです。その属性が失われたとたん愛情が失われたからでしょうか? しかし、「属性が連続変化する限り、ある属性の消滅の時点を言明することはできない」のであれば、「ある属性が消失したから別れた」とも断言することはできないのではないでしょうか。では、本人がそう言ったからでしょうか? しかし、本人の言葉といえど当てにはなりません(「彼だって分かってはいない」のですから)。
「私がオバさんになっても」と語る女性は、帰納的にその言葉や行動から彼氏が「若い子が好き」という属性を持っていると判断したのでしょうが、本当に彼氏がそのような属性を持っているかどうかは断定できないし、今現在もその属性において彼女を愛しているかどうかすら本当には分かりはしません。若い子が好きだと思っていた彼氏が明日には年齢的にも外見的にも若くない女性と付き合っているかもしれません。論理的にはその可能性を否定できません(本人ですらも)。女性の方だって、オバさんになったら、彼氏のことを好きでも何でもなくなっているかもしれません。
 結局、固有名同様、属性に関しても「ある属性を愛している」と証明するのは困難です。
 では、属性を識別することに意味はないのでしょうか? 僕はそうは思いません。属性というものには、自分や他人の趣味(欲望)を単純化するために、自らある属性好きを標榜したり、他人にそういうレッテルを貼ったりするという役割がある、と考えているからです(「私(彼)がこんな性格なのはA型だから」と言うようなものです)。言い換えれば、自らの不定形な欲望をスケールダウンし、秩序付けるため、「属性」という形に落とし込むのではないか、ということです。それを、「自己欺瞞」とも「禁欲」とも呼ぶことができるでしょう。


 次に、疑問に思ったことを書き記しておきます。

恋愛とは、属性を愛することでも、固有名を愛することでもない。恋愛とは、二つの個体が経由する二つの連続変化する時間を寄り沿わせることであり、その二つの時間が、もつれたり、ほどけたり、調和したり、不協和音を発したりする、その全ての過程を経由することである。

「二つの個体が経由する二つの連続変化する時間を寄り沿わせる」とはどういう意味なのでしょうか?
 正直、比喩のレベルでしか理解できません。
 そして、比喩のレベルで理解するなら、別に恋愛に限ったことではないと思えます。家族愛にも友情にも当てはまる記述と思えます。
 そもそも、一つの個体は一つの連続変化する時間しか持たないのでしょうか?
 もしそうだとしたら、その時間こそが個体の固有性(=固有名)となるでしょう。

その選択によって、自己の時間の連続は一旦断ち切られ、二人の時間へと移行する。

 しかし、このような記述を見ると、個体の時間は断ち切られ、二人の時間という一つの時間になることが可能であると想定されているようです。
 だとすれば、一つの個体が一つの連続変化する時間を持つ(が故にそれは「一つの」個体である)というわけでもなさそうです。

だから、僕にとっての恋愛を定義するならこうなる「固有名は選択にだけ関与し、愛そのものは二人の時間を寄り沿わせることにだけ関与する」愛の根拠は時間にしかないし、その時間を止めれば、いつでも無根拠の印としての固有名が戻ってくる。

 いくつかの疑問が思い浮かびます。
 まず一点。
 恋愛とは(「ねるとんパーティー」のように)数多くの選択肢の中から選択することではありません。選択肢が全く存在しなくなってしまうのが恋愛です(簡単に言えば、他の異性が目に入らなくなるのが恋愛だということです)。さもなくば、世界中の全ての異性(同性愛者なら同性)に出会った後でなければ、誰か一人を選ぶことはできないでしょう。さもなくば、恋愛は妥協と同義になってしまうでしょう(今まで出会った異性の中では一番愛しているから付き合っているが、将来もっと愛することができる異性に出会ったらそちらへ乗り換えるかもしれない、といった風に)。そうなると、どんな恋も「まるで恋」、あるいは「恋(仮)」となるでしょう。
 恋愛の過程においては、「選択」も「決断」も事後的にのみ言われうることであって、恋愛に先立つ意識的・意志的な行為として存在するわけではありません(「恋に落ちよう」と「決断」して恋に落ちる人はいません)。
 他の人たちではなく特定の誰かを選んでいるという意味では「選択」しているわけですが、それは恋愛の外部の視点からのみ言えることです。
 もう一点。
 araignetさんは、固有名=無時間的、恋愛=時間的(出来事的)と考えておられるようですが、恋愛もまた無時間的であり、恋愛には現在しかないと考えることもできるように思います。
 愛の根拠は時間にはありません。一瞬で恋に落ちる場合もあれば、何十年一緒に暮らしても恋愛に至らない場合もあります*1。というより、愛には根拠がないのではないでしょうか。愛の無根拠性を別の言葉で言い換えると「固有名を愛する」となるのだと思います。
 だから、「私がオバさんになっても 本当に変わらない?」と女性が彼氏に尋ねるとき、そこにあるのは不安であって、(愛しているが故の不安ではあるかもしれませんが)恋愛ではありません。
 たとえば、逢瀬の最中の恋人たちが時間を気にするようになったら、それは恋愛の崩壊の兆しです。
 固有名との関係で言えば、恋愛は固有名の抹消(エクスタシーや死)を志向するのではないでしょうか?

ああ、ロミオ、ロミオ、どうしてあなたはロミオなの。
お父さまと縁を切り、その名を捨てて。
それが無理なら、せめて私を愛すると誓って。
そうすれば、私はキャピュレットの名を捨てましょう。
シェイクスピア著、河合祥一郎訳『新訳 ロミオとジュリエット』角川文庫、2005年)


 以上は、ロマンティックな(幻想的な)恋愛観に基づく主張でしたが、固有名に話を移せば、固有名もまた時間に関係しているのではないでしょうか?
 確かに、固有名そのものは無時間的ですが、それゆえに、時間が成立するのに必要不可欠な要素であると僕は考えます。
 連続変化を「連続」した「変化」と認識するためには無時間的なものが必要なのではないでしょうか?
 一瞬一瞬別のモナドが生成消滅しているのではなく、一つのモナドが連続変化していると言えるのは、「神の無時間的永遠の視点から」のみです(「世界が5分前に創造されたのではない」とは神にしか断言できません)。
 神ならぬ人が異なる時間における同一の事物を同一の事物と同定するために招請されるのが固有名です。可能世界を想定する場合も、現実世界の実体(主語)と可能世界における実体(主語)との同一性を担保するのは固有名のみです(逆に言えば、可能世界は固有名を媒介にすることによって立ち上げられます)。
 無時間的な固有名は、可能世界を立ち上げるときだけでなく、未来について考えるときにも必要とされます。
「私がオバさんになっても……」と想定するとき、現在の私とオバさんになった私とが同一であると前提されているわけですが、そのような前提を可能にするのが固有名*2の役割です。というのも、可能世界だけでなく、未来の世界もまた「この世界とは空間的にも時間的にも連続しない」からです。なぜなら、私はオバさんになる前に死んでいるかもしれないからです。
 つまり、(時間的な)モナドの固有性もまた(無時間的な)固有名なしには語り得ないのではないでしょうか?
 その意味では、araignetさんが次のように言っているとおりだと思います。

固有名を巡る問題は、言語につきまとうものであり、僕たちが純粋な連続変化の相の中にだけではなく、無時間的言語の相においても生きている限り、それらは介入してくる。

 付け加えれば、この二つの相の絡み合いによって初めて我々は時間というものを意識できるようになるのではないでしょうか?


 時間が時間として成立するためには無時間的なもの=固有名が必要なのは、確定記述が確定記述として成立するためには確定記述でないものが必要なのと同様です。
 そもそも確定記述が確定記述であるためには、何ものかの確定記述でなければなりません。したがって、その何ものかは確定記述に先立って決定されなければならず、故にそれはいかなる確定記述にも依存せず、還元され得ないものでなければなりません。それこそが固有名です。
 だから、固有名とは記述され得ぬものです。
 ある実体について無限の属性を記述したとしても、記述し尽くすことはできません。その記述し尽くせなさが固有名性です。
 固有名は確定記述の残余であると言ってもいいでしょう*3
 その意味では固有名は非言語的ですが、言語の果てという意味では言語的です。
 固有名は時間と非時間との境界概念です。それだけでなく、出来事と言語との境界概念でもあります。
 例えば、命名(naming)とは出来事である。名前を呼ぶことは出来事である。故に、固有名とは出来事でもある(これだけでは理屈になっていませんが、理屈になっていないついでに、「固有名は名詞ではなく動詞である」というテーゼも試みにぶち上げておきます)。


 そして、記述され得ぬということにおいて、固有名は愛に近接します。故に、次のような等式が成立します。
「固有名を愛する」=「どこが好きかなんて言えない」=「全部好き」。
 本当の愛とは、どこ(どの属性)が好きかなんて具体的に言えないもの。言えるようなら、それは愛ではないか、あるいは自己認識の誤りです(「だったら、その属性がなくなったら好きでなくなるのか?」と問うてみればよい)。
「固有名を愛する」とは、具体的な事態を指す言葉ではありません。むしろ、具体的には表現できない事態を指す言葉です。だから、「『固有名を愛する』とはこれこれこういうことである」と述べた途端、それは誤りとなります。
 固有名と愛の関係はと言えば、両者は記述不可能性(「恋愛の不可能性」)において繋がります。愛にも固有名にも根拠はありません。私がこの私であることに根拠がないのと同様に。
 その意味では、世界が終わるとき、固有名も終わります。あるいは、世界が終わっても固有名が残るとしたら、世界が終わっても愛は残ります。
 完全に理解した(理解できる)と思っているところに「固有名を愛する」という事態は発生しません。Perfume(の音楽)がどのようなものであるのか(どのように作られているのか)を完全に理解できたと思い込んだところにPerfume(の音楽)への愛は生じません。そんな人に対して、「ライブ映像を見ろ」だとか「素の彼女たちを知ろうとしろ」と要求するのは無駄です。なぜなら、「もう分かっちゃった」と思っているわけですから。
 我々が固有名を必要とするのは、完全には理解できないがそれに触れたい、それについて語りたいと思ったときです。
 すなわち、他者を一個の謎として感受するとき、「固有名を愛する」ということが起こるのです。(だから、一目惚れというものもありうるし、自分が好きなあらゆる属性を備えていても愛することができないということもありえます。)


 ここで以下のような反論がありうると思います。
 知らないが故に愛するというのは愛ではなく憧れに過ぎず、恋に恋する思春期的な愛であり、固有名を愛するというレベルには達していない。すべてを知った上でそれでも愛するのが本当の愛ではないか? 相手のよい部分だけでなく悪い部分も知った上で、それを含めてまるごと愛するのが真の愛ではないか?
 先日、テレビ朝日系列のゴールデンタイムの特番で、声優の素顔を公開するという番組をやっていましたが、このような企画に対する評価は賛否両論あると思います。声優の顔を見たいという人もいれば、見たくないという人もいるでしょう。声優の側でも、あくまで主役はキャラクターであって、声優は裏方に徹し、顔を見せるべきではないというポリシーの元、出演や顔見せを拒否する方たちもいました。
 では、あるアニメキャラを愛する場合、その声優(「中の人」)まで知りたいと思う人と、むしろ知りたくないと思う人とでは、どちらがそのキャラクターを愛していると言えるでしょうか?
 それは声優の場合だけでなく、役者の場合でも、アイドルの場合でも問いうる問題です。


Perfumeアイドルマスターと、初音ミク:なつみかん。
http://tangerine.sweetstyle.jp/?eid=707333


Perfumeは、機械処理された声こそがよいのだ」「中の人はむしろ見たくない」という人と、「Perfumeの生の声を聞きたい」「のっち・あ〜ちゃんかしゆかのことをもっと知りたい」という人とではどちらがよりPerfumeを愛している(より固有名を愛している)と言えるのでしょうか?
 以上の問いを単純化して表現すれば、出会い頭の一目惚れとずーっと一緒に育ってきた幼なじみへの愛、どちらがより固有名を愛していると言えるのかということです。


 僕は現時点でどちらかに答えを決定するつもりはありません。皆様の考えのはずみになれば幸いです(←このブログの決め言葉にしようかと思っています)。
 ただ言えるのは、固有名が存在するからこそ両者(キャラへの愛と中の人への愛)を区別することができるということです。「固有名を愛する」ということをどちらかに限定することは、固有名の重要な役割の一部を切り捨ててしまうことを意味するのではないでしょうか。なぜなら、固有名がもっとも威力を発揮するのは虚構(反実仮想)においてであるからです。その点に関しては、芸名の固有名性というものについて考えても面白いかもしれません。

*1:「愛の根拠は時間にしかない」とはこういう意味で言っているのではないと思いますが、こういう意味でもありうる(こういう意味を排除できない)のではないでしょうか?

*2:一般名詞としての「私」ではなく「この私」(永井均氏の言う〈私〉)もまた固有名の一種である

*3:固有名とは「情報の帰属場所というか、志向作用の求心点のようなもの」(http://clappa.jp/Special/52/6/)であり、それを「心」「魂」「ゴースト」などと呼ぶこともできるでしょう。ちなみに、NHKの爆笑問題の番組で、野矢茂樹氏が心を「その他」と定義していました。