彼女らのリアル――ケータイ小説の流行に見る若者の現実感覚の変様

・彼女たちがリアルっていうんなら、ケータイ小説はリアルなんだよ−araig.net
*追記:リンク先のサイトは閉鎖したので代わりにInternet Archiveアーカイブへのアドレスを記しておきます。
http://web.archive.org/web/20071211152118/http://d.hatena.ne.jp/araignet/


 問題は、ケータイ小説を「リアル」であると評価する人たちがいる一方で、到底「リアル」だとは思えない人たちがいるということである。前者は主に若い女性たちであり、後者はそれ以外の人々であるようだ。
 なぜ、両者の間にこのような齟齬が生まれるのであろうか? もしかしたら、前者と後者とで、「リアル」という語の用法が異なるのではないだろうか。
 だから、まず「リアル」の意味を確定させる必要がある。彼女ら(および彼ら)がいかなる意味で「リアル」という言葉を用いているのかをはっきりさせる必要がある。


 araignetさんは、「『リアル』を標榜してるから『リアル』」「感情をドライヴさせるもの」といった定義を退けた上で、彼女らの用いる「リアル」という語の意味を、「身近に感じる」(「身の回り」の半径内に存在するように感じられる)という意味だと見なす*1。それはさらに二つの意味に分割可能である。
(1)実際の人間関係の延長線上にあるかのように錯覚させる。
(2)日常的な「ゴシップ」と同じ文体(メール文体)で読める。

 (2)について僕なりに補足すると、ケータイ小説においては、入力(執筆)と出力(読書)がほぼ同じ形式であるという他にはない特徴がある。分かりやすく言えば、ケータイ小説はケータイで読まれるだけでなく、ケータイで書かれもするということである*2
 通常の小説では、作者が原稿用紙やワープロやパソコン上に書いたものが、活字に組まれ(最近はコンピュータ上で処理されるのか?)、紙に印刷され、それを読者が読む。電子出版の場合ならば、パソコンで書かれたものをパソコンで読むということもあるだろうが、それでもテキストファイルやドキュメントファイルのまま公開されることはほとんどない。構成(フォントや段組やページ等)を変更し整えた上で読者に提供される(専用の閲覧用アプリケーションソフトが必要な場合も多い)。
 ケータイ小説においては、入力と出力が同じ形式(メディア)であるという特徴が、独特のライブ感を生むのに役立っているのではないかと考えられる。


 以上のように整理した上で疑問がある。
 身の回りの半径の拡張という一連の話が本当だとすれば、彼女らはもう十分な量の「ゴシップ」を手に入れている(手に入れられる)はずである。だとすれば、なにも「小説」(と銘打ってある「ゴシップ」)にまで手を伸ばす必要はないはずである。
 彼女らが単なる「ゴシップ」だけでは飽き足らず、時には金銭を払ってまでケータイ小説を読む理由は何なのだろうか?
 小説の方がより「リアル」だからだろうか?
 それはありそうにない。もしそうだとしたら、ケータイ小説の最高の形態は、「小説」と銘打たれず、本当のゴシップであるかのように語られる小説であるはずである。なぜなら、「小説」とカテゴライズされた時点で、多かれ少なかれ何らかの虚構性を備えてしまうからである。(メールによる)伝言ゲームによって知った、作者不明の「ゴシップ」の方が常に(形式的に)、ケータイ小説より(araignetさんが言う意味で)「リアル」なはずである。
 彼女らが求めるのが本当に「ゴシップ」なのだとしたら、なぜ、ドキュメンタリーやルポルタージュや告白記の形ではなく(もちろん、そういった形式のものも現に存在してはいるのだろうが)、「小説」という形態を必要とするのか、説明がつかない。
 では、小説の方がより「読みやすい」からだろうか?
 これは結構ありそうである。
 しかし、もしそうだとしたら、2ちゃんねるやネット上の事件を分かりやすくまとめてくれる「まとめサイト」のように、「ゴシップ」を分かりやすい形にまとめてくれるサービスが流行ってもよさそうなものだが、寡聞にして、そのようなサイトが流行っているとは聞いたことがない(単に僕が知らないだけなのかもしれないが)。
 さらにまた、彼女らが《「泣き」にすら興味がなくなっている》のだとしたら、なぜ「ゴシップ」が「スキャンダル」であってはいけないのだろうか? すなわち、彼女らが、ホストやキャバクラではなく、芸能人に関する「ゴシップ」に興味を持つようになるということはあり得ないのだろうか?
 ホストやキャバクラは、「友達の友達の友達の友達……」の先にあるが、芸能界はそうではないからだろうか? しかし、いまや友達の友達が芸能人という女子中高生だって珍しくないだろう。東京の女子中高生ならばとりわけそうであろう。実際、僕にも昔、親戚が芸能人であるという友達がいた(真偽のほどは定かではないが)。現代の日本では、芸能人はそれほどレアな存在ではないし、芸能界は決して手の届かない世界ではない(オーディションは頻繁に行われているし、参加者も多い)。
 それとも、《「泣き」からは卒業し》た後、彼女らはワイドショーや女性週刊誌などの芸能ネタを観賞するようになり、立派な「おばさん」になるのだろうか?
 そして、彼女らがケータイ小説を「卒業」したとしても、新たな世代の彼女らがケータイ小説を読むようになるのであって、ある種のサブカルチャーのように、もっぱら人生の一時期にのみハマるものとして、連綿と存続するのだろうか?


 それはそれで十分ありそうな未来予想図であるが、僕はもう少し違った視点を導入したい。すなわち、彼女らはケータイ小説を「ゴシップ」であるが故(だけ)に読んでいるのではなく、それが「小説」であるが故に読んでいるのではないかという視点である。
 彼女らはケータイ小説を、「日常」(「身の回り」)の延長線上にある(との錯覚をもたらす)から読んでいるのではなく、日常との断絶、すなわち「非日常」を求めて読んでいるのではないだろうか。
「援交・レイプ・ホスト・リスカ・妊娠」といったケータイ小説の題材は、彼女らにとって非日常であるが故に魅力的なのであり、だからこそ単なる「ゴシップ」ではダメなのである。
 ケータイ小説においては、「日常」(近景)*3と「非日常」(遠景)が直結(短絡)している。そう、「セカイ系」と同じ構造である。
 もしそうだとすると、エイズ等が題材に選ばれるのは、適度に抽象的で、「不治の病」としてイメージしやすい、「分かりやすい不幸」であるからであるだろう。すなわち、それは記号に過ぎず、エイズが実際にどのような病気なのか(何が原因で、どのような経路で感染し、どのような症状が発生し、どのような治療がどの程度有効で、どれほどの患者がどれほどの期間で死に至るか、といったこと)は問題ではない。むしろ、それらは余計な(感動を阻害する)知識ですらあるだろう。
 しかし、そうは言っても、ケータイ小説におけるセカイ(遠景)の内容は、いわゆる「セカイ系」とは異なる。ケータイ小説の登場人物の行動半径はあくまで日常世界にとどまり、「ボクが世界の命運を握っている」といったファンタジーやSFにはならない。それは文字通り、彼女らと彼ら(セカイ系を好むオタク)の世界観が異なるからであるが、彼女らの世界観についてはまた後で触れる。ここで言っておきたいのは、ケータイ小説も、社会性が欠落したまま深刻な状況を描くという構造においては「セカイ系」と類似しているということである。
 ケータイ小説は、本来近景と遠景を繋ぐために必要であるはずの中景であるところの社会を媒介とせずに、日常と直結した非日常を疑似体験させてくれる(覗き見させてくれる)が故に人気がある。これまでの議論をまとめるとそうなるだろう。


 しかし、非日常を疑似体験させてくれるものを何故「リアル」と称するのか。おかしいではないか?
 では、改めて彼女らがいかなる意味で「リアル」という言葉を用いているのかを、彼女らの用法に即して考えてみよう。
「リアル」の文字通りの意味は「現実的」であるが、彼女らの「リアル」は現実に準拠していないということが問題なのであった。
 そんな彼女らの現実感覚(?)を示すのが「ありえない」という言葉である。昔なら「信じられない」と叫んだような、常識や先入観に反する、にわかには信じることのできない事象を形容するのに、今の若い女性たちは「ありえない」という言葉を用いる。だが、現に存在しているものに対して「ありえない」とは、それこそありえないだろう。在り得ないものが在ることは不可能であるのだから。
 彼女らにとっては、たとえ現に存在しているものであっても、リアルではない(=ありえない)ということがありうるのである。自分たちにとって理解しがたいもの、理解を絶するものはリアルだと感じられないのである。
 だとすると、彼女らにとってリアルであるとはすなわち「わかる」という意味であるだろう。逆に言えば、彼女らにとっては理解できることがリアルなのである。
 近代哲学を通過した我々は、世界を自らの先天的な認識形式に従ってしか、あるいは後天的な先入見に合致する形でしか理解できないと考えているが、彼女らはさらに進んで(退化して?)、自分の認識できるものがすなわち世界であると考えているように思われる。
 前者が、我々には認識不可能なものとして世界は存在していると考えるのに対して、後者は、世界は自分たちに認識可能であるものとしてしか存在していないと考える。
 だから、彼女らにとって理解できないものは存在しないも同然であり、「ありえない」ものなのである。
 だから、彼女らにとっては認識できるものの総体が世界なのであり、しかも、外部は存在しない。だから、彼女らはわかるものだけで満足し、わからないものをあえてわかろうとはしない。
 このような考え方には実際的な利得もあって、自らの認識できない事態を「わからない」と言ってしまうと、自分の無知や無能が原因であり、悪いのは自分だということになってしまうが、「ありえない」と言えば、悪いのは自分ではなく対象の方であり、責任を対象へ押し付けることができる。
 したがって、ケータイ小説が「リアル」であるということはわかるということである。当然、わかるということの内には主人公の気持ちがわかるということも、すなわち共感できるということも含まれる。
 もちろん、その理解が錯覚であり、誤解である可能性も大いにある。だが、「わかった」と感じたことそれ自体は確かなことであり、錯覚ではあり得ない。それ故、私が今感じていること、私の感覚・感情はリアルなのである。
 茂木健一郎氏が言うところの「クオリア」や「Aha!体験」を思い起こしてもらってもよいかもしれない。
 あるいは、それはデカルトのコギトの確実性にも似ている。だが、考えることにおいてではなく、感じることにおいて自己および世界の確実性が担保される点が異なる。「我考える、故に我在り」ではなく、「我感じる、故に我在り」なのである。
 ヘーゲルの「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という言葉をもじって、彼女らにとっては「感性的なものは現実的であり、現実的なものは感性的である」と言うと、ちょっと悪ノリし過ぎだろうか。
 理性(思惟)は能動であり、感情は受動(パトス)であるが故に、伝統的に後者は前者に比べて軽視されてきた*4。しかし、現代においてはむしろ、パトスの固有性、独自性、絶対性(確実性)、唯一性(オンリー・ワン)等が強調され、重視される傾向にある。
 その結果、現代人は思考内容によってではなく、パトスによって自己主張を行う。何を考えたかではなく、何を感じたかによって、日常会話やブログにおいて自己主張する。泣けた、笑えた、おいしかった等の「感想」を語ったり書いたりすることが最も効果的な自己アピールとなる。
 考えたことなら、それは事実誤認である、矛盾している、間違っているなどと批判されるかもしれない。だが、感じたことならそういった批判は受け付けない。そう感じたことは事実であり、そう感じたことそのものは他の何者によっても否定されえないからである。
『恋空』などでは「傷」という言葉が頻出することからも分かるように、彼女らは傷つくことを何より恐れ、傷つきたくないと思っている。だから、他人との衝突を生みかねない「考え」を主張することを避け、異なっていても並存できる「感想」を述べる。
 そんな彼女らの中で感情の占める割合が増大し、アイデンティティの重要な一部となるのは自明の理である。
 彼女らにとってリアルなのは今自分が感じていることだけ。なぜなら、彼女らにとってはそれが世界であり現実であるから。
 それを他人から見れば、「彼女たちがリアルっていうんなら、リアルなんだよ」となるだろう。


 ケータイ小説ではない通常の小説は難解であるが故に彼女らにとってはリアルではない。「難解」と言っても、実験小説的、哲学的な難解さなどではなく、単純に使っている言葉や漢字が難解であるということである。
 だから、文学的な技巧は彼女らにとってはむしろわかりにくくなる(「リアル」でなくなる)ので邪魔である。
 彼女らにとってわかりやすい言葉とは、彼女らにとって馴染み深い言葉、すなわちメールで使うような言葉であり、それこそが「メール文体」の正体である。わかりやすい言葉でわかりやすく書かれた文章。非常用漢字や回りくどい比喩やよく練られた伏線や流麗な美文調や装飾過多な形容やジャンル特有のお約束等を用いることのない、会話が多くて、一つ一つの文が短い、横書きの文章。我々にしてみれば、味気なく、そっけなさ過ぎるその文章が、彼女らにとってはリアルさを感じるための必要条件以上のものなのである*5


 最後に書き残したことをつらつらと列記しておく。

 僕などは、リアリティはわからないものによって支えられている、わかるということはわからないということによって担保されていると考えるのだが、そのことは今は措いておくことにしよう。
 彼女らのような態度を「動物的」だとか身体性の重視などと呼ぶこともできるだろう(東浩紀『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』pp.19-20)。その意味で、彼女らと第三世代オタク(および、彼らの好む小説)との類似性を指摘する言論には一定の理がある。
 とはいえ、僕はケータイ小説を非難しているわけではない。実際に読んでみたが、思っていたより悪くなかった*6。突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるが、全くの無技巧というわけでもなく読ませようとする工夫があったし、詩情(ポエム心)もあった。積極的に読む気にはならないが、全然あってもよいと思った。
 ケータイ小説のベースはメール文体にあるが故に、これ以上洗練されることはないという見解が本当だとすれば、逆に言えば、ケータイのメール機能等がより発達すれば洗練される可能性もあるということである*7。ただし、技術の発達が作品の質を向上させるとは限らない。ワープロやコンピュータによる執筆が小説の質を向上させたという話は聞かない。ただ、ケータイの技術の発達によって、ケータイ小説が既存の小説に近づくことはあるかもしれないとは思う。
 ともあれ、他の論者たちだって、別にケータイ小説の存在そのものが許せないというわけではないだろう。問題なのはケータイ小説そのものではなく、ケータイ小説が流行していることであり、だからこそ、ケータイ小説を読まないまま論じるということが可能となっているのだろう。
 だが、ここまで考察してきて僕はそれはそれでいいのではないかと思えるようになった。彼女らは彼女らなりに利用できるものを(ブリコラージュ的に)最大限に利用して生きている*8。それこそ勝手な誤解かもしれないが、だとしても、そのような認識へと僕自身を導くことが、このエントリの意義だったのかなと、書いてみた後でそう思った*9。というわけで、やっと枕を高くして寝ることができます(笑)。

*1:僕なりのまとめであって、このままの言葉が用いられているわけではありません。

*2:もちろん例外もあるのだろうが、それがどれほどの割合なのかは知らない。知っている方は教えてください。

*3:ケータイ小説に関する文章を読むと、この「近景」とは友達や恋人のことであって、その内にはどうやら「家族」は含まれないらしい(例えば『恋空』では家族の存在感が希薄である。他方で自分たちの子供に対する執着は強い点がちぐはぐで興味深い)。彼女らに家族が安らぎの場所とは感じられなくなっているのか、それとも家族が社会の出先機関と見なされているのか、それとも別の理由があるのかは分からないが、本当にそうなのだとしたら考慮に値する問題である。

*4:かなり大雑把な整理ですが。

*5:必要十分条件ならぬ必要五分条件くらいか。

*6:もっと必要最低限の記述しかないミニマムなものを想像していた。が、奇妙な余剰があり、有体に言えば、結構長かった。

*7:デコメールみたいなケータイ小説は既にあってもおかしくなさそうだが(笑)。

*8:どうしても上から目線みたいな言い方になってしまいますが。

*9:逆に言えば、それくらいの意義しかないかもしれないという反省でもありますが。