ハリウッドのパンダが愛より大切なものを教えてくれたよ

 タイトルは釣りです。釣られた人は「釣られた熊猫ーッ!」と叫んでくださいw。
 というわけで、内容は、最近DVDで見た『カンフー・パンダ』(功夫熊猫)の感想です。
カンフー・パンダ』とは、今更説明するまでもないでしょうが、3DCGで描かれた、カートゥーン・アニメーションではおなじみの動物擬人化キャラクターによるカンフー・アニメーション映画です。アメリカで製作されたものですが、カンフー映画のセオリーや精神性を自家薬籠中の物とした上で、さらにカンフーシーンではアニメでなければありえないようなアクションも加えられています。しかも、普通のカンフー映画なら数年間にわたる物語となるような内容ですが、それをリアリティを犠牲にしてまでも短期間に圧縮しているため、非常にスピード感のある展開で、最初から最後まで飽きることなく見られました。
 伏線の張り方もベタですが見事で、単なるギャグだと思っていたものが後になると伏線であったと分かるという展開も多く、よくできています。龍の巻物の内容は、日本人なら誰もが「そうじゃないかと思った」と言いそうなオチですが、アメリカ人はそうじゃないのでしょうか?
 あと細かいことになりますが、“マスターファイブ”の内、虎(マスター・タイガー)と蛇(マスター・ヘビ)が女性であるのはアメリカらしいと思いました。鶴が女性というなら分かりますし(『鶴の恩返し』)、蛇が女性なのは『道成寺』などのイメージがあるからまだ納得できるのですが、虎が女性だというのはいかにもアメリカっぽい、アメリカならではの発想だと思いました(偏見入ってるかも)。
 以上は前置き(まくら)です。
 アニメーション表現としての評価・演出やプロット全体の評価等はググればいくらでも見つかるので、これ以上は行いません。以下ではもっぱら、『カンフー・パンダ』を師弟関係を描いた師弟関係モノと(独断で)見なした上で、そこに描かれた師弟関係を分析します。
 これ以降の文章はネタバレがあるので隠しておきます。ネタバレを気にしない方、ここまで読んでもまだ興味を失っていない方は続きをお読みください。


 さて、本作は師弟関係を描いた師弟モノである。
 この観点から見ると、主人公ポーと最強の敵タイ・ランの対決は、師弟関係を受け入れる者と師弟関係を破壊する者との戦いである。
 シーフー老師は最初ポーを弟子とは認めず追い出そうとする。ポーもそんな老師を師匠とは認めない。だが、老師はウーグウェイ導師から「ただ信じればよいのです」と言われ、とりあえず信じてみることにすると、ポーの才能に気づく。この順序は重要である。ポーの才能に気づいたから信じたのではない。信じたから彼の才能に気づいたのである。
 弟子の場合もこの順序は変わらない。弟子もまた師匠をその技術等の故に選ぶわけではない。弟子にとって師匠が師匠であるための第一条件は、自分自身以上に信じることができるということである。まさに、ポーが老師に言うように。
「もし僕を変えられるとしたら、それは僕じゃない。あなただ」*1
 師匠とは完成した者ではない。弟子と一緒に完成する者なのである。弟子が完成したとき、同時に師匠もまた完成する*2
 そして、修行を行う内に、彼らは互いを師匠と弟子として認め合うようになる。修行の終わりにポーが老師を「お師匠様」と呼んで礼を交わすシーンは、この映画の中でも最も美しいシーンである。
 それに対して、タイ・ランは、捨て子だった彼を親同然に育ててカンフーを教えてくれた老師を裏切り、龍の巻物を手に入れようとして、老師や導師に牙をむいた。そして、脱走後に再び老師に容赦なく襲い掛かり、その決闘中に、老師が導師から受け継いだ杖を破壊する。そのシーンは、彼が師弟関係の破壊者であることを象徴的に、非常に分かりやすい形で示している。
 その後、師弟関係の継承者ポーと破壊者タイ・ランが対決するのだが、上手いのはポーが龍の巻物を持参し、最初はそれの争奪戦となるところである。ポーは巻物が何ものでもないことを知っている。それに対してタイ・ランは巻物に無限の力を手に入れるための奥義が記されている思い込んでいるためにそれに執着し、居着いてしまった。だから、彼は戦いの間中ずーっと余裕がない。巻物が白紙であると知ってからも、今度は怒りで余裕を失ってしまった。他方、ポーは戦いの間中、ひょうきんさを失わない。この戦いにおいては、ポーの方が圧倒的に自由なのである。そして、融通無碍な者(自然体である者、自分自身である者)が最強である、というのが、この映画が伝えようとする教えである*3
 本作品におけるカンフーとはいわば、よりあせった方が負け、より余裕のある方が勝ちというルールのゲームなのである。ポーはタイ・ランとの対決直前になってもまだ石段を上るのに息を切らしていた。しかも、老師やタイ・ランのように気孔が使えるようになったわけでもない。対決時点で、体力的にも技術的にもポーよりタイ・ランの方が確実に上なのである。にもかかわらず、ポーが勝利を収めるのは、作品世界内に上記のようなルールが存在するからであると考えねば、納得が行かない。タイ・ランがマスターファイブに勝ったのも、マスターファイブ(特にその筆頭であるタイガー)が切羽詰っていたのに対して、タイ・ランが余裕綽々だったからである(手加減する余裕すらあった)。
 このことは何かに執着する者は必ず敗北するということをも意味している*4。タイ・ランが師弟関係の破壊者となったのも、我が子同然に育てたタイ・ランへの老師の愛すなわち執着が原因であった*5。老師は、タイ・ランとの対決中、自分の愛がタイ・ランを怪物にしてしまったと謝罪する。すなわち、愛は執着であり、執着は悪なのである。これが、この映画の発するメッセージである。
 本作の説く教えをまとめるなら、以下のようになる。愛するな、信じよ。愛と信頼は違う。前者は有害、後者は有益である。何にとって? 魂とか人格的成長とかいったものにとって。
 つまり、本作はハリウッド映画には珍しく愛を否定しているのである(信じることを広い意味で愛と呼ぶなら別であるが)。その証拠に、作品内では恋愛要素は一切排除されている。主人公は誰にも恋することはないし、恋されることもないし、他の全ての登場人物も同様である。あるのは恋愛抜きの関係、主に師弟関係(それと、親子関係)だけである。夫婦関係(にある人たち)すら登場しない。
 この映画から引き出せる教訓はまだあって、それは師弟関係を語るためには三代必要ということである。同じく師弟関係を描いた作品である『ARIA』でも三代(あるいは四代)にわたる師弟関係が描かれているが、単に師匠と弟子だけでは足りないのだ。なぜなら、師匠にもまた師匠がいるということが、師匠の師匠性を担保しているからである。師弟関係とは単なる師匠と弟子の二者関係ではない。連綿と続く技術や精神の授受の歴史、自分がその歴史の一環をなすという意識こそが師弟関係を形成する。教えは受け継ぐべきものであると同時に受け継がせるべきものでもある。誰かの弟子になるということは同時に別の誰かの師匠になるということなのである。すなわち、師匠が弟子で弟子が師匠であるという二重性・同時性を描くためには少なくとも三代描くことが必要なのである。
 師弟関係が体現するもの、目指すものは、ある種の永遠性である。それは「道」と呼ばれたりもする。師弟関係に参与する者は、その(半)永遠性に与る。だから、マッカーサーの言葉をもじるなら、「師匠は死なず、ただ立ち去るのみ」である。だから、ウーグウェイ導師は、「時が来ました。この先は私なしで旅を続けるのです」と言い残して消え去る。彼は死んだのではない。弟子のシーフー老師がポーという弟子を得たことで永遠性を獲得したのである。言い換えれば、自分の役目を果たしたのである。それによって、あらゆる執着から自由になった導師は現世からも自由になったのである。
 以上のことを製作者たちがどこまで意識していたかは分からない。深読みに過ぎるという意見もあるだろう。しかし、「我以外皆我師」(吉川英治)ならば、アニメーション映画から教えを引き出したっていいじゃないか。


 最後に、この作品における愛の排除・否定について補足的に(蛇足的に)考察しておこう。
 もし、この映画が普通に恋愛要素のあるアクション映画だったとしたら、どんな筋になっただろうか?
 ポーは村に好きな娘(村一番の美人)がいるが、メタボなカンフーオタクのポーには見向きもしない。だが、修行を終えたポーは、村に戻ってきたタイ・ランに襲われていた彼女を助け、その後タイ・ランをやっつける。そして、村の英雄となったポーと彼女は両思いになる。
 あるいは、ポーに見向きもしなかった娘だったが、彼が龍の戦士に選ばれたことを知ると、態度を一変させて彼に接近してくる。ポーはそんな彼女に失望する。一方、最初はポーに反感を持っていたタイガーだったが、次第にポーの実力をしぶしぶながらも認めるようになる。そして、タイ・ランを迎え撃ったタイガーがタイ・ランに敗北し、まさに止めを刺されようとしていたところをポーが助ける。その後、ポーがタイ・ランを倒すことで、タイガーは彼が真の龍の戦士だと認め、二人は恋仲になる。
 ――といった具合だろうか?
 実際は恋愛のれの字も出てこないのだが、作品中に恋愛要素が出てこないのは子供向けだからだという反論もあるだろう。しかし、だとしても、夫婦関係すら出てこないのは異常である。例えば、主人公であるポーの母親の不在っぷりは徹底していて、男系の先祖は曽祖父までも(遺影として)登場するのに*6、母親は一切登場しない。母親がいないことに言及されることすらない。まるでポーの父親(ミスター・ピン)が一人だけでポーを生んだかのようである。ひょっとすると、ポーは捨て子で、ミスター・ピンがそれを拾って我が子として育てたのかもしれない。もしそうだとすれば、ポーがパンダなのに父親であるミスター・ピンが鳥であるという奇妙な事態にも説明がつく。さらには、ポーは宿敵タイ・ランと同じ境遇だということにもなる。だとすると、最後の対決は、同じ境遇(養父に育てられ、シーフー老師にカンフーを教わった)の二人の対決だということになり、そう考えるといっそうドラマチックである。
 そこまで行くと根拠薄弱な妄想であるが、夫婦関係が出てこないという見解に対しては、名のない村民たちの中には夫婦ではないかと思える者たちもいるではないか、という反論もありうるだろう。しかし、それも確かなことではなく、夫婦だと明言されるペアはいない。それ以上に、主要登場人物たちの中に一人も恋人や配偶者がいる者がおらず、母親の存在を少しでもにおわす者もいないという事実はやはり大きい。
 作品中に恋愛要素が登場しない理由としてはほかには、男女の平等性を保つためという理由が考えられる。本作で描かれているのは、女性が龍の戦士の筆頭候補であることに疑問も反感も抱かれない世界である。すなわち、性別があっても性がない世界。英語だとどちらも“sex”なので、英語でも区別可能なように言い換えるなら、ジェンダーがあってもセックスのない世界*7。そこでは人は性別ではなく実力でのみ評価される。これは、ある種のフェミニストにとっては理想の世界だろう。恋愛および夫婦関係という、男女を差別化し、序列化する要素が排除されているために、本作品内世界は、フェミニズム的に正しい世界になっているのである*8。もしかしたら、そのことが、本作が多くの賞を受賞した理由の一つであるかもしれない*9
 だが、フェミニスト向けというだけにしてはやはり過剰なのである。前述したように、本作では親子愛すら否定されているのだが、フェミニストだって親子愛までは否定しないだろう。
 もちろん、ポーとミスター・ピンの間には親子愛が見られるではないか、という反論がありうるだろう。だが、彼らの関係は、師弟関係に近い。ただし、カンフーではなく、ラーメン作りに関するそれではあるが。ミスター・ピンはポーをラーメン屋の跡取りにすべく熱心に教育している。そして、修行を終えた者に伝授される特別なスープの秘密は、龍の巻物の秘密と同じく、「秘密の材料というのは何もない」というものだった。両者の関係が師弟関係に近いと言った意味が分かってもらえただろうか? そして、だからこそ、両者の種をパンダと鳥に違えて実際の親子でないという含みを持たせたのではないだろうか。もしそうだとすれば、恋人関係や夫婦関係にある人たちが登場しないだけでなく、本当の親子関係(血縁関係)にある人たちすらも、この映画には登場していないということになる。
 というわけで、本作には、愛を基にした関係はほとんど登場せず、そうした関係を築こうとすると不幸を招く。すなわち、愛を信頼に優先させれば双方にとって悪い結果を招く。だから、愛より信頼を優先させねばならぬ。愛ゆえに信じるのではなく、「ただ信じる」ことが要請される。
 本作はカンフー映画であるが、その勝負の趨勢を決定するのは、単純な体力や技術(および、その総合力としての戦闘力)ではない。すなわち、強さイコール戦闘力ではない。純粋な戦闘力だけで見ればポーは決して強くない。スカウターで測ったとしたら、ポーの戦闘力は修行終了後でもマスターファイブより低いだろう。にもかかわらず、ポーがマスターファイブや老師ですら敵わなかったタイ・ランに勝ったのは、彼がミスター・ピンの言葉を聞いて、龍の巻物の意味を豁然大悟したからである。本作における強さとは言ってみれば魂の強さ、人格的成長や自己実現の度合いである。そういった意味では、宗教的な映画だと言える。なにせ、この作品から読み取れる教えは、以下のようなものなのだから。

 一切の愛を執着(不幸の原因)と見なして、そこからの解脱を目指す。そのために必要なのはただ信じること。

 本作は、中国的テイストをうまく取り入れた作品であるが、この点に限っては中国的というよりはインド的、儒教的というよりは仏教的である(儒教は親子関係を重視するが、仏教ではそれを捨てて出家することが理想とされるという意味で*10)。
 ここまで来ると飛躍しすぎてもはや別の話である。あれ、これって『カンフー・パンダ』の話じゃなかったっけ? 自分でもよく分からなくなってきたが、しかし、それでこそ「考えのはずみ」の本領発揮である。と、無理やりオチをつけたところで終了。


・参考文献
内田樹私の身体は頭がいい―非中枢的身体論』新潮社、2003年。
同『他者と死者―ラカンによるレヴィナス海鳥社、2004年。
同『先生はえらい』筑摩書房、2005年。

*1:したがって、日本では「自分を信じろ」というキャッチコピーがつけられていたが、それは映画の内容を正しく表しているとは言えない。

*2:だから、弟子のポーがタイ・ランを倒したと聞いて、老師は最後に言う。「私は平和を見出したのだ、ついに」と。

*3:だから、本作品中で最強の存在だと思われるウーグウェイ導師は、何ものにも決して囚われることのない人物として描かれている。

*4:老師はポーの修行の際にポーの食べ物への執着(食い意地)を利用するが、ポーが遂に老師から肉まんを奪い取ったとき、彼がそれを「要らない」と老師に返すのは、彼が持つ最も強い執着である食べ物への執着からも自由になったということを示しており、それをもって彼の修行は完了したのである。

*5:老師がタイ・ランに敵わないのも、老師がタイ・ランに執着しているのに対して、タイ・ランは老師に執着していない(老師を愛していない)ためである。

*6:ちなみに、彼らは皆、ミスター・ピンと同じく鳥。

*7:あるいは、セックスがあってもセクシュアリティがない世界。

*8:アメリカ映画がポリティカル・コレクトネスに大変気を遣っていることはよく知られている。本作の存在自体がその証拠であるし、声優のキャスティングにも人種に対する配慮が見られる。

*9:惜しくも、アカデミー賞長編アニメーション部門受賞は逃したが。

*10:ただし、中国には儒教に匹敵する宗教として道教が存在する。こちらは仏教と同様に脱俗を理想とし、その理想像は仙人である。だから、仏教的というよりは道教的と言ったほうがよいのかもしれないが、それについては知識があまりないので、現時点では判断しかねる。