「作家主義」について再び問う、あるいは問わない

araig:net:「作家主義」について、その2
(リンク切れ)


 前回の文章を書くに当たって僕の頭にあったのは、何も考えないで(自らのスタイルに無自覚に)映画についての批評(っぽいもの)を書くと、作家主義になってしまうということです。それは第一に自分自身のことなのですが。
 もちろん、ここで言う作家主義は本来の「作家主義」とは異なるもの(仮に「ナイーブな作家主義」と呼ぶ)であるとツッコミを入れることはできるでしょう。ですが、同時に作家主義が多くの人にそのようなものとして誤解され、使用され、批判されているということに対して、当の作家主義および作家主義者の側には責任はまったくないのでしょうか? 作家主義者は、誤解している人たちに対して、その本義を啓蒙していくだけでよいのでしょうか? 「実際、僕は作家主義を正確に理解した上で批判しているものを読んだことがありません」と言うのならなおさら。

そこで内田樹を参照してはいけません。彼は作家主義の詳細を調べもせず、文学・演劇における作者(auteur)のイメージをそのまま割り当ててしまっています。

 すいません、無知なもので。内田氏の文章を参照したのは、映画批評に関する僕の見聞があまりにも狭いので、誰かに内田氏を解毒(デトックス)して欲しかったというのもあります。
 ともあれ、僕が第一に挙げた疑問もこのことに関わるもので、「作家主義」における「作家(auteur)」が、文学や演劇における「作者(auteur)」と違うものだとしたら、なぜバザンは「作家主義」という名称を選択したのでしょうか? この点に関する僕の推測は、一応ネット上での「作家主義」の説明を参考にしたのですが、間違いだったようなので、その理由は判然としないままです。


 僕も、「作家を肯定することが、直接『作品に単一の『起源』を想定すること』や、まして『映画作品を構成する全ての要素の意味は一義的に確定できると想定すること』と結び付く」とか「『作家』と一言呟けば、以下のものがもれなく付いてくる」と、考えているわけではありません。現代において、「作家」という語を前面に押し出すことは、そのような帰結を生む可能性が高いという状況的な認識を語っているだけです(無論、この認識が誤っている可能性はありますが)。

つまり、「一つの作品の全責任は監督にあるものとして考える」というのは、作者がメタの位置にいて強権を発動するということではなく、いつもオブジェクトレベルに巻き込まれながら、それを引き受けるものとして考えるということです。

さて、以上のような説明で、作家=『天皇ごっこ』説は免れたかと思います。

 そうではありません。僕が大澤氏の文章を引用して言おうとしたことは、当人がどう意識しようと(「作家」がオブジェクトレベルにあるものと考えようと)、結果として「作家」はメタレベルにあるかのように受け取られてしまうことが問題ではないかということです。ですが、そのことに対する反論はまだなされていないように思います。
 もちろん、これは作家主義そのものとは本質的には関係ない批判であり、外的な批判という意味では、「いちゃもん」に過ぎません。作家主義の社会的効果・対人効果を考えよ、という批判なのですから、そんなものは映画批評とも映画そのものとも関係ありません*1。(そんなことは全然言っていないのに)そう誤解する人が悪いというだけの話でしょう。
 ですが、一方でもしかしたらそうとも言い切れないのかもしれないとも思うのです。araignetさんも次のように言っています。

普通批評は他人に見てもらうので、その批評にある程度の客観性を確保しなければならない。

 上の言葉は、批評は、他人にどう受け取られるかということ込みで書かれなければならないということでもあると思います。
 だから、バザンの「作家主義」が同時代に「ヌーヴェル・ヴァーグ」という結果(効果)を生み出したことを評価するにやぶさかではありません。しかし、では、作家主義が擁護しようとしたハリウッド映画にはいかなる結果(効果)をもたらしたのでしょうか? 「アメリカン・ニューシネマ」だけなのでしょうか? だとしたら、それは構造的に誤解をはらんだ概念だったのではないか、という疑念が湧きます。
 無論、これだけのことからそう判断するのは早計に過ぎます。だから、もう少しその辺りのことを説明してほしかったのですが、ま、自分で調べろという話ですね。しかし、「構造的」というのが言いすぎだとしても、「この誤解は致し方ない部分もあ」るのですから、そのような誤解を経験した我々としては、その誤解を避けるべく何らかの手を打つ必要があるでしょう。そして、その誤解を避けるための工夫が「作家主義」という名称には見られないのが、僕の疑問というか不満だったわけです。
 ですが、araignetさんは別に作家主義の代表者というわけではないのですから、それはバザンの正当な後継者にでも(もしいるならば)言うべきことなのかも知れません。


 内田氏の批評が外的な批評であることはその通りだと思います。ですが、そのことに自覚的な程度には内田氏はひねくれていると思います(araignetさんも少し言及しておられるように)。

 この本の目的は、「ラカンフーコーやバルトの難解なる術語を使って、みんなが見ている映画を分析する」のではなく、「みんなが見ている映画を分析することを通じて、ラカンフーコーやバルトの難解なる術語を分かりやすく説明すること」にあります。
 これは「現代思想の術語を駆使した映画批評の本」(そんなもの、私だって読みたくありません)ではなくて、「映画的知識を駆使した現代思想の入門書」なのです。
(『映画の構造分析』pp.8-9)

映画が「私たちの中の『解釈したい』という欲望に点火し」(p.46)、その欲望に基づいて、我々は一つの物語(仮説)を作る。それは、自分自身の勝手な解釈(「独創的誤解」(『先生はえらい』p.166))であって、唯一絶対の解釈ではない。すなわち、『エイリアン』なら『エイリアン』をまず見て、そのある部分に引っ掛かりを覚えるという形で魅せられて、その引っ掛かりを解消してすっきりしたいがために何とか(必要なら精神分析の理論などを援用してでも)独自の解釈を生み出すという意味では、内田氏の映画批評(?)にとっても映画がまず先にありきなわけです(建前に過ぎないとも考えられますが)。
 実際、araignetさんが嫌悪感を露わにするほどには、両者の意見は実質的にはそれほど違わないような印象を僕は持っていました(原理的なレベル、抽象理論のレベルではということで、具体的な作品の分析のレベルでは大きな違いが生じるのでしょうが)。だから、前回の文章を書いたときには、両者の関心領域が近接しているということもあり、これほど強い反応が返ってくるとは思っても見ませんでした(むしろ、僅かな違いだからこそ嫌悪感を催すということなのかも知れませんが)。そのせいで、僕の疑問の焦点がぼやけてしまったという意味では、確かに内田氏を持ち出したのは失敗でした*2

僕が映画を好むのは、映画は現実の世界に対応しない世界を見せてくれるからです。

 アニメやマンガも小説も「現実の世界に対応しない世界を見せてくれ」ます。しかも、「意図して描かなければ何も映らないアニメ」は、「カメラを向ければ確実に意図しないものが写る」という点では、映画よりもっと現実の世界に対応しない世界を見せてくれます。しかしこれはまあ、揚げ足取りでしょう。おそらく、「映画には映画だけの原理が存在する」という意味なのだと思います。
 こう言うと叱られそうですが、僕は映画好き(シネフィル)ではありません。映画を映画として楽しむということがいまだにできません。だから、「名作」と呼ばれる映画のほとんどを面白いと感じることができません(多分、映画体験の少なさに起因するものと思いますが)。映画も見ますが、それは何か面白いものを見たいという動機からであって、映画好きだから映画を見るというわけではありません。その意味では僕にとっては映画もアニメもマンガも小説も同列です。だから、それ自体として面白いなら作家主義批評だろうが精神分析批評だろうが何でもいいという気持ちがあります。逆に言えば、映画にはそれだけの度量の広さを期待したいのですが、無理な注文でしょうか?
 精神分析を好きな人が映画好きなことだってありうるでしょう(そういう人が監督をやることだってありえます)。釣り好きな人が映画好きであることもありうるように。そして、映画を見る人の大部分がそういう、映画だけが好きなわけではない、映画にそれほど熱中しているわけではないという人でしょう。そして、映画というものは純粋な映画好きだけに見てもらっても投下した資本を回収できないような芸術です。だから、純粋な映画好き以外の人にも見られることを期待して、映画というものは製作されています(その意味では、映画もまた「資本主義社会にほどよく調和」しているため、精神分析と親和性があるのでしょう*3)。特に莫大な製作費をかけて作られるハリウッド映画はその傾向が顕著です。
 だから、映画批評も純粋な映画好き(シネフィル)だけに向けて書かれるべきではないと思います*4。そのような見地からすれば、精神分析批評や社会学的批評が存在してもよいと思います。それどころか、できるだけ多様な批評が存在した方がよい(観客の数だけ批評があってよい)とさえ思います。排他的に自らの批評の特権的正当性を主張するのでない限りは。
 もちろん、そういったハリウッド的な製作体制を批判するということもできるでしょうが、作家主義は、ハリウッドの「商業的」映画監督を擁護するためのものなのだから(だったのだから)、そうはしないでしょう。


 僕は作家主義が不要だと言うつもりはありません。「作家主義」という名称を保持することは、今日においては、作家主義的でないのではないか、と言いたいのです。
 すなわち、僕は、「作家」あるいは「主義」という言葉に引っかかりを覚えているだけで、その内容(志)に関しては――僕が理解した限りにおいてですが――ほぼ同意します*5
 ですが、些細な点なのかもしれませんが、なぜ映画の様々な要素(「世界」「ありとあらゆる外部」)が「作家」(監督)の名の下に結集させられねばならないのかが、僕にはやはり不明です。
「作家」であってはいけない理由はありませんが、同時に「作家」だけでなければいけない理由もまた存在しないように思えます。「ありとあらゆる外部に晒されている」のは監督だけではないし、「いつもオブジェクトレベルに巻き込まれながら、それを引き受ける」のも監督だけではありません。脚本家もカメラマンも照明も音楽家もプロデューサーも製作会社も、そして観客もそうであるわけです。
「作家はいくらでもおり、ある作家の内に別の作家を発見する、ということがある」というならば、「作家」という概念は複数性をはらんでいるということになりますが、その複数性を「作家主義」は結果(効果)において殺さずにいられるのでしょうか? というのも、作家主義批評は、具体的には監督の固有名と結び付けられるわけですが、固有名は単一性と不可分だからです(さもなくば、それは「固有」名ではありません)。あるいは、その複数性の内には、他の作家だけでなく、脚本家やカメラマンや照明やプロデューサーや製作会社や観客も含まれているはずであり、だとすれば、そのような複数性をはらんだ概念がなおも「作家」(監督)と呼ばれなければならない理由は非常に薄いように思えます。
 繰り返しになりますが、つまり、作家主義は、複数性・多様性を単一性に縮減してしまっているのではないか。意識(理論)のレベルではなく、結果(具体化)のレベルにおいて。
 例えば、当初、作家主義はハリウッド映画を積極的に擁護するという形で映画批評(の対象)の幅を広げ、多様性を認めるものであったはずが、現在では、アメリカン・ニューシネマを排除し、精神分析批評を排除するという点では、映画批評の幅を狭める、排他的なものになってしまっているように見えます(作家主義者全員がそうするのかは知りませんが)。
 それは批評が批評として成立するための最低限の排除である。つまり、そんなものまで多様性を認めるという名の下に認めてしまっては批評というもの自体が成立しなくなってしまうということなのでしょうか?
 つまり、「作家」である監督(作家性のある映画)と「作家」でない監督(作家性のない映画)が存在し、作家主義は前者のみを真の作家(映画)として称揚するものなのでしょうか?(トリュフォーとかそんな感じがしますが) つまり、映画的な映画と映画的でない映画とがあるのでしょうか?
 ですが、現代において映画批評が批評たらんとすれば、映画的でない映画を始めとする様々なものを排除せねばならぬとしたら、それでも批評を延命させる意味というものはあるのでしょうか? 作家主義が特定の映画しか映画として認めないとすれば、その批評は個人的な感想とほとんど変わらないほど閉じてしまいかねません。
 それは、現代において映画は映画として独立に成立しうるのかという問題でもあります。映画は大衆芸術である以上、大衆性を取り込む形で成立・発展してきました。テレビの台頭やネットの出現によって映画はその存在をたびたび脅かされながらも、それらを主題や技法に取り込んだり、それらとタイアップしたり、「メディアミックス」したりすることで、現代まで生き延びてきました。だから、もはや映画のことだけ考えていては映画のことは考えられない段階に差し掛かっているのではないでしょうか?
 そのことを重々承知しつつあえて「作家主義」を選択するのだとしても、バザンの時代における作家主義をそのまま引き継ぐだけでは、現代において作家主義的であることはできないのではないでしょうか? すなわち、映画に「作家」を積極的に見出そうとする試みはますます困難になっていくのではないでしょうか?
 映画(作品)に対しては多様な批評が可能であり、その際の批評理論(視点)の一つとして作家主義的なものを位置づけるという仕方もあるのではないでしょうか?
 もし、araignetさんが作家主義をそのように位置づけておられるなら(例えば、多様な批評が、単に無秩序に散らばっているだけでなく、まさに「多様」であるために必要とされる結節点として作家というものを仮構するとか)、僕にとっては腑に落ち、収まりが良くなるのですが、わざわざ「作家主義者」だと表明するからには、そのようにこちらが勝手に忖度するのもどうかと思い、質問させてもらっています。
 例えば、映画を多層構造的なものと捉えて、その層(レイヤー)の内に「監督の層」もあるという風に考えることはできないものでしょうか? もちろん、他に「脚本家の層」「カメラマンの層」「プロデューサーの層」「観客の層」等があるわけであり、それらの層を縦断する別の層もまたあるでしょう。もちろん、監督の層が強い映画もあれば、それ以外の層が強い映画もあります。もちろん、これは思いつきに過ぎないので理論と呼べるような段階まで煮詰まっておらず、そういった方向性もあるのではないかというだけのことです。
 それとも、作家の単一性(ここで言う「単一性」とは、メタレベルにおける作家の単一性ではなく、「いつもオブジェクトレベルに巻き込まれながら、それを引き受けるもの」は作家だけであるとするという単一性です。すなわち、「作家主義」はあっても「プロデューサー主義」や「観客主義」はないという意味での単一性です)は原理の単一性と対応するのでしょうか?


 araignetさんの意見を集約するならば、映画の内的な批評が「作家主義」において可能となるということでしょう。言い換えれば、「作家主義」において初めて映画固有の原理に触れることが可能となるということです。
 では、映画固有の「原理」とは何なのでしょうか? 『LOFT』の批評においても「原理」という言葉が用いられていましたが、結局原理とは何なのかは説明されていません。それを読んでも、あくまで物語内において登場人物を動かす原動力(始動因および目的因)程度の意味しか読み取れませんでした。
 映画を映画たらしめている原理とは何か? 言い換えれば、これがなければ、それはどんなに映画らしく見えても映画ではないと言えるようなものは何か?
 例えば、映画がDVD化されたものを自分の家で、好き勝手に一時停止したり、早送りしたり、巻き戻ししたりしながら見たとしても、それは映画なのか?
 この疑問に対する作家主義的な答えというものはあるのでしょうか?
 なければ、作家主義的でない答えでも別にかまわないのですが。
 答えにくい質問だと思いますが、ですが、それを具体的に語ることができないとしたら、否定神学になってしまいます。言い換えるならば、「ある程度の客観性」が確保できないことになります(それは精神分析(批評)の問題点でもあります)。
 僕が最終的に知りたいのは、映画というものをどう評価したらいいのかということ、どうやったら映画をちゃんと批評したことになるのかということです。
 例えば、下のように言われるからには、まだ1本しか撮っていない監督の作品は批評不可能ということなのでしょうか?

つまり、その原理は同じ作家の別の作品と連続性を持っているかどうかという基準です。ここで重要なのは、上段に「作家の原理」を立ててそれと参照するのではなく、作品同士の横の繋がりによって判断するということです。

 それから、作家主義における「作家」は、映画のある種の機能を名指す言葉だということになるかと思いますが、だとすれば、作家主義にとっては、監督自身の言葉も、批評の際に考慮すべき要素の一つに過ぎないということになるでしょう。それは重要度の高い要素ではあるのでしょうが、特権的な要素ではないでしょう。だから、仮にある映画の批評がその映画の監督自身に否定されたとしても、そのことだけではその批評の正当性は揺らがないということになります。自分の作品について語る監督の言葉が常に正しいとは限らないわけですが、だとすれば、作家主義は、機能としての作家と現実に存在する作家(監督)との整合性をどう考えるのでしょうか? 一顧だにしないのでしょうか? それとも何らかの優先性を認めるのでしょうか? 前者だとすれば、やはり「作家主義」という名称はミスリーディングだと思いますし、後者だとすれば、その優先性はどのように正当化されるのでしょうか?


作家主義」における「作家」という概念が、一種の虚構であり、戦略的に持ち出されたものなのだとしても、あるいはそれだからこそ、数ある映画的要素の中から「作家」という名称を特に選んで冠した以上、いくら「作家」=監督を特権的な存在として扱おうとするものではないと主張しようとも、いずれ「作家」という概念が実体化され、特権化されてしまうということは、必然であったとすら言えます(似たような例は、枚挙に暇がありません)。
「作家」という名称を選んでおいて、「いや、作家というのは現実存在としての作家をナイーブに特権的に指示するものではない」と断りを入れるのは、享楽の対象を「ファルス」と名付けておいて、現実の性器とは無関係(だから、性別とも無関係)だと主張するようなものではないでしょうか?(ちょっと違うか)
 映画についての言説が映画作品をナイーブに監督のものとして語ることが多い現代において、本来の意味での作家主義者であろうとすることは、作家主義「について」語ることを余儀なくされ、作家主義「で」語ることがいつまでたってもできないということを意味するのではないでしょうか? なぜなら、いくら作家主義で語ろうとも、作家主義について説明せねば(あるいは説明したとしても)、他の人々にはそれはナイーブな作家主義として受け取られてしまうからです。
 僕は、作家主義の本義は、現代においてはむしろ「作品主義」と呼ばれるものに近いのではないかという印象を持ちました。作家主義マニフェストのほとんどは、「作家」を「作品」に置き換えてもそのまま成り立つのではないかという意味で。もしそうだとすると、「作家主義」という名称(あくまで名称であって内容ではない)の耐用年数は切れているのではないでしょうか? 「作家」というのが、「取り敢えず名付けられた仮の名前」(「nouvelle vague」)であるのなら、別にそれにこだわる必要はないのではないでしょうか? すなわち、別の名称(概念)を用いた方がよいのではないでしょうか。別の名称は「作品主義」でも、それが気に入らないのなら他の名称でもいいのですが、必要なら、「作品主義(バザンの「作家主義」と同じもの)」という風に付記すればよいでしょう。
 それとも、「作家」という名称は代替不可能なのでしょうか? そうだとしたら、その代替不可能性は(「作家」そのものの特権性に由来するのでないとしたら)何に由来するのでしょうか?


 ここまで書いてきて、やはり別に作家主義の側からの反応を期待すべきようなことではないのではないかという疑問が拭えません。なぜなら、これらの問題は、作家主義の外側にいる者が作家主義をどう理解するかということに関わる問題であって、作家主義者にとってはそもそも問題ですらないとも考えられるからです。ですから、もし答えるに足る疑問があるようでしたらお答えください。
 といっても、文章が長くなったので、疑問点が散漫になってしまったでしょうから、まとめておきます。
 第一点は、「作家主義」という名称について。どうしてこのような名称がつけられ、どうして他の名称でなく、この名称であらねばならないのか?
 第二点は第一点とも関係することだが、「作家主義」における「作家」は戦略的虚構概念であると同時に、現実に存在する作家(監督)をも意味するという二重性が、両者の混同(「作家」の実体化・特権化)を招くという点に関して、当の作家主義者たちはどのように考えているのか? それは意図的なものなのか?
 第三点は、映画の原理とは何か?(映画とは何か?)
 第四点は、映画の原理と作家主義の関係。もしかしたら、第三点の答えの内に含まれるかもしれない。


 ともあれ、色々教えていただきありがとうございました。おかげさまで作家主義がどのようなものであるのか、心構えのようなものは分かりました。これ以上のことを知るためには、実際に個々の作品の批評を見ていった方がよいでしょう。ですから、もしaraignetさん以外に、現代において実際に作家主義でもって映画を批評している作家主義者がいるならば教えていただけないでしょうか? プロアマは問いませんが、できれば日本人でお願いします。外国の人だと、言語の問題以上に、批評の対象になっている映画を見たことがない場合が多くて、具体的に何を言わんとしているのかさっぱり分からないということがよくあるので。

*1:社会学批評や精神分析批評とは関係するのでしょうが。

*2:冒頭の内田氏への言及は最後の最後に付け足したものでした。

*3:どちらも19世紀後半の産物ですし。

*4:もちろん、純粋な映画好きだけが所属するようなコミュニティ内で発表される批評はその限りではありません。

*5:「同意する」と言うよりは「許容する」と言った方が正確かもしれませんが。