スピノザ『エチカ』における擬人化

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

 以前書いた「『擬人化たん白書』:萌え擬人化に見る愛」というエントリを、私は『スピノザの世界』の紹介で終えたのだが、先日、知人からその続きを書けと言われた。擬人化やキャラや萌えについてはともかく、スピノザの件については続きを書くことは想定していなかったのだが、というか、読めば分かることなのでいちいち僕が何かを述べる必要はあるまいと思っていたのだが、そして、そんなことを書いたところで誰が読むんだと思っていたし、今も思っているので、あまり気が進まないのだが、今のところ、その知人が、このブログの唯一の想定読者なので仕方がないので続きを書くことにした(前置きが長くてすみません)。


 スピノザ『エチカ』第1部付録によれば、擬人化のメカニズムは以下の通りである。


 人間は、
1、自分を自由であると(誤って)思う。
2、万事を目的のために、すなわち彼らの欲求する利益のために行う。

↓「自分の性状から他人の性状を判断する」

できあがったものごとについて常に目的原因のみを知ろうとつとめ、これを聞けばそれで満足する。

すべての自然物を自分の利益のための手段と見るようになった。

そうした手段を彼らの使用のために供給した他のある者が存在することを信ずるようになった。

こうした支配者の性情については少しも聞き知ることがなかったので、これを自分の性情に基づいて判断せざるをえなかった。


 順序としては、人間(自分自身)の擬人化(自由意志と目的原因の付与)から、神の擬人化へという順序である。
 しかし、スピノザによれば、自然には――ということは自然の一部である人間にも――自由意志も目的原因も存在しない。

 ふつうわれわれは、自分で目的を立て自分の自由な意志で行動していると信じている。ところがスピノザによると、自然の中で起こっているのはその逆である。言い表すことのできない衝動がすでにあってわれわれの行動を生み出しており、われわれはそれをいわば遅ればせに欲望として感じている。そして問われると、この欲望意識をもとに、自分はしかじかの目的に向かって自由な意志で行動しているのだと解釈し、自分にも他人にもそういうふうに答えを返すようになっている。(『スピノザの世界』pp.31-32;cf. pp.132-133)

 すなわち、衝動を、目的を伴った欲望に加工することが、擬人化であると言い直すことができる。
 では、衝動とは何か?

 まず、スピノザの言う「衝動」は、それ自体としては目的と何の関係もない。石ころであろうと雨粒であろうと馬であろうと人間であろうと、何かある事物が一定の時間、それでありそれ以外のものでないというふうに存在するとき、そのようにおのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが「努力」(コナトゥス conatus)と呼ばれるものである(スピノザの大変重要なジャーゴンなので覚えておこう)。これが無くなるとその事物そのものがなくなるので、それはその事物の「現実的本質」でもある。コナトゥスは目的というものをまったく持たずに働いている自然(神)の活動力の一部であり、そのつど及ぶところまで及んでいる。コナトゥスはそれゆえ、それ自体としては目的と何の関係もない。事物はそのつどめいっぱい自己の有を肯定しているだけで、まだ見ぬ自己の実現を目指して努力しているわけではない。そして、こうした目的なきコナトゥスがわれわれにもあって、それが精神に何かをさせ、身体に何かをさせる。これが「衝動」である。だから衝動は何かをさせるわけだが、目的があってそうさせるのではない。
 したがって「何々のために」というお題目は、われわれの頭の中にしかない。今一度「欲望」の定義を思い出そう。「欲望」とは意識を伴った衝動である。つまり、それ自身としては目的なき衝動を、われわれは意識の中で何かを実現しようとする欲望として、いわば誤認しながら生きるわけだ。馬を餌に向かわせる衝動は餌が目的なのではない、馬自身に対する肯定そのものである。私をホームへと向かわせる衝動はホームが目的なのではない、私自身に対する肯定そのものである。その意味で馬も私も自分の衝動を知らない。衝動はなまの形で意識にのぼることは決してなく、いつも目的を伴った欲望に加工されて経験される。(pp.33-35)

 それ自身は目的を持たない衝動を我々が意識するとき、それは「目的の言葉」に変換される。言い換えれば、我々は自分や他のものの衝動に関して一種のお話、物語を作る。
 例えば、「馬が餌を貰うために走っている」と言うときには、さらには「私は電車に乗るためにホームに向かっている」と言うときにもまた、擬人化、物語化が行われている。


 したがって、スピノザに従うなら、擬人化は無知に基づく偏見である。
 偏見とは「知覚の蝕」「切断され欠損が生じた思考」(『知性改善論』第73段;cf.『スピノザの世界』p.64)を埋めるものであり、「表象」(imaginatio(イマジネーションの語源)、cf. p.126)である。

 いったいに、事物の真の原因を知らない者はすべてのものを混同し、またなんら知性の反撥を受けることなしに平気で樹木が人間のように話すことを想像し、また人間が石や種子からできていたり、任意の形相が他の任意の形相に変化したりすることを表象するものである。同様にまた、本性を人間本性と混同する者は、人間的感情を容易に神に賦与する。特に感情がいかにして精神の中に生ずるかを知らない間はそうである。(『エチカ』第1部定理8備考2)

「樹木がしゃべる」みたいな事物の本質に関する絵空事は、はっきりしない観念の合成からしか生じない。必然的に別なふうにはありえないと知られるごく単純な事物の観念から合成してそんなことが言えるかどうかを調べれば、ことの真偽ははっきりする。(pp.59-60;『知性改善論』のパラフレーズ


 そして、最大の擬人化、すなわち最大の誤謬は神の擬人化である(cf.『エチカ』第2部定理3備考)。

実際、われわれは自然が目的のために働くものでないことを第1部の付録で明らかにした。つまりわれわれが「神あるいは自然」と呼ぶあの永遠・無限の実有は、それが存在するのと同じ必然性をもって働きをなすのである。事実、それがその存在するのと同じ本性の必然性によって働きをなすことはわれわれのすでに示したところである(第1部定理16)。したがって「神あるいは自然」は、何ゆえに働きをなすかの理由ないし原因と、何ゆえに存在するかの理由ないし原因が同一である。ゆえにそれは、何ら目的のために存在するのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。すなわち、その存在と同様に、その活動もまた何の原理ないし目的も持たないのである。(『エチカ』第4部序言)

神は幾何学者のように考えて世界を設計し、つくるのではない。いわば神自身が幾何学なのだ。神を制作者のように考えているあいだ、人は問うてきたものだ。つくろうと思わなければつくらないこともできたのに、神はどうしてこんな世界をつくったのか? いったいそれは何のためか? どうすればわれわれはその目的にかなうことができるのか? ここから神学ははじめから解ける見込みのない思弁に迷い込む。スピノザの答えは、単純明快である。神は制作者ではない。その意味で「神の本性には知性も意志も属さない」(定理17の備考)。在りて在るものはその本性の必然性から一切を生じる。それで十分である。(pp.98-99)

「神自身が幾何学者なのだ」とはどういう意味か。この自然、すなわち世界そのものが神なのであり(そして、それ以外に、この世界の外に、神はいないのであり)、その神とは言い換えるならば「真理空間」である*1

すべての観念がその対象と一致するような、絶対かつ唯一の真理空間。その別名がスピノザの「神」なのである。世界は真理でできている。だれが考えていようと、もしそれが真なる観念なら、その真理は何らかの仕方でこの真理空間内にある。(p.114)

 真理とは事実である。現に存在する、現にしかじかであるということそのものが永遠真理なのである(cf. pp.172-176)。だから、悲観主義者が考えるように、我々が真理から隔てられているということはない。我々は現に真理を認識しており(いくつかの真なる観念を所有しており)、現に真理そのものであるのだ(その意味で、我々は常にその都度、完全なのである(cf. pp.158-162))。

*1:超越神をパソコン通信におけるホストコンピューターに喩えるなら、スピノザの神はインターネットに喩えられるだろう。ネット全体を見渡すことのできる視点や中心は存在せず、各家庭や会社のコンピューターを繋ぐネットワーク全体がインターネットであるように、スピノザの神は事物(物体や観念)の連結そのものなのである。