擬人化をゆるす

 人が未知の出来事、すなわち「真の原因を知らない」出来事と出会ったとき、対処の方法は二つある。理解と擬人化がそれである。前者は真の原因を知ることであり、後者は真の原因を知ろうとすることなく、その認識における「蝕」を自分の性状からの類推によって埋めることである。前者は真理を認識すること、後者は虚構を生み出すことであり、前者には論理、後者には物語がそのために用いられることになる。
 物語(ミュートス)と論理(ロゴス)という対比は古代ギリシアの頃からある。
 スピノザの時代で言うなら、「私」が語るデカルトの『方法叙説』(原語では“Discours de la méthode”で、「方法についての話」という意味)と、『幾何学的秩序で証明されたエチカ』(スピノザの『エチカ』の正式タイトル)という対比が分かりやすい(『方法叙説』が非論理的であるという意味ではない)。
 物語と論理の最大の違いは主体が登場するかどうかである。前者には主体が登場するが、後者には主体が登場しない(正確に言えば、必ずしも主体を必要としない)。
 物語には主人公がおり、様々な登場人物が出てくる。それらの人物(主体、人格)がどのような状態に置かれ、どのような行動を取ったのかを語るのが物語である。
 主体(「私」)は、世界に開いた穴であり、特異点である。世界という無矛盾性はそこからほころび始める。体系の内に主体を組み込もうとするとどこかに矛盾が生じる。「私」とは形式化されない内容である。だから、主体を主題にするのは学問の領域ではなく、芸術の領域に属することである。
 それに対して、論理の連鎖である幾何学的証明においては主体は(「私」さえも)登場しない。それが書き記された後では著者さえも不要である。だから、スピノザは『エチカ』を匿名で出版しようとした(cf.『スピノザの世界』pp.6-7)。

もし哲学が真理の探究なら、人間の意見ではなくて事物が語らなければならない。『エチカ』で肯定したり否定したりしているのは誰でもない、事物自身である。三角形がその幾何学的本質をおのずと告げることで姿をあらわすように。
 スタイルは決定的だ。スピノザは、ほとんど困惑させるほどまでにミニマリスト(極小主義者)なのである。哲学的真理に関する限り、どこの誰が言ったかはどうでもいい。何がどうなっているかだけが問題だ。そのためには、呆れるほど単純な、少数の自明の事柄から出発し、あとは事柄自身に語らせればよい。だから哲学はなんぴとのためにも弁じ立てない、蘊蓄も説教も垂れない。ごちゃごちゃ言わず、ただ、できるだけ速やかに事物自身の語りに到達する。そのときわれわれの精神はある種の「霊的自動機械」と化し、よけいなことから解放され、精神自身が事物に還るであろう。そうスピノザは考えていた(『知性改善論』第13、85段)。(p.10)

 人間は一種のオートマトン(自動機械)である。身体に関してそう考えているものは少なくないだろう。生理学的現象や身体の運動は、精神(自由意志)の働きを持ち込まずに、物理的因果関係のみですべて説明可能であると考えるのが科学的な姿勢というものだろうから。だが、精神もそうだとなるとなかなか納得できる人は少ないだろう。もちろん、スピノザは心身並行論を主張するので*1、身体だけでなく精神もまたそうなのであるが(cf.pp.77-78)。

 スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まねばならない。ちょっと不安になるが、しかし問題は「真なる観念」そのものであって、だれの持っている観念かということはさしあたりどうでもよいのである。(『スピノザの世界』p.108)

 なんだか頭がおかしくなりそうだが、スピノザは「考える実体」を消去しているのである。神の巨大な精神が考えているのでもなければ、人間サイズに小型化された精神が考えているのでもない。思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考しているのである。(p.119)


 いかなる擬人化も偏見であり、誤謬である。だが、そうと知ったからと言って、擬人化を止めることができるわけではない。太陽がはるか遠くにあることを知っても、数百メートル先にあるようにしか見えないという見え方は少しも変わらないように。

しかしそうは言っても、やはり私は今、私の自由な決意でこの文を書いているとしか思えない。スピノザだってそうじゃないか。スピノザは答えるだろう(第2部定理35の備考)。もちろん私もそうである。自由意志が存在しないと証明によって理解しても、この夢の外に出られるわけではない。それは、太陽が見かけよりもはるかに遠い距離にあることを天文学によって理解しても、それで太陽がいきなり遠いところに見え始めるわけではないのと同じである。真なるものは偽なるものを消失させはしない。ただ、光がそれ自身と闇とをあらわすように、それが偽であることをあらわすだけなのだよ。(p.133)

実際、神に関する認識がすべての信仰者で等しいわけではないことをだれが知らないであろう。また、なんぴとも命令されて生存したり存在したりできないと同様、命令されて賢くあることなどできないということをだれが知らないであろう。男も女も子供も、およそ人間は命令されて等しく従順であることはできるが、命令されて等しく賢くあるわけにはゆかないのである。(『神学政治論』第13章)

 だから、とスピノザは続ける、「神あるいは自然」を認識するよう万人を義務付ける命令など存在しない。もしそういう認識が若干の人々にアクセスできるなら、それは前に言ったような意味で望外の「恩寵」なのだ。そして彼はこう付け加えてもよかっただろう。しかしそうでない大多数の人々にその恩寵が「欠如」しているわけではない――石に視力が欠如しているわけではないように。(pp.161-162)

 誤解されたようだが、だから私には擬娘化を非難しようという意図はない。私が言いたかったのはただ、モノを擬人化(擬娘化)することも人間を人間扱いすることも、同じレベルの行為(表象=第一種認識)であるということである。どちらも「目をあけながら夢を見ている」(『エチカ』第3部定理2の備考)ことに変わりはない(cf. pp.132-133)。だが、生きている限り、その夢から醒めることはできないし、その夢の外に立つこともできない(だから、非難してもしょうがない)。

 あとでわかるように、事物の世界は自然法則に従って目的も何もなしに生起している。事物は何かの目的に向かって働いているのではないし、完全性に到達するために存在しているのでもない。だから、事物はそれ自身で見られるならよいとも悪いとも言えないし、完全とも不完全とも言えない。その意味で、価値概念はわれわれの頭の中にしか存在しない幻想である。とはいえ、われわれは自分の欲望と目的の文法に支配された意識の中にかくまわれていて、その外に立つことはできない。外に出て、自分の衝動がその中で組み込まれて動いている目的なき世界秩序を俯瞰するような、そういう位置には立てない。このゆえに、とスピノザは結論する、人間はどのみち「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本性」を考えないではいられず、そういう「完全性」へと自らを導く手段を求めるように駆り立てられる。これはまさに衝動がわれわれにさせることであって、目的と手段という枠組みを最初からとっぱらうことなどできはしない(『知性改善論』第12、第13段)。
 もちろん、むきだしの自然はわれわれを完全性へと向かわせることを目的に存在しているわけではない。ここを間違ってはならない。しかしそれさえ間違わなければ、たとえ事物そのものに備わった価値など幻想であり、価値はたかだかわれわれの欲望に相対的な投影にすぎぬとわかりきっていても、やはりわれわれは価値や目的について語れるし、また語るべきであるとスピノザは考える。われわれは衝動をおのが欲望された目的として生き、それ以外に生き方を知らないのだから。(pp.36-37)

「われわれは衝動をおのが欲望された目的として生き、それ以外に生き方を知らない」というのが、私が以前のエントリで「愛とは人間的なのである」と言ったことの意味であり、「擬人化は愛の形式である」ということの意味でもある。
 だが、「『神あるいは自然』を認識するよう万人を義務付ける命令など存在しない」(p.161)。だから、擬人化、擬娘化を止めるべきだとは言えない。
 それどころか、もし擬人化することや擬人化したキャラを眺めることによって喜びを感じているのならば、そのとき自己肯定力はアップしており、その限りで、それは善いこと(「真の善」)である。

 こうして、最大強度の欲望をもとに、「真の善」、「最高善」が定義される(『知性改善論』第13、14段)。

「最高善」[最高によいこと]とは、「自分の本性よりもはるかに力強いある人間本性」を享楽することである。それも、自分一人でなく、できる限り他の人々と一緒に。


「真の善」[ほんとうによいこと]とは、いま言ったことに到達するための手段となりうるものすべて、である。富も名誉も快楽も、この手段となりうる限りにおいてなら「よいこと」、善である。もちろん妨げになるならすべて悪い。(pp.37-38)

「活動力」(potentia actionis)を増大させる限りにおいて、それは善い。逆に減少させるならそれは悪い。すなわち、何であれ有益であるならば、それはよいことなのである。

「有益」ということを考えてみよう。個体Aと個体Bがあるとする。Aの現実的本質はAの自己肯定に役立つあらゆることをAにさせ、Bの現実的本質もまたBの自己肯定に役立つあらゆることをBにさせるのだった。さて、AもBも同じ属性の様態なのだから、どこか共通するものを持っているはずだ。ならばAの自己肯定に役立つあることが、同時にまたBの自己肯定に役立つことでもある、たまたま一致する、ということは当然ありうる。その一致する事柄をcとしよう。すると、AとBが遭遇すると、cを縁としてAとBは結合し、このカップリング――対になること――においてAの自己肯定とBの自己肯定が互いに強められるだろう。そのとき、AにとってBは有益であり、BにとってAは有益である(第4部定理31)。共通概念について見たことを思い出してほしい。たとえば私という個体A、私の部屋にいる猫個体Bのあいだには、きっとそういう「本性上の一致」(コンヴェニエンチア convenientia=適合と訳してもよい)がある。それで私は猫を捨てないし、猫も私を捨てない。一致する事柄cは、たとえば餌を食べてもらい/食べさせてもらうこと、撫でさせてもらい/撫でてもらうこと、互いのそばにいてやることなどである。そのとき、私から見ると猫は私の本性に適合一致する「よい」ものであり、猫から見るときっと私は猫の本性に適合一致する「よい」ものなのである。

この帰結として、事物はわれわれの本性とより多く一致するに従ってそれだけわれわれにとって有益あるいはよいものであり、また逆に事物はわれわれにとってより有益であるに従ってわれわれの本性とそれだけ多く一致する、ということになる。(第4部定理31の系)

 反対に、「わるい」というのはわれわれの本性と一致する事柄に対立し、これをキャンセルするような有害な事物のことである(同じく第4部定理31の系)。考えてみると、われわれは日々、本性上一致する事柄を縁にしてたくさんの事物とカップリングしながら生きている。ほとんど、それが生きているということである。そのままでカップリングできない相手は馴致し、加工してカップリングできるものに変える。鶏や豚は屠り、皿の上の料理個体にしてからカップリングする。屠られるものにとってわれわれは「わるい」に決まっているが、ちゃんと食べてあげるならそれで罪悪感を持つ必要はない(第4部定理37の備考1)。料理になってしまったものにとって私が有益かどうか、ちょっと心配だが、まあ食べてくれる人がいなければ料理個体は腐敗し捨てられるのは確かである。もちろんそうなっても、別な個体に変化した残飯は、また別な種類の個体たちの本性と一致して新たなカップリングをしていくことだろう。生き物だけではない、われわれは同じように、建築とカップリングし、乗り物とカップリングする。要するに、神あるいは自然の中はこういうカップリングだらけであって、これが神の力能、神のなしうることの具体的な表現になっているとスピノザは考えているのである。(pp.151-153)

 擬人化はモノと人とのカップリングであり、人がモノとの「本性上の一致」を探そうとする試みである。擬人化によって「そのままでカップリングできない相手は馴致し、加工してカップリングできるものに変える」わけである。
 付け加えれば、単に擬人化されたキャラを眺めるよりは自ら擬人化する方が、その原因の観念を伴うので、喜びは大きくなるだろう(「喜び」と「悲しみ」の感情については、p.139を参照)。逆に言えば、その喜びを享楽したいが故に、人は擬人化するのかも知れない。
 もちろん、最善は、モノの本性そのものを認識することによるカップリングである。しかし、「人間たちは理性よりも感情によって導かれる」(『国家論』第6章第1節)。それによって、人々が利益を得られるというのなら、擬人化を否定することはない。頂上に到達できるのなら、どのルートを通って登ったってよい。それは「萌え」という感情についても同じである。
 だから、我々は擬人化・擬娘化をゆるし、萌えをゆるしてやればよい。

*1:「並行論」については、『エチカ』第2部定理7参照。