擬人化から非人化へ

 余談めくが、『エチカ』の定理には「すべての個体は程度の差こそあれ魂を宿している(animata)」(定理13の備考)というものもある。いわゆる、スピノザの万有霊魂論である(『スピノザの世界』p.123)。
 面白いことに、「万物に魂が宿る」という擬人化(animation)の極みにおいて、擬人化は消滅する。なぜなら、スピノザは、魂=精神を非人間的なもの、一種の事物(身体の観念)として、考えるからである。


 閑話休題
 だが、もちろん、擬人化、擬娘化だけで万事オッケーと言うつもりもない。
 それは真なる観念に基づかないが故に揺るぎやすい。愛は容易に憎しみに反転するし、そうでなくても、何かのきっかけで容易に冷める。そして、そのこと自体は自分でもどうしようもない。

 躓いた石に向かって、どうしてこんなところにいて邪魔をする、などと言う人はいないだろう。だが、ひょっとしてだれかがわざと置いたのではないかという思いが浮かんだ瞬間、われわれはそいつをゆるせなくなる。理由は簡単だ。われわれは石ころには自由意志を認めないが、人間には自由意志があると思っているからである。

人間は自分たちを自由であると思うがゆえに、他の事物に対してよりも相互に対してより大きな愛あるいは憎しみを抱き合う。(第3部定理49の備考)

スピノザの説明はおおよそこうである。不愉快なことが起こるとき、われわれは排斥すべきものとして不愉快の原因を憎む。憎しみとは「外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない」(第3部定理13の備考)。活動力が低下しつつあるのである。まあ相手が石ころなら腹が立つ程度だが、人間となると憎しみは倍増する。というのも、われわれは自分の行動を意識しながら、その行動へと決定している諸原因を知らない。そのため自分は何からも決定されない「自由な存在」だと誤って信じている(第2部定理35の備考)。そして他人も同類だと思っているので、他人は彼自身から決定されてわざとやるものと信じ、不愉快を「そいつのせい」にしてしまうのである(第3部定理49の証明)。おまけにわれわれには「感情の模倣」というメカニズムがあって、自分に似た存在、つまり他人の感情を思い浮かべるだけで、自動的にその感情に染まってしまう習性がある(第3部定理27)。他人の憎しみを思い浮かべただけで同じ感情に刺激され、自分も憎むようになっている。こうなると何としてでも復讐をとげるまでは気がすまない(第3部定理40とその系2)。
(pp.146-147)

 上では憎しみについてだけ述べられているが、愛もまた同じである。
 すなわち、我々は他人を擬人化するが故に愛し、憎む。それだけでなく、「感情の模倣」のせいで、人間は他のどんなものより人間を最も強く愛したり憎んだりする。
 愛することと擬人化は一体である。愛する(憎む)が故に擬人化し、擬人化するが故に愛す(憎む)。
 だが、愛だけならよいが、愛と憎しみは表裏一体であり、憎しみは悲しみであり、自己肯定力を下げる。そして、その感情自体はコントロールできない。すべてのものを愛することはできないし、憎むのを自由に止めることはできない。では、どうすればよいのか?

「自由意志」の幻想と「感情の模倣」。この二つが組み合わさって、ゆるせないでいる。「ねたみ」もそうだ。われわれは他人の欲望をすぐに模倣してしまい、他人と張り合う。隣人が新車を買うと俄然、自分も欲しい。なぜあいつだけがと「ねたみ」を感じる。こういう感情はみな悲しみの一種なので、他人をゆるせないあいだわれわれの自己肯定力は低下していく一方である。何とかならないか。
 スピノザの提案は、こういうときは無理に人間をゆるそう、愛そうなどとせず、『エチカ』がここでやっているように自分の感情を自然現象として説明し理解してやる、ということである(第5部定理3、4およびその備考)。私が悲しみとして経験している身体変状には、私が思い浮かべているよりもはるかに多くの原因が噛んでいる。私の脳内に刻まれた痕跡のネットワーク――「記憶」――が連想と感情の模倣を誘導し、他人を都合のよいターゲットとして浮かび上がらせている公算が大きい(第2部定理18の備考)。しかし、そもそも他人は、私と同じく自由原因などではない。彼も自分の行動は意識しているがその原因は知らないのである。――とまあ、こんなふうに説明し、理解する。理解は十全な観念による理性の能動だった。だから、説明されたぶん感情は、たとえ消えなくても受動であることをやめる。感情を「あいつのせいだ」という思考から分離して真なる思考と結合させるようにすること、これは理性にできることし、実際これ以外に感情の療法はないとスピノザは言う(第5部定理4の系の備考)。
 何のことはない、自分の感情を説明できているぶん、もう他人をゆるしているのである。ゆるしは一つの効果であって、意志でもって人を愛したりゆるしたりできるものではない。このことを理解しないと、われわれはゆるせないでいる自分自身をゆるせなくなり、悲しみは悪性化する。スピノザはこういう自己嫌悪を「後悔=悔い改め」と呼んで、徳と間違えてはいけないと注意している(第3部定理51の備考および第4部定理54)。
 スピノザの倫理はしたがって、自分をも他人をも呪詛や嘲笑や嘆きの毒牙から守る。人間はダメな存在だと考える人々には、スピノザのこういうゆるし方が奇異に思えるだろう。人間は、まあどうしようもないところがある。しかし眉をひそめていないで、むしろなぜそうなっているのかを厳密な推論で証明し説明すべきである。

一切が神の本性の必然性から出てき、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生きることを正しく知る人は、たしかに、憎しみ、笑いあるいは軽蔑に値する何ものも見出さないであろうし、またなんぴとをも憐れむことがないであろう。むしろ彼は人間の徳のおよぶ限り、いわゆる「正しく行いて自ら愉しむ」ことに努めるであろう。(第4部定理50の系の備考)

これは悔い改めや憐憫とはまったく関係のない、「強さ」によるゆるし、スピノザが「寛仁」(generositas ゲネロジタス=高邁とも訳される)と呼ぶある種おうようなゆるしである(第3部定理59の備考)。他人のためにゆるしてやるのではない。自分自身のためにゆるす。すなわち無力のしるしでしかない否定的な感情から自分自身を救い出し喜びと欲望だけから大いなる自己肯定へと向かうために、というか、もうそんなふうに向かっている証拠として、「人間」をゆるすのである。
『エチカ』はその名のとおり「倫理学」なのになぜ「〜すべし」という定言命法がどこにもないのか、その秘密がわれわれにもわかってくる。定理はすべて事態の説明である。「べし」は入り込む余地がない。それに、事態が理解されれば、ことさら「ゆるすべきである」と言うまでもなくなっている。『エチカ』は人間の感情と行動を説明しながら、その説明そのものにゆるしの効果があることを実地に教える、そういう倫理書なのである。というわけで、「神あるいは自然」でもって事物や感情が説明できればできるほど、悲しみはそれだけ除去され人生は強く、愉しくなってくる。この喜びが「神への愛」なのだよとスピノザは言う(第5部定理15)。なんじ神を愛し隣人を愛せ。これは宗教の教えだが、スピノザはそれを命令形から解き放ち、理性の公然たる愉しみとしてよみがえらせるというようなことをしているのかもしれない。(pp.147-150)

 スピノザの提案する感情の療法は、「自分の感情を自然現象として説明し理解してやる」ことである。それは、人間を反擬人化、自動機械化するということである。言い換えるなら、一人称の世界から非人称の世界へ移行するということである。

 真面目な思索は「私はいかに生くべきか」という問いから始まる。それはよいのだが、それだけだとろくでもない私さがしになってしまう。「私」をめぐる問いは非人称的な事物認識の世界にまで導かれ、事物の言葉で遂行されねばならない。幾何学仕様の『エチカ』が倫理学だという秘密はそこにある。一人称の倫理的な問いを、その強度はそのままに、非人称の世界にまで運んでいく道。それがこの『知性改善論』である。(p.21)

 非人間化の一つの効果として「ゆるし」が訪れる(あくまで「効果として」であって、自分の意志でもってゆるすわけではない)。それは、擬人化を伴わない愛であり、「神への愛」である。

事物を必然的なものと見るようになればおのずと神を愛するようになる……『エチカ』第5部の定理11から20はこんなことを言う。しかし……スピノザの神は人格神ではない。誰かが誰かを愛しあるいは憎むというような意味ではなんぴとをも愛さず、なんぴとをも憎まない。神には非十全なところがないので、人間のように喜んだり悲しんだりの感情に染まりようがないのである(定理17とその系)。無感動で、われわれを見守るまなざしすら持たない。そんな神をいったいどんなどうやって愛せるというのか、と人は言いたくなるだろう。
 振り返ってみよう。すべての事物は必然的であると知るとき、われわれは自分が感情の原因を勘違いしていたことに気付き、感情に振り回されることがそれだけ少なくなる(第5部定理6)。それとともに、なんだ、感情なんてそういうものだったのだと理解され、感情は消え失せないまでも受動であることはやめる(同じく定理3)。受動フェイズから能動フェイズに移行しつつあるわけで、精神は自分の力に自信と喜びを感じる――第五章でわれわれが見たように。(p.168)

「神への愛」は愛し返しを求めない無償の愛であり(p.169)、物理的に安定している(p.170)。それは、「『必然』というものへの一種の愛、そしてそこからくる絶対的な安心」(p.144)である。
 とはいえ、以上はまだ第一種認識における話である。第三種認識(直観知)まで至ると、神への愛は「神への知的愛」へとレベルアップする。それは「神が自分自身を愛する無限の愛の一部分」(p.184)である。しかし、愛するような神とは人格神であり、ここではやはり擬人化が行われてしまっているのではないか? いや、そうではない。

 第四章で人間精神の説明を見たときに、こう注意したのを思い出してほしい。「スピノザの話についていくためには、何か精神のようなものがいて考えている、というイメージから脱却しなければならない。精神なんかなくても、ただ端的に、考えがある、観念がある、という雰囲気で臨まねばならない」。きっとここでも同じような注意が必要なのである。スピノザの話についていくためには、誰かが誰かを愛している、というイメージから脱却しなければならない。人格なんかなくても、ただ端的に、愛がある、知的愛がある、という雰囲気で臨まねばならない。「考える実体」を消去したように、「愛する実体」を消去し、愛だけを残すのである。(p.186)

 これが、非人間化の果てにある愛の姿である。
 人間を非人間化するとき、神が自分自身や人間を愛するような仕方で自分や他人を愛することができるようになる。
 しかし、ここでは、「神への知的愛」についてはこれ以上踏み込まない。


 以上のことを簡単にまとめると、理解=肯定=ゆるし=喜び=神への(知的)愛、となる。
 だから、自己の感情の認識=神への愛である(『エチカ』第5部定理15)。
 したがって、擬娘化や萌えに眉をひそめるのではなく、それらを必然的なものとして説明し理解することが自己利益にかなうことであり、喜びをもたらすことなのである。私が目指しているのもそれである。
「では、具体的にどうすればよいのか?」という方には『エチカ』の一読をお勧めします(デジャヴ?)。

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)