なんだ、結局「名前が気に食わん」ってだけか……

araig:net−目を曇らせないための「作家主義」
(リンク切れ)


作家主義」という言葉について抱いていたイメージが覆されました。
 僕は全然知らなかったのですが、映画批評における「作家主義」は、文学や演劇批評の延長で映画を批評することに対する批判から生まれたとのこと。
 しかし、だとすると、一つの疑問が生じます。それならば、なぜ「作家(auteur)」という文学や演劇を否応なく連想させる名称を用いたのでしょうか?


 ざっと調べたところでは、「作家主義」というのは、映画もまた、文学や演劇と同じく、「作家」の思想を体現した「作品」であり、それ自体で批評の対象となりうると考えた人々による、映画を文学や演劇と同等のものとして独立に扱うという宣言であり、だからこそ「作家」という文学や演劇を否応なく連想させる名称を用いたようです。
 そのようにして生まれた「作家主義」(および、「作者」を想定するすべての批評)の最大の問題点は、作品に単一の「起源」を想定することです。言い換えれば、映画作品を構成する全ての要素の意味は一義的に確定できると想定することです。もっと簡単に言えば、「作者は何を言いたいのか?」と問うことです。(内田樹『映画の構造分析』(晶文社、2003年)pp.39-46参照)
 そのことの何が問題なのかと言うと、映画作品を一つの意味に還元することで、作品の持つ豊かさを縮減してしまうことです。


 もちろん、そんなことは承知の上で、あくまで一つの作品の全責任を背負う虚構の存在「として」、「作家」という言葉を用いているのだから、そんな問題は生じないというのでしょう。
 しかし、この「として」には、最近の宮台真司氏が多用する「あえて」と同じ空気を感じてしまうのです。

嘘だと分ってやっているんだから、「作者の死」を持ち出して批判してもしょうがないわけです。

 分かっててやっているということを根拠に単純な批判を無効化する点では、「あえて」も「として」も同じです。それ故、「あえて」天皇制を擁護していると言われたときに感じる脱力感を、「として」という言い方にも感じてしまいます。それは、シニカルな人を啓蒙しようとしたときに感じる無力感に似ています。
 宮台氏による「あえてする天皇主義」とは非常に大雑把に言えば、天皇の正当性(正統性)をベタに信じてはいないが、人間が生きていくためには何らかの超越性が必要なので、超越性を担保するためにあえて天皇制にコミットするという立場です。宮台氏自身の言葉を借りれば、それは「真理の言葉」ではなく「機能の言葉」なのです。
 そして、「作家主義」もまた、「これは一つの作業仮説、つまりは嘘です」と言い切られていることからも分かるように、真理の言葉ではなく機能の言葉です。
 宮台氏:あえて日本のアイデンティティ天皇にあるものとして考える。
 バザン:あえて「一つの作品の全責任は監督にあるものとして考える」。


「作家=作品」とも言われているように、「作家主義」は、内容としては「作品主義」に非常に近い*1。だとしたら、なぜ「作家主義」という名称にこだわるのでしょうか?
 歴史的に「作家主義」という言葉がどのような状況や意図の下に作り出され、使用されてきたのかを説明し、この語に関する誤解を正そうという意図は分かります。それだけならそれは歴史的な事実(概念史)の問題ですから、別にいいのです。ですが、それを超えて、「作家主義」という言葉を保存し、作家主義を擁護し、作家主義者を自任せねばならない理由が僕には分からないのです。
 つまり、「作家主義」という名称はミスリーディングなので、例えば「監督主義」とか、あるいは、「フィルムメーカー*2主義」とかに名前を変えた方が誤解が少なくてよいだろうと、素人考えですが思ってしまうのです。
 別にそういう名前に変えてもよいが、ここで言う「作家」は虚構(「演出スタイルの総体としての作家」)にすぎないと知ってて「作家(主義)」という言葉を用いているのだから、別にわざわざ言い換える必要もないではないかという意見もありうるでしょう。しかし、僕がこのことにこだわるのは、ある懸念があるからなのです。
 先ほど僕は「作家主義」という言葉が「機能の言葉」であると指摘しました。だとすると、「機能の言葉は目的に奉仕する」わけですが、しかし、「作家主義」という名称を保存することは、その目的に奉仕しないのではないでしょうか?
 araignetさんが挙げている目的は二つにまとめられます。作品が出来上がるまでの諸事情や監督の人格といった作品にとって外的な要素を排除して、出来上がった作品だけを問題にする(「映画作品を構成する全ての要素を批評として扱う」)ことと「『作家性』という外部の基準」の導入です。これらの目的が、「作家主義」を擁護することによって、達成できるかどうかが問題なわけです。
 ですが、たとえ「作家」が虚構だとしても、そしてそのことを知っていたとしても、「作家主義」という言葉を用い続ける限り、ベタな「作家」という概念を解体することはできず、むしろ、それを保存・強化してしまうのではないでしょうか。そして、ベタな「作家」という概念を保存することが「作家主義」にとって有利に働くとは思えないのです。

さて、今や、『天皇ごっこ』の以上の箇所の検討から、われわれは、虚構に対していかにアイロニカルな距離を取っていたとしても、なおその虚構に内属してしまうのはつまり行為の水準ではその虚構に準拠してしまうのはなぜか、という問題に対する重要な鍵を得ることができる。人が虚構に準拠して行為するのは、その当人が、問題の虚構を(現実と)信じているからではない。そうではなくて、その虚構を現実として認知しているような他者の存在を想定することができるからなのである。当人自身は必ずしもその虚構を信じてはいない。信じているのは、私ではなく他者の方だ、というわけだ。ここに、意識において、アイロニカルな距離が張られる余地が生ずる。厳密に言えば、想定する他者は任意の他者、与えられた共同体の範囲における任意の他者でなくてはならない(ただし後に述べるが、この「任意の」ということの意味は、たいへん微妙である)。[中略]人々の行為を規定しているのは、何を信じているかではなくて、何を信じている他者を想定しているかである。自らは虚構を信じていなくても、その虚構を信じている他者を想定して行動してしまえば、虚構を信じている者と結果的には同じことをやってしまう。
大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書、1996年)p.224)

 大澤氏は、主にスローターダイク『シニカル理性批判』を参照しながら上のように見沢知廉天皇ごっこ』を分析するわけですが、同様に、当人がいくら「作家」という概念からアイロニカルな距離を取っているつもりであっても、「作家主義」という言葉を用いる限り、結果(効果)としてはベタな「作家」という概念の再生産に貢献しているだけではないのか? そして、「作家主義」に基づいた批評もまた、結果としては(監督=作家とベタに想定する)ベタな作家主義になってしまうのではないか? そこには「アイロニカルな没入」が発生してしまう恐れがあるのではないか?

 さて、北田君から、宮台氏が三島について論じていることを聞いて、僕はこんな印象を持ちました。僕はオウム事件があったときに、彼らの行為を「アイロニカルな没入」と呼んだ。こんなの戦略としてやっている、遊びとしてやっている、というふうに対象に対して距離を取る。僕らは、意識のレベルでアイロニカルに距離を取ればそこから自由になると思っていたけれど、そうではなくて、いかにアイロニーの意識を持って冷静な距離を取ったとしても、結局はその対象に没入するということがある。この難しい屈折にどうやって対抗するかを考えなくてはならない、というのが僕の問題意識でした。
 そうすると、いまの宮台氏の行動は、僕の印象からすると、アイロニカルな没入そのものに見える。ミイラ取りがミイラになった例に見えてしまう。
東浩紀編『波状言論S改』(青土社、2005年)p.297;大澤真幸氏の発言)


 araignetさんの議論は、「作家主義」という語の説明としては(僕は全然知らないので断言することはできませんが)正しいかもしれません。しかし、この語が「機能の言葉」である以上、その正しさは語義ではなく、効用においてプラグマティックに測定されねばなりません。だから、使用する都度、時代や文脈に照らして、その正しさ(効果)をチェックしなければなりません。しかるに、現代の日本で(日本語で)、不特定多数に向けて書く文章において「作家主義」という言葉を用いても、正しく機能しないのではないでしょうか?*3 すなわち、バザンが「作家(auteur)」という語に持たせようとした機能を、現代の我々に期待することはできないのではないでしょうか? 我々は、映画作品と監督の名前とをベタに結び付けることに慣れすぎてしまったが故に、「作家主義」という言葉を正しく使用できなくなってしまっているのではないでしょうか?


 それから、「『作家性』という外部の基準」の導入という目的についてですが、「作家性」という外部の基準がなくなり作品だけになると評価軸が「自分」しかなくなるという理路がよく分かりません。まだ「作品性」という外部の基準があるのではないですか?
 評価軸に「自分」以外のもの、すなわち「他者」を導入せねばならないという理屈はよく分かりますが、なぜそれが「作品」ではダメで、「作家」だとよいのでしょうか? 「作品」という評価軸だけだとそれは「自分」しかないのと変わりない、あるいは容易に「自分」に短絡するということでしょうか? だとすれば、その理由を説明して欲しいところです。
 また、作家=監督に限定せず、映画会社、プロデューサー、脚本家、演出家、音楽家、カメラマン等のスタッフ、役者、撮影技術、ロケ地、観客etc.、着目する要素(細部についての知識)が多ければ多いほど豊かな映画体験が可能であるということになりますまいか?
 だとすれば、「プロデューサーやスタッフとのごたごたといった諸事情」も知らぬより知っていた方が豊かな映画体験ができると言えるのではないでしょうか? すなわちそれもまた「外部の基準」であるのでは? 監督が「どういう思想を持っているか」も同様です。
 もしそうだとすれば、殊更「作家主義」だけを言挙げする必要はないということになります。


 さて、ここで突然、話はaraignetさんのエントリから離れ、私自身の思いつきへと移る。
 現代の日本において、批評にとっての最大の敵はストーリー主義(「脚本至上主義」)ではなく、キャラクター主義ではないだろうか。


 というのも、それは批評の死を意味するからである。というのも、キャラクターには深層(メタ)がないからである。だから、キャラクター主義には批評が存在しない。
「キャラクターには深層(メタ)がない」ということを換言すれば、キャラクターには内面がないということである。

「なんだ、それってキャラのことじゃん」と気づいたあなた。あなたは正しい。フィクションにおける魅力的なキャラクターは、内面と無意識を欠いている必要があるからだ。ただし、より正確には、キャラ(クター)というものは、実在する人格類型を換喩的に変換してつくられる。言い換えるなら、欠損と誇張を媒介として生み出されるのが「キャラ」なのだ。それゆえキャラには内面がない。かつて橋本治がいみじくも指摘した「アトムの内面はアトムの髪型」という原則は、すべてのキャラに適用できる。ゆえにキャラ小説の書き手は立てたいキャラの内面描写を禁欲する必要がある(西尾維新のように)。(斎藤環『文学の徴候』文藝春秋、p.64)

 例えば最近流行りの「ツンデレ」。昔からギャップに魅力を感じるという傾向性は広くあって、好みのタイプを聞かれて「ギャップのある人」と答える人も多い。そこで、物語の登場人物にギャップを与えることで魅力を持たせるという手法も昔から存在する。典型的なのは、不良が捨て猫を拾うといったシチュエーションであろう。「ツンデレ」は、そんなギャップを持った女性キャラクターをカテゴライズして、ジャーゴン化したものであると言えるだろう。だが、昔ながらのギャップのある登場人物とは違う点がある。それは、「デレ」が(ギャップと違って)人格の深みとして感取されない点である。
「べ、べつにあんたのことなんか好きでも何でもないんだからねっ」
 この一言で過不足なくツンデレが表現できてしまうということが、「デレ」が深層でないということを示している。「ツン」と「デレ」は同一平面上に、すなわち表層に並んでいるのである。
 一言で言えば、キャラ萌えに言葉は要らないのである。


「だからキャラクター主義はダメだ」と言うつもりはない。ただキャラクター主義は批評を殺すと主張しているだけである。だが、もしかしたら、メタが存在しないところでも批評は可能なのかもしれない(今のところ私には思いつかないが)。しかし、可能だとしても必要なのかどうかは分からないが。
 ともあれ、現代において批評を成立させようとする者は、何よりもキャラクター主義と対決し、乗り越える必要があるだろう。そのためには、過去に「作家」という概念が持っていたのと同じぐらいの強度と効果を、今日において持っている概念を「あえて」持ち出してこなければならないのだろうか? だとすれば、そこから出てくるのは何主義なのだろうか――と問うのはさすがに先走りしすぎであろう。

*1:「作品主義」についてもよく知りませんが、ここでは、参照先で「作品主義」と言われているもののことです。

*2:『映画の構造分析』pp.37-39参照

*3:無論、専門的な映画評論の場では今なお正しく機能するということはありえます。