『擬人化たん白書』:萌え擬人化に見る愛

擬人化たん白書

擬人化たん白書

 フルカラーで、値段のわりに、結構丁寧に作ってある。
 紹介されている「擬人化たん」たちはある程度知っていたが、知らなかったものも結構あった。帯には約200人と書いてあるが、それでもすべての「擬人化たん」を網羅しているわけではないということに、「萌え擬人化」文化の広がりを感じた。
「擬人化たん」の紹介や解説が主で、私が期待していた「萌え擬人化」そのものの分析はそれほど多くない。
 韓国、インド、アメリカの擬人化事情について述べられているのは参考になった。しかしそれだけに、もっと詳しく紹介して欲しかった。それから、ヨーロッパの擬人化事情についても報告して欲しかったところ。
 斎藤環氏も『ゲームラボ』の連載コラムからの特別出張編ということで寄稿している。だが、ほとんどは既にどこかで読んだことのある議論。今準備中という「キャラ原論」に期待。
 「無生物もの」の達人として紹介されている浦沢義雄氏のことは知らなかったが、彼が関わった作品については心当たりがあるものが多かった。


「擬人化たん」とは耳慣れない言葉だが、萌え擬人化されたキャラクターのことである。ググっても本書のタイトル以外ではヒットしなかったので、本書のために新たに作った造語なのだろうか? 萌え擬人化されたキャラは一般に、対象となった元のモノの名前の後ろに「たん」をつけた名称で呼ばれることから「擬人化たん」という呼称を編み出したのであろう。
萌え擬人化」とは「萌えキャラ化」のことであり、萌えキャラ以外のモノを萌えキャラに変換することであり、「擬娘化」とも呼ばれる。ちなみに、私は昔、「擬娘化」を「ぎこか」と読ませて、「萌え擬人化」に替わる言葉として流行らせようとしたが、全然流行らなかった。*1

ここで言う擬人化は単なる人間以外のモノを人間の姿にしてしまう行為のことではなくて、人間以外のモノをかわいい女の子の姿にしてしまう「萌え擬人化」に限定している。女の子に変換する擬人化は古くは1980年代以前から存在しているようなのだが、「萌え」という概念が広まった後に誕生したキャラクター達は、それ以前の女の子達と微妙に様相を異にしている(単に絵柄が古い新しいの違いかもしれないが)。というわけで、これから解説する「(萌え)擬人化」は、インターネット以降の同人キャラクターコンテンツの一形態だと考えてしまっていいと思われる。(p.8)

 擬人化そのものの歴史は人類の歴史と同じくらい古いが、狭い意味での「萌え擬人化」は、1990年代後半に登場した。最初は、パソコンやプログラミング言語などの擬人化が主だったようである。


 本書を読むに、擬人化には外面の擬人化と内面の擬人化があるように思う。
 前者は、最もプリミティブなのは、形態はほぼそのままに動物を2本足で立たせる「鳥獣戯画」のようなものであろう。より擬人化が進むと、人間と同じくらいスムーズに直立二足歩行するようになり、手先が器用になったり、様々な表情を浮かべるようになったりする。
 後者は、内面が存在しないもの(無機物や下等生物)や内面が存在しても人間と同じようなものであるとは考えにくいもの(哺乳類などの高等生物)の外見はそのままに、そこへ人間的な思考や感情を読み取る。必ずしも喋る必要はないが、人間の言葉を喋る場合もある。動物を主役とする実写映画やTV番組でのナレーションにはこのタイプの擬人化がよく見られる。
 ちなみに、アニメ映画『平成狸合戦ぽんぽこ』では両方の擬人化が見られる。
萌え擬人化」ではこの両者が共に行われている場合が多い。まず、対象となる物の特徴的なデザイン(形態と配色)を取り入れて女の子の姿に変換する(もちろん、絵自体としてのバランスが考慮されたり、絵師の好みが反映されたりするので、対象物が同じでも描く人によって擬人化されたキャラの姿は異なる)。ソフトウェアなど物質的実体を持たない物の場合は、名称や機能や性質から想起・連想されるイメージやトレードマークを外見の特徴に変換する。この段階に留まっている擬人化キャラも多いが、それから、対象物のスペックや性質や機能や用途や歴史を人間的な性格・特徴に読み替えて性格づけする。その際、対象物ではなく、描かれたキャラ絵からイメージを喚起される場合もある。さらにその一部はマンガ化されるなどして、その過程でより生き生きとした性格づけがなされることもある。*2アニメ化までされた「びんちょうタン」のケースを考えると分かりやすいだろう。


 さて、先に「擬人化そのものの歴史は人類の歴史と同じくらい古い」と言ったが、では、人はなぜ擬人化するのだろうか?*3
 本書全体を通じて、萌え擬人化が「愛の表現の一形態」として扱われているという点では一貫している。
 私はその見解をさらに押し進めて、「擬人化は愛の形式である」という仮説を提唱したい。
 言い換えれば、人は(他の動物ではなく)ヒトを愛するだけでなく、人として愛するということである。
 人間が真に愛することのできるのはヒトという種に属するものだけであるというだけでなく、人は人を人として愛することしかできない。人は人を人間的な性格(character)を持った人格(person)として愛することしかできない。
 すなわち、人間的な愛があるのではなくて、愛とは人間的なのである。
 したがって、人間以外の動物同士は比喩的にしか愛すると言えない。
 確かに、一般的な用法では、人間以外のものをも「愛する」と言うことがある。その場合でも、愛が深まると擬人化を避けることはできない。愛犬家が飼い犬をほとんど人間のように扱っている(喋りかけたり、喋りかけられたと考えたり、服を着せたりする)のは知っての通りだが、動物や人形やぬいぐるみの愛好家はもちろん、自動車や機関車といった無機物のマニアでさえも、熱中の対象物が存在することを「ある」ではなくて「いる」と表現するらしい。
 これは、人間以外のものを人間に引き付けるという意味で人間中心主義であると言えるかもしれない。しかし、これは人間が人間である限り避けることのできない人間の条件でもある。だから、人間は他の仕方で愛することはできない。
 例えば、子育てのことを考えていただきたい。生まれたばかりの赤ん坊は言葉を解することもなく、人間というよりは動物に近い。しかし、親などそれを育てる人たちは、赤ん坊がまるで言葉を理解するかのように、喋りかけて、人間扱いする。言葉を持たないので、厳密には人間的な感情を持っているかどうかは分からないはずなのにもかかわらず、泣き声(鳴き声)を「オムツを替えてほしいと訴えているんだな」などと解釈する。そして、「あらら、ミルクが欲しいのね」などと喋りかけて、分節化されていない赤ん坊の欲求に言葉を与えていく。そのように接されることで、赤ん坊は言葉を覚えていく。そして、言語の習得によって人間的な内面を獲得していき「主体」となる。
 それは人間でないもの(人間未満、人間以前のもの)を人間として扱うという意味で擬人化である。だが、そのように扱われることでしか、人間は人間にならない。ヒトは人間扱い(擬人化)されることで人間となる。例外はない。そして、例外はないということが、擬人化が愛の形式であることを証明している。
 たとえ親たちが人間であることがどんなに苦しく、不幸であると思っていても、自分の子どもを人間扱いすることを止めることはできない。それが愛するということであり、親が人間である以上、それ以外の愛し方など存在しないからである。それは、彼らは既にそのように扱われることで人間となってしまっているからである。ジャック・ラカンの言葉を借りるならば、「欲望とは他者の欲望である」からである。


 擬人化とは何か?
 擬人化とは一言で言えば物語化である。*4
 萌えキャラ化においても、外見が女の子の姿にされるだけでなく、同時に内面をも設定されることが多い。外見だけの変換の場合でも、より内面を想像しやすい形へ変換されたとは言える。萌えキャラは単なる絵(「絵画」)ではなく、そこに感情移入し、内面を読み込むための契機、入り口として機能するが故に萌えキャラなのである。萌えキャラは、特に物語を背負わされなくても、それ自体で物語の形象化なのである。強者(つわもの)は、熱愛の対象を萌えキャラ化することなしに、そのままでもそこに内面を読み込むことができるのであるが……(その一端は、浦沢義雄氏の「無生物もの」に見ることができる)。
 我々は、萌え擬人化キャラに物語を感じ取るが故に魅力を感じる。
 だから、擬人化の欲望とは、物語化の欲望の一種なのである。
 したがって、擬人化キャラを見て感じる悦びは、物語を読んだときに感じる悦びと同種のものである。*5


 この問題に関しては以上であるが、以下、少し脱線する。
 斎藤環氏は、「フェチ」との対比で、「萌え」は全体を嗜好すると分析している。

フェチは「部分」で、萌えは「全体」に対する嗜好。(p.53)

 萌えキャラ化は「キャラクターという全体性」を嗜好(志向)する。
 そして、愛もまた人格という全体性を嗜好(志向)する。
 ある人の特定の性質のみを欲する場合、それは真の愛とは言われえない。ある人の金持ちという性質だけを愛している人はその人を愛しているとは言えないように。*6
 言い換えれば、愛するとは、存在自体を欲することである。他の人の性質や所有物ではなく、その人自体を欲すること、それこそが人格を欲することであり、人格を単に手段としてだけでなく、目的としても扱うということである。
 カントは、『道徳形而上学の基礎づけ』において、「他のあらゆる人の人格の内なる人間性も、汝の人格の内なる人間性も、常に同時に目的として扱い、決して単なる手段としてのみ用いないように行為せよ」と述べたが、これは愛の原理(必要条件)でもある。
 擬人化(personification)は人格(person)を志向する。
 それ故、擬人化は物語を志向する。
 なぜなら、物語は全体性を補完する機能を持つからである。分かりやすい例は神話である。神話は、自然(現象)やその原因を擬人化することで、宇宙全体の成り立ちや自然現象を説明する。それは虚構ではあるが、それによって古代人は世界の全体性を獲得していた。そして、現代では主に科学がその役割を果たしている。
 すなわち、物語は認識の欠如(未知、無知、不可知)を補填する。他者の内面(他我)も認識不可能であるが故に、物語化・擬人化される。そう、我々は人間以外の生物や無機物だけでなく、人間をもまた擬人化しているのである。それは他人だけでなく、自分自身も例外ではない。なぜなら、「私とは一人の他者である」(ランボー)のだから。
 だから、逆に言えば、人間をありのままに理解するためには物語は邪魔ということになる。言い換えれば、人間を正しく理解するためには人間の擬人化は慎むべしということになる。さらに言えば、愛は理解の邪魔なのである。「恋は盲目」と俗に言われるように。


 ちょっと脱線しすぎたようなので、これで終わります。「では、具体的にどうすればよいのか?」を知りたいという方には『スピノザの世界』の一読をお勧めします(宣伝)。

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

スピノザの世界―神あるいは自然 (講談社現代新書)

*1:正確には、知人が流行らせようとしたのだが。参照:plus in quotes−擬娘(ギコ)化(2004-04-22)

*2:伊藤剛氏(『テヅカ・イズ・デッド』)による「キャラ/キャラクター」という区別に当てはめるならば、前者の段階に留まっているのが「キャラ」、後者の段階まで進んだものが「キャラクター」となるだろう。だが、このエントリでは両者を区別して使用してはいない。

*3:ここでの「擬人化」は第一に「萌え擬人化」を念頭に置いている。

*4:ということは、斎藤氏が紹介している「擬人化の擬人化」すなわち「メタ擬人化」はSSなどの二次創作に当たる。

*5:もちろん、擬人化キャラの絵自体から感じる悦びというものもあるが、それは“擬人化”キャラではなくキャラ絵から感じる悦びであり、それが何かの擬人化であることや何の擬人化であるかということとは無関係に感じる悦びであり、それが擬人化キャラであることを全然知らなくても感じることのできる悦びである。すなわち、擬人化キャラに限らず、あらゆるキャラから感じることのできる悦びであるので、現在の主題からは外れる。

*6:これは確定記述と固有名の問題にも繋がっていくが、それについては今回はパス。