平坦な戦場でおたくが生き延びること

 araignetさんが、岡田斗司夫氏の「オタク・イズ・デッド」を前振りにして、オタク第一・第二世代と第三世代との断絶の原因を考察している。
araig:net−オタクが死んだのは記憶術の問題かもしれない
(リンク切れ)


 araignetさんは、オタク第一・第二世代と第三世代との断絶の理由を求めて、次の答えを得る。

で、その理由は「記憶術」にあるんじゃないかと。

 araignetさんは、東浩紀氏以上に工学的、技術決定論的なものとして、この理由を提出している。
 だが、両者はそれほど違ってはいないように思える。どういうことか?


 araignetさんは、蓮實重彦氏の「映画的記憶」という概念を参照する。
 それは、映画を映画館でしか見ることのできず、ビデオで見返すことのできない時代に編み出された「記憶術」であり、「身体的な記憶と頭の中の体系」である。
 これは、言い換えれば、記憶に際しては体系化が有効であるということである。無秩序な情報より体系化された情報の方が覚えやすい。年号や円周率を語呂合わせで覚えるのも、このことを利用している。そして、体系化された情報とは広い意味での「物語」である。
 さらに、「映画的記憶」が再現する「元々の作品にあった空気」「引用元の作品の雰囲気」とはコンテクストでなくして何であろう?
 すなわち、「映画的記憶」とはコンテクストであり、「大きな物語」である。
 すると、それに対置される「好きな映画のリスト」とはデータベース、もしくはデータベースのインデックスであろう。
 ほら、東氏の理論と重なった。


 このエントリで、araignetさんは、第一・第二世代的に第三世代を見る見方に対して、第三世代的に第一・第二世代を見る見方を対置している。
 だが同時に、第一・第二世代的な価値基準で第三世代を評価してもいる。そのことは、タランティーノの評価に顕著である。
 もちろん、結論部における第三世代の「自由」の評価に最もそのことが表れている。「自由」に関してaraignetさんの言うことは、年齢的には第二世代である僕には分かりやすいが、だが一方で、蓮實氏の世代にも「自由」はあったということは指摘しておかねばならないだろう。それは記憶する自由である。
 蓮實氏を代表とする昔の映画マニアだって、あらゆる映画を等しく記憶しているわけではない。彼らも何を記憶し何を記憶しないか、そしてどのように記憶するかに関して主体的に(無意識的にも)取捨選択を行っている(その意味では記憶は常に既に評価を含んでいる)。
 だが、そもそもなぜ「記憶する必要」があるのだろうか? 「その記憶をできるだけ長く留める」必要があるのだろうか?
 映画評論家になると最初から決めているのでもない限り、「映画的記憶」など生きていく上、生活していく上では「必要」ない。にもかかわらず、記憶に足る作品を記憶するため(所有するため)、記憶していることを他人に話す(誇る)ために記憶するのが映画マニアであろう。すなわち、必要(必然)がないにもかかわらず記憶したのが彼らの起源なのであって逆ではない。そして、「必要がないにもかかわらず」記憶するという点に彼らの自由がある。
 そして、それはオタクも同じである。いや、サブカルチャーである(あるいは、サブカルチャーですらない)アニメ等は、ハイカルチャーである映画に比べて、より記憶する「必要」がない。それどころか、ある程度の年齢を超えてアニメ等を見ていることは有害視されたり、「キモオタ」視されたりすることさえある。にもかかわらずアニメ等を見続ける、そのことにオタクの根源的自由はあるのであって、好きなアニメを見るといった自由はその後に来るものである。
 もちろん、araignetさんの言う「必要」とは、映画やアニメなどを対象とする欲望を充足するために必要という意味であって、別に生きるために必要という意味ではない。目的−手段関係(映画−記憶−体系)における必要性にすぎない。――のだが、「自由」との関係でミスリーディングだと思ったので(批判ではなく補足として)指摘しておいた。それに、私は、体系は記憶術に還元し尽くされないものであり、映画(の享楽)は記憶に還元し尽くされないものであると考えているので、「必要」という言葉をそれほど強い意味(「必然」と言い換えられるような意味)で取りたくない(「メリット」というほどの意味で取りたい)という意図もある。もう少し分かりやすく言えば、映画だけでなく、記憶や体系そのものに対する(「必要」ではなく)欲望もあるだろうと思うのである。


 さて、araignetさんはまるでオタクの世代間断絶の根源的理由が「記憶術」であるかのように書いているが、騙されてはいけない。さらに根源的な理由をaraignetさんは考えている。それは、物質的な制限である。

彼らはどの作品を選ぶかという自由がとことん貧しかった

 昔は、映画は映画館でしか見られなかっただけでなく、上映される作品数が圧倒的に少なかった。それ故、昔の映画マニアは、全ての映画を(少なくとも、全ての主要な映画を)見ていると自任することができた。そして、体系が体系であるための必要条件の一つに網羅性がある。取りこぼしが大量にあるようでは体系とは言えない。
 しかし、今は昔と比べ物にならないほど多くの映画作品が上映されている。アーカイブ化された過去の作品も含めれば、作品数は等比級数的に増えていっている。だから、現代においては誰も「全ての作品を見た」と自任することはできない。である以上、現代では、誰も自らの「映画的記憶」が体系的であると主張することはできない。「かつてはすべての映画を見ていた」という自負を持つ者が、その映画的記憶の記憶(事実ではないという意味で仮に記憶と呼ぶ)をもって、現代の映画ファンを軽蔑することができるくらいである。
 現代ではせいぜい「見るべき作品はすべて見ている」とまでしか言えない。しかし、「見るべき作品」を決定する審級、すなわち「大きな物語」の審級がなくなったのが現代である以上、「見るべき作品」もまた個人的な意見の域を出ない。だから、現代の映画ファンやオタクは、自分の見る作品を決定するに当たって、個人的な感性(および、個人的な感性を通じて繋がった人たちの意見)を優先させるしかない。
 そして、週に数十本のアニメが定期的にオンエアされている(不定期なものやCS等で放映されるものを含めればもっと増える)現状において、少しでも真面目にエアチェックしようとする現代のアニメオタクはまず、何を切り捨てるかを選択せねばならない。お金さえ惜しまなければ機械的には全ての番組を(放映時間帯が重なる番組を含めて)録画することはできるが、現実的には録画したものをすべて見ることは不可能である。そこで、現代のアニメオタクは、早い段階で見切りをつける必要がある。最初の数話どころか、放映前に既に見ないアニメを決定するなどということはもはや現代のアニメオタクの習慣ですらある。そんな状況において、「面白い/面白くない」はまず切り捨てる理由、見ないで済ます基準として要請される。「萌え」という感性的評価もそのような基準の一種である。それは何よりも「萌えない」アニメやキャラを切り捨てるための基準として働いている(もちろん、それだけに尽きるものではないが)。
 それは単によく言われる粗製濫造の問題ではない。昔もダメアニメはあった。割合にしたら現代と変わらないか、ひょっとしたら現代より多いぐらいだったろう。しかし、昔のアニメファンはアニメに飢えていたので、どんなに面白くないアニメでも何とかして面白がろうとした。そこから、ダメさを面白がるという斜に構えた受容・評価の仕方が生まれた。第一・第二世代のオタクのシニカルな態度はそのような努力の中で育成された面もあるだろう。
 それに対して、現代のオタクは「否定」によって繋がる。それは「無視」「拒絶」「否認」などと言い換えてもよい態度である。ダメな作品(と思うもの)のよい点や面白がれる点を見出そうとせず、ひたすらけなす。愛するものではなく、憎むものによって連帯する。「全体」を志向せず、狭い世界に閉じこもり、「タコツボ化」する。
 そうして「オタク」は死んだ。「オタク」と呼んでひとくくりにできるような単一の集団、各メンバーがそれぞれそこへの帰属意識を持っているような集団はなくなった。各人が各人の仕方でオタクコンテンツを消費(あるいは生産)しているだけである。言い換えれば、オタクの同族意識、「共通概念」、共通言語がなくなった。トライブとしてのオタクは死んだ。「オタク・イズ・デッド」とはそういう意味で理解されるべき言葉であるだろう。


 では、アニメ界のこのような現状に対して、第一・第二世代オタクはどのように対処しているのだろうか? 彼らは大抵、第一線からは退いている。「最近のアニメはほとんど(全然)見ていないのだが」が彼らの合言葉である。彼らは、過去に形成された映画的記憶(アニメ的記憶?)でもって現代を生きている。「今のアニメはつまらない」「萌えは分からん」などとぼやきながら。これも、第三世代オタクと形は違うが、切り捨ての一種である。そうすることで、処理せねばならない情報量を調節しているのである。その点では第一・第二世代も第三世代も変わりはない。
 それに対して、総司令部からの指令もなく、情報の銃弾が雨あられと降り注ぐ第一線で戦おうとする者は、身体をできるだけ小さくちぢこまらせ、他の部隊を気に掛けず、共に死線を潜り抜けて気心の知れた自分の部隊だけで固まって一点突破を図るしかないではないか。そのこと自体を誰が非難できるだろうか?


 まとめに入る。
 即物的に言うと、オタクの世代間断絶の理由は、モノが豊富になったからである。ここでいう「モノ」とは情報などの形のないものを含む広い意味で用いており、「モノが豊富」とは、単純に作品(および、その派生物)の量が多いということと、それらへのアクセスが容易であるということとの二つの意味がある。
 モノが増えすぎて、アニメという特定ジャンルに限っても、全てを視界に収める(と自任する)ことができなくなった。俯瞰しようとしても、個々のモノが判別できないほど高く上昇しなければ、全てを視界に収めることはできない。個々のモノをよく見ようと接近すると、視界からはみ出すものが必ず出てくる。空虚な総論か、対象の非常に限定された各論しか語りえない。現代では、アニメに関する言説は原理的に、空虚な総論を避けようとするならば、恣意的に一部のアニメのみを切り取った「好きなアニメのリスト」にならざるを得ない。なぜなら、恣意性を避けるために準拠すべき基準そのものが多様であり(「大きな物語」の消失と、「小さな物語」の乱立)、それらの中から一つを選ぶ基準は結局恣意的なものにならざるを得ないからである。
 モノが不足していた昔は「オタク的教養」に意味があった。実際的なメリットがあった。面白い作品を見逃さないために、面白くない作品をも面白く見るために、面白い作品はより面白く見るために。だが、モノが溢れている現代では、「オタク的教養」にそれほどメリットはない。そんなものを苦労して身につけなくても、面白くなければ、すぐにそれを見切って、他へ目を向ければよいだけのことである。昔は他へ目を向けようとしてもコンテンツの量が圧倒的に貧弱だったため、それができなかったのだが。
 自らの価値体系との照らし合わせも作品数が少なければこそ可能なことである。これほど作品がどんどん増えていっている現状においては、じっくり照らし合わせるための時間を取ることができない。現代において現役のオタクであるためには、判断のスピード(即応性)が要求される。一瞬で見る/見ないを判断できなければ、現代のアニメシーンをチェックすることはできない(そして、「『分からなさ』の質の移動」が生まれる)。アニメ全体へ目を配ることをせず、一つの作品にこだわり続けるならば、そのような人はマニアではあるが、オタクではない。
 昔の人は貧しいが故に豊かであったが、今の人は豊かであるが故に貧しい。
 と、毒にも薬にもならない一般論でお茶を濁して終わってもよいのだが、最後にオタクと世代論の関係について考察しておこう。


 コンテンツが全く無くてもオタクは生まれない。ある程度の経済的余裕があって、中途半端にコンテンツが存在する状況があって初めて集団としてのオタクは生まれた(だから、第一世代オタクには金持ちのボンボンが多い)。「中途半端にコンテンツが存在する状況」とは、欲望を喚起するコンテンツがあり、なおかつ、その欲望を充足するのに十分なほどのコンテンツはない状態のことである。
 日本の戦後の経済成長における過渡的状態がオタクを生んだ。そして、モノが豊かになるにつれて、オタクも変化していった。その意味ではオタクは「時代の子」である。もちろん、それはいかなる文化的集団に関しても言えることである。いかなる集団も時代と無関係に成立するものではないのだから。しかし、オタクとは第一に消費者であるが故に物質(商品)に依存(アディクト)しているために経済状態の影響を受けやすく、さらにまた物質の情報に敏感であるので、物質的状況を色濃く反映する(オタクは、「炭坑のカナリア」であると言ってもよいかもしれない)。その点で、オタクの変化を、時代の変化を示す指標として用いることも可能であり、東氏もオタク系文化の構造にポストモダンの本質がきわめてよく現れているが故に、オタクに注目して「オタクから見た日本社会」という副題を持つ『動物化するポストモダン』という書を著したと述べている。
 すなわち、「オタク」はその起源のみならず存在そのものが過渡的な存在であり、それ故、物質的状況に応じて変化し続ける存在である。ネットの登場によるオタクの変質もまたその延長線上にある。一言で言えば、コンテンツの貧困がオタクを生み、コンテンツの氾濫がオタクを殺す。言い換えれば、オタクが(岡田氏が言うような意味での)「オタク」であるためには何らかの格差(経済格差や情報格差)が必要なのである。
 そういうわけで、オタクを語る言説には世代論がつきものとなる。それは実際には世代による変化ではなく、各人がそのオタク最盛期(多くは思春期)に置かれていた物質的状況の違いによる。ただ、日本はこれまで比較的均質な社会だったので、その変化全体の大雑把な傾向性が(階級などでなく)世代と重なるのと、世代で分けると分かりやすいということで、オタク論は世代論との馴染みが良いのであろう。
 かくして、オタクについて語ろうとする者はほとんど例外なく、オタクの世代間格差についても語ることになる。それが必ずしも悪いというわけではないが、そうでない語り方がもっとあってもよいのではないだろうか?