『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは、傷つきながら夢を見る』

・公式サイト
http://www.2011-akb48.jp/index.html

*ネタバレを気にするような映画ではないと思うのだが、一応ネタバレ注意。

 客席は3分の1くらい埋まっていた。公開開始から結構時間が経っている平日夜の上映にしては多いと思った。
 タマフルで絶賛されているのを聞かなければ、観に行くことはなかっただろう映画だが、観賞することで、思いの外、色々なことを考えさせられた。
 僕はAKB48について通り一遍のことしか知らず、ライブや総選挙やPVをまともに観たことはない。にもかかわらず、楽しめた。
 僕の記憶では、結成当初は、(主に秋元康氏による)仕掛けが見えすぎて、アキバ文化、オタク文化への“媚び”だと非難されていた。その頃は、小さな小屋で毎日ライブを行っていたが、あんなのを観に行くのは、アキバについて誤ったイメージを抱いた“にわか”や観光客だけであって、ディープなオタクには冷笑されている。実際、そんなに客も入っていないらしいぞ。ってな評判だった記憶があるのだが、それがいつの間にか、押しも押されぬ日本のトップアイドルになっていた。本当に目を離した隙に「いつの間にか」といった感じで、「どうしてこうなった」と思わざるを得ない。
 本作を見ても、そういった疑問が解消されることはないが、トップを走っているアイドルグループだからこその濃厚な人間ドラマがあり、メンバー同士の関係性や、メンバーそれぞれの苦しみや葛藤、使命感や責任感、そこから生じる輝き等が見られる。それらがすべて人工的・人為的な仕掛けによるもの、ということこそが、作られたイメージなのではないか。鉄砲を数撃って偶然得られた成果を、「最初からそうなるよう仕組んでいました」というフリをするのがプロデュースというものなのではないか。つまり、どれほど人工的な土壌から生まれたとしても、そこで咲き誇る彼女たちの輝き(生命力)そのものは本物なのだ。本作を観賞した後では、そのようにも思う。

 一言で言うと、本作は、東日本大震災から始まり、紅白歌合戦出場で終わる2011年のAKB48の記録(ドキュメント)である。それは徹底していて、それ以前の歴史にはほとんど触れもしない。二作目だからかどうかは一作目のドキュメンタリーは観ていないので分からないが、AKB48の存在や成り立ちについては知っていることを前提にした映画である。
 構成は、ほぼ時系列に沿って、コンサート、総選挙、被災地支援などのステージとその舞台裏の様子が映し出され(比重としては舞台裏の方が多い)、その合間にメンバー個人のインタビューが挟まれるという、比較的オーソドックスなもの。
 縦糸は「AKB48から見た東日本大震災」、横糸は「少女残酷物語」。
 メンバーの中で唯一の被災者である岩田華怜氏が真っ先に登場するのはあざといと思った。数多い下位メンバーたちのほとんどに一度もスポットライトが当たらない中で、上位メンバーでもない彼女がフィーチャーされたのは、被災者であるという一点のみによるのだろうから。だが、2011年の記録である限り、大震災を避けては通れないのも確かであろう。というのも、アイドルというのは時代と共に、時代に支えられて成立するものであり、トップであればあるほどその程度は大きくなるものだからである。アイドルは時代を象徴し、その時代の空気を表す(逆に言えば、アイドルには普遍性がない)。だから、同時代の出来事を抜きにアイドルを描くことはできないであろう。
 そんなこともあって、日本武道館での第3回総選挙のシーンが始まるまでの冒頭部分は、どういう気持ちで観ればよいのか定まらず、居心地が悪かった。インタビューの応答なども、優等生的というか、演技っぽいというか、わざとらしい感じがして、素直に受け取れなかった。その違和感は徐々に薄れていったが、そもそも観客の我々が見る映像はすべて、(隠し撮りではなく)カメラがあることを被写体であるメンバーたちが意識している状態での立ち振舞なので、その疑念がゼロになることは最後までなかったのだが。
 一方で、そこには全てが演技に過ぎないと言って済ますことのできないリアリティがあったので、全て演技だと断じるのはさすがに行き過ぎだろう(ずーっと撮られていれば、それに慣れて撮られていることをあまり意識しなくなるということはあり得るだろうし、何かに熱中していれば撮られていることを忘れる瞬間というのは当然あるだろう)。しかし同時に、全てが素の言動だと信じるのも無邪気すぎるだろう。本作について考える際には、全てがカメラの前での出来事だということは忘れてはならない。

 メンバーたちは思っていたより「大人」だった。アイドルになろうと思う女の子なんて、「自分は可愛い」「自分はアイドルになるべき存在である」といった自己肯定感に溢れた人たちだという先入観があったのだが、結構否定的であったり、自虐的であったりする*1。現代においてはアイドル(予備軍)といえども無邪気なままではいられず、多かれ少なかれメタ視点をビルドインされているのだなと思った。
 もちろん、しっかりとした応答のみを切り取ったと考えることもできるだろう。しかし、昔のアイドルならば、しっかりとした応答は不要とされ、無邪気な言動、ちょっとボケた言動がクローズアップされたことであろう。ということは、少なくともアイドル側も製作者側もそれがアイドルの態度として自然なものだと考えているということだ。

 ところで以前から僕は、AKB48の中で前田敦子氏が人気トップである理由が分からなかった。飛び抜けて美人だとも、突出した歌唱力・パフォーマンス力があるとも思えないからだ。だが、それは僕だけの疑問ではなく、タマフルの放課後ポッドキャストによると、AKB48ファンにも前田敦子がセンターであり続けている理由は分からないらしい*2
 前田氏を改めてスクリーンで動いているのを観ると、思っていたよりキツメで色黒でちょっと男っぽい。それがピークに達するのは、西武ドームライブで過呼吸で倒れた後、セーラー服姿で戻ってくるときの険しい表情や歩き方、無言で円陣に加わる様子である。それから、単独インタビューのシーンでのあの黒一色のシンプルな服は何? 他のメンバーたちの服装と比べて異質すぎるだろう。で、今回思ったのは、彼女の中で一番特徴的なのは目だということである。とにかく、目力が凄い。
 そもそもトップに立つような人、特に女性には、弱さを孕んだ強さ、強さの内に垣間見える弱さがある。脆さと言い換えてもよい。それは、身体的なものだったり、家族関係だったり、運だったりする。例えば、美空ひばり氏、山口百恵氏、松田聖子氏、中森明菜氏、浜崎あゆみ氏、安室奈美恵氏……。それは生まれ持ったものだったり、トップアイドルという立場が強いてくるものであったりする。いずれにせよ、大抵のトップアイドルには、孤独と不幸の影が付いて回る。そこにこそ大衆は惹かれるのかもしれない。
 AKB48のメンバーたちが思ったよりも「大人」だったのは、悲劇が人を大人にするということなのかもしれない。
 そして、本作ではその悲劇性にこそ焦点を当てている。そのことは本作のタイトル「少女たちは、傷つきながら夢を見る」にも、終盤に映し出される「奇跡の一本松」にも表れている。津波のせいで周囲のすべての松がなぎ倒され、ただ一本だけ残った松、更地になって荒野のようになった沿岸にただ一本だけ天へ向かって立っている細い松の木、それは悲劇であると同時に希望でもある。その姿は、アイドルとは悲劇の中の希望であると言わんばかりである(それを是とするか非とするかは別の問題として)。

 アイドルには2種類ある。一つは裏付けのあるアイドル、もう一つは裏付けのないアイドル。売れている理由が比較的客観的に分かるアイドルと、なぜ売れているのかファンでない人たちには分かりにくいアイドル。前者は容姿が良かったり、歌やダンスの技術力が高かったりするアイドルである。後者はもしかしたら日本特有かもしれないアイドルである(外国には全く存在しないとまでは言わないが、日本で独自の発展を遂げたアイドルの有り様であることは確かだ)。
 例えば、抽象化および簡略化して言うと、最初から200の力を持つ人がもてはやされるのが日本以外のアイドル。それよりも、100の力しか持たない人が150の力、実力以上の力を発揮することに魅力を見出すのが日本的アイドル。客観的にはそれでも後者は前者より劣っているわけだが、その伸び代にこそ熱狂するのが日本的アイドルファンである(もちろん、そういう人ばかりではないが)。
 だとすれば、日本のアイドル業界とは本質的に、アイドルにオーバースペックを強いるものであるということになる。それでなくても風当たりの強いアイドルに多大なストレスやプレッシャーを与えることで、本人や周囲の人たちが思ってもみなかった力(美)を発揮させる。そういう意味で、アイドルを生み出す日本的システムは残酷である。そして、そのシステムにそのファンたちもまた加担している、というのが、舞台裏で気息奄々のメンバーたちの映像に、満場のファンたちのアンコールの大音声をかぶせる監督の意図するところなのであろう。
 さらに話を広げるなら、彼女らのゴシップを追い求めるマスコミも、彼女らをバッシングする声も、彼女らをアイドルたらしめるのに一役買っているということになる。
 もちろん、だからといって、その対象となる本人たちはたまったものではないだろうが。これはアイドルというものを成立させている構造についての話であって、アイドル本人がそれを望んでいるかどうかとは無関係である。
 したがって、それに耐え切れず、病んだり、芸能界を去ったりしたアイドルも少なくない。逆に、批判に対して真っ向から反論しようとすると、アイドルらしくないとまた批判される。だから、反論するにしても、アイドルのイメージを崩すことのない、アイドルらしい反論の仕方が必要とされる。その例は本作の中でも見られる。
 では、そもそもなぜ人々はアイドルについてあれやこれや言いたがるのであろうか。それは、肯定であれ否定であれ、彼女ら/彼らについて語るだけで世の中について語っているような気になれるのがアイドルという存在だからである。言い換えれば、アイドルは人々の語りの欲望を駆動する。本作そのものがそういった欲望を駆動する映画として、すなわちアイドル映画として、よくできている。僕自身も何事かを語りたくなり、その結果、久しぶりに記事を書くことができた。そして、アイドルがそういう存在なのだとすれば、アイドルとは愛される存在というよりは語られる存在であると定義した方が正確かもしれない。
 このようなアイドルを生み出すシステムは、自然の物に様々な手を加えることで、自然と同等の、あるいは自然以上の美を、小さなスケールの内に作り出すという意味では、それは盆栽の考え方に似ている。
「日本のアイドルは海外のアーティストに比べて歌もダンスも下手」などと批判することは、盆栽が自然の大木より小さいからダメだと批判するようなものである。
 誤解を恐れずに言えば、(日本的)アイドルの美しさとは奇形の美しさである。

 その他雑感。
 エンドロールで、AKB48およびその姉妹グループのメンバー全員の名前がクレジットされているのだが、一度も出てこないメンバーもたくさんいるのに欺瞞というか、普通の意味でのキャストではないよねというか。AKB48の12.5期生として江口愛実の名前がクレジットされていたのには笑った。
 そのエンドロールを見て初めて気付いたのだが、ナレーションは能登麻美子氏だったのね。どうりで聞き覚えがある声だと思った。しかし、AKB48とは全然関係なさそうなのに、なぜ?
 今春放送予定のAKB48をモチーフにしたテレビアニメ『AKB0048』に声優として出演するわけでもないようだし。製作者の中にファンでもいたのかな?
 と思っていたら、数日後、出演するとの発表があった。どちらのキャスティングが先だったのかは分からないが、これで繋がった。

・<AKB48>初アニメ「AKB0048」キャスト追加発表 こじはるは能登麻美子 全国12局で4月放送開始 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw207737

 西武ドームライブの2日目。過呼吸で倒れて戻ってきた後、壁に向かってあり得ないほど近づいて練習していた「Flower」を、ステージでソロで歌う前田敦子氏を、舞台袖の階段に腰掛けて見守る高橋みなみ氏の表情がよい。本当に「見守る」という感じの温かくて優しい表情で。

*1:本作内にも登場する、有名な「私のことは嫌いでもAKBのことは嫌いにならないでください」という前田敦子氏の発言とか。しっかし、総選挙で1位に選ばれた席上で、ファンたちの前で言うことじゃないだろう、これw。

*2:それは1ファンの考えに過ぎず、ファン全員がそう思っているとは限らないが、妙に納得の行く答えでもある。

いっそのこと「うるうる年」でいいのではないか?

 俗に「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」などと申しますが、今年も早くももう3月。今年はうるう年なので2月は1日多い29日まであったが過ぎ去ってみれば早いものは早い。
 ところで、うるう年の「うるう」とは何か?
 うるう年は漢字だと「閏年」(じゅんねん)と書くが、「閏」を「潤」(うるおう)と混同して、うるう年と呼ばれるようになったのだとか。
 ちなみに、英語だとうるう年は“leap year”だが、何が“leap”(跳躍)するのか?
 諸説あるが、一説には、曜日が1個跳ぶというのが語源らしい。

・Why-do-they-call-it-a-Leap-Year
http://park1.wakwak.com/~english/note/note-leap-year.html

ポスト・バレンタインデー

 昨日はバレンタインデーだった。
 比較的歴史が浅くて起源がはっきりしている行事であるにもかかわらず、すっかり日本の風物詩になっている。
 チョコレート業界のあからさまな広告販売戦略だと誰もが知っているのに、なぜこれほどバレンタインデーが広まったのかを考えると興味深い。今非難轟々の「ステマ」どころじゃないだろうに。
 バレンタインデー(St. Valentine's day)そのものは外国が起源である。だが、(女性が意中の男性に)チョコレートを贈るというのは日本独自の風習であり、日本型のバレンタインデーの成立に関しては、チョコレート業界の広告販売戦略があったのは確かであろう。具体的にどの会社のキャンペーンが起源となったのかについては諸説あるようだが。
 もちろん、日本型のバレンタインデーが浸透するに当たっては、チョコレートという商品の特性も大きく寄与しただろう。嫌いだという人があまりいない。かさばらない。安っぽくないが、値段はピンからキリまで幅広く揃っている。ある程度保存が効く(冬は特に)。少し手を加えることで手作り風にできる。といった特性は、プレゼントとして贈るのに適している。
 だがこれはあくまで贈り物にチョコがよい理由であって、バレンタインデーに贈り物をせねばならない理由ではない。では、曲がりなりにも日本でバレンタインデーが根付いた理由は何か?
 思うに、それは感情(表現)に形式を与えたからである。
「誰かに何かをあげたい」「この想いをあの人に伝えたい」といった感情を抱くことは誰にでもありうる。しかし、その感情をどう具体的な形にすればよいのかに関しては、しばしば迷いが生まれる。
「でも、誰に?」「でも、何を?」「でも、どうやって?」「でも、いつ?」
 そういった悩みに答え=形式を与えてくれるのがバレンタインデーである。
 不定形の感情に出口を与えるためには、ただ「2月14日に想いを寄せる異性にチョコレートを渡す」という形式に乗っかるだけで良い。近年は、想いを寄せる異性に限らない。お世話になった人とか同性の友達などでも構わない。そんな相手に対して、改めて理由等を用意しなくても、2月14日にチョコレートをあげるだけで相手の方も察してくれ、受け入れてくれる。そんな機会をバレンタインデーは与えてくれる。
 つまり、単にチョコレートを売りたいというチョコレート業界の思惑があっただけだとしたら、これほどまでにバレンタインデーという風習が日本で広まることはなかっただろう。消費者にとっても渡りに船だったからこそ広まったのだと思う。
 同様に感情に形式を与えるが故に人口に膾炙しているものを挙げると、例えば、「ヤバイ」「萌え」といった一部の流行語がある。
 それから、俳句も。
 5・7・5と季語という縛りは、かなりきついように思えるが、縛りがきついからこそ、作りやすい。自己表現しやすい。だから、俳句は廃れない。
 かくして結論。バレンタインデーにチョコを渡すことは、俳句を詠むことに似ている。
 無論、義理チョコが典型だが、形式主義に陥る危険性は常に孕んでいるのだが。

年明けうどん考

 新年の特別感の人為的創造の近年の試みの一つとして「年明けうどん」を見ることも可能だろう。

年明けうどん - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E6%98%8E%E3%81%91%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93

「うどんは他の麺と比べ太くて長いことから、古来より長寿を祈る縁起物として食べられてきた慣習に倣い」とあるが、「細く長く」の年越しそばの精神に真っ向から対抗している。
 大晦日に年越しそばを食べ、年始に年明けうどんを食べる人は、細い人生と太い人生、どちらを望んでいるのだろうか?
 しかも、うどんには切れやすいという特徴もあるのだが、それは縁起が悪くはないのだろうか?
 年越しそばと整合性を取るためには、おせちラーメンなんてどうだろう。縁起が良いとされるおせち料理のいくつかをトッピングしてめでたさをアピールとか。
 年明けうどんの味方をするなら、年明けうどんの根拠薄弱さを補うためにトッピングを工夫するというのはどうだろう。
 例えば、生姜を乗せる。賀正と掛けて。
 それから、最後に生玉子を入れる。お年玉と掛けて、落し玉子っちゅうことやね。
 さもなくば、鮭を入れる。なぜ鮭か? うどんとシャケ→うどん年明け。
 災難を「避け」るという意味も込めて(後付け)。

始まりの挨拶

 1年が365日(+閏年)であることには公転周期という必然性があるが、年の始まりが今の時期であることにはそれほど必然性はない。公転運動に特異点はなく、年の変わり目だろうが延々と円運動を続けているだけである。実際、旧暦では年の始まり(旧正月)は少しずれる。単に世界中のほとんどの国でグレゴリウス暦を採用しているから、1年の始まりがこの時期になっているだけである。
 だから例えば、1年の始まりが夏であったって良いはずである。にもかかわらず、旧暦(太陰暦)も含めて、年の始まりが冬であるのは、植物のサイクルや農閑期といった要因によるのだろう。すなわち、象徴的な意味合いと、実際的な意味合いの両方によるのだろう。そして、だとすると、年の始まりが冬季であるのは、北半球の四季を前提にしていると言えるだろう。南半球や四季のない地域では、年初めがこの時期である意味が薄いと思われる。
 何が言いたいのかと言うと、年が明けるのは何も特別なことではない、ということである。だからと言うべきか、年始の特別感が年を追うごとに薄れてきている。年またぎのTV番組も昔に比べるとあっさりとしたもんだし。今年は日曜日ということもあってか、元日から開いている店も多いし。
 年越しは、そもそも自然本性的には特別ではなく、社会的にも次第に特別でなくなってきている。したがって、個人的に特別感を作り出すしかない。僕は昔は新年を迎えた瞬間に時計を合わせるということをしていたが、ここ数年は仕事中のことが多かったのでしていない。

 というわけで、今年はこのブログを始めることで特別感――新年を迎えた感――を得ようと思う。見切り発車というか、この記事を書いたことで目的の大半は達成してしまったので、どれだけ続くかは分からないが。

子育て映画としての『コクリコ坂から』

 言わずと知れたスタジオジブリ制作のアニメーション映画であり、宮崎駿氏の長男、宮崎吾朗氏の監督第二作。
 吾朗監督は、1967年生まれ。30歳までアニメとは全く関係ない仕事をしていたが、その後、三鷹の森ジブリ美術館建設に関わり、同館長を務めた後、2006年『ゲド戦記』で監督デビューした。それには鈴木敏夫プロデューサーの意向が大きく、宮崎駿氏は強硬に反対したという。宮崎駿氏の息子の初監督作ということで注目を集めたものの、『ゲド戦記』の世間での評価は、あまり芳しくなかった。とはいえ、2006年邦画興行収入1位でもあった。

ゲド戦記 (映画) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%89%E6%88%A6%E8%A8%98_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 さて、今作であるが、舞台は横浜、時代は1963年。
 海を見下ろす坂の上に立つコクリコ荘。その名前通りにコクリコ(ひなげし)に囲まれた、その古い家は、元は病院だったが、現在では下宿屋となっている。そこには、家主の松崎花と、その孫の海、妹の空、弟の陸、それと、3人の下宿人が暮らしている。
 海の母親は大学教授で、アメリカに行っており不在。父親は船長だったが、海たちが幼い頃に、航海中に事故で船が沈んで死亡した。
 海がコクリコ荘の家事一切を取り仕切っており、学校へ行っている間だけはお手伝いさんを雇っている。そして、コクリコ荘の庭から父親のために毎朝「安全な航行を祈る」という意味の信号旗を揚げるのが日課である。
 海は高校二年生で、海という意味のフランス語「メール」(mer)から「メル」とも呼ばれている。海の通う港南学園では、現在、文化部部室が集まる建物「カルチェラタン」の取り壊しが計画されており、それに反対する一部生徒が反対運動を行っていた。その中心人物は、三年生の新聞部部長・風間俊とその親友で生徒会長の水沼史郎。
 俊は女子生徒たちの憧れの的。父親はタグボートの船長で、登校する際は途中まで乗せて行ってもらっている。その船上でいつも海の揚げる旗を見て、その返礼として船の信号旗を揚げているが、それは海からは見えていない。
 新聞部では「週刊カルチェラタン」を発行しており、成り行きで海はそれを手伝うことになる。そうしている内に互いに惹かれあう海と俊だったが、しかし……。

 冒頭部分、説明がほとんどないまま場面が次々に進んでいくため、いまいち分かりにくかったので、後で得た情報を元に再構成してみた。
 予告編を見ただけでは全然魅力を感じなかったので観に行くつもりはなかったのだが、結構褒めている意見を見かけたので、それならばと観に行くことにした。
 しかし、率直に言うと、面白くなかった。というか、面白がれなかった、楽しめなかった。監督の前作『ゲド戦記』よりは断然良いし、全然酷いとは思わないのだが、いまいち入り込めなかった。だから、褒めている人たちがどうして褒めているのかがよく分からないというのが正直なところである。
 だが、良くも悪くもジブリらしい映画であることは確かである(新しい試みも行われているが)。そこで、僕がジブリらしいと思った点を列挙してみる。

・髪へのこだわり

 ジブリ作品においてヒロインが髪を結んだり、留めたりするのは、決意の表明であり、戦闘準備である。だから逆に、髪をほどいているときは無防備であることを意味している。そして、髪にはこだわるが、ファッションには無頓着なのもジブリ作品の特徴である。ジブリヒロインが服のブランドにこだわったり、ファッションに手間暇かけることはほぼない(サブキャラは必ずしもそうではないが)。

・子供が働く

 ヒロインの海は高校二年生でありながら、コクリコ荘を切り盛りし、家事一切をこなしているが、それを厭う素振りも見せない。学生たちは、カルチェラタンの大掃除の際には、女性も含め、大工仕事に精を出す。

プラトニックな恋愛。

 恋愛のドロドロや性的なものが一切出てこない。本作は時代設定もあるが、高校生だというのにキスすらしない。甘いイチャイチャがない。あくまで清い交際である。

・声優嫌い

 相変わらずの職業声優嫌い。にもかかわらず、案外ミーハーな声優選び。ヒロイン役の長澤まさみ氏は特に独り言が下手だった。全体的に笑い声がわざとらしくて上滑りしていた印象。手嶌葵が声優として歌いだすシーンは明らかに声質が変わっていて違和感があった。一人だけ録音方法が違うんじゃないかと思うほどである。

・その他

 横浜が舞台ということもあって、同じく港町が舞台だった『崖の上のポニョ』を思い出させる。船にちなんだ交信方法が出てくるのも同じであるし。
 ヒロさんは『魔女の宅急便』のウルスラっぽい。
 カルチェラタンは、その階層構造と乱雑さが『千と千尋の神隠し』の湯屋を彷彿とさせる。

 そして、ジブリらしい最大の箇所がキャラクターたちが真っ直ぐであることである。どのキャラクターも真面目で、いつも背筋をピンと伸ばして胸を張っていて、背中を曲げて歩いたりしない。坂本九氏に言われるまでもなく、いつも上を向いて歩いている。彼らは真っ正直で、嘘をついたり、ごまかしたりしない。明朗闊達で勇敢で後ろ暗いところがない。他人を不当に貶めたりせず、快活。生真面目で生硬で青臭い。凛として、常に人の目を真っ直ぐに見て話す。陰湿さがなく、ジメジメ、ウジウジしていない。悪人は一人も出てこず、「気持ちのいい連中」ばかり。
 だが、それこそが僕が本作を楽しめなかった理由なのである。

 有り体に言って、本作は、学生運動的なものを全肯定する映画である。
 後に、学生運動安保闘争は急速に衰退し(ほぼ失敗に終わり)、連合赤軍事件などでその闇の部分の一端を覗かせたが、時代設定の妙もあり、カルチェラタン取り壊し反対運動に参加している学生たちにはまだ全然屈託がない。ただ自分の信じるところに従って学校側と闘う純粋さ、若いエネルギーの真っ直ぐな発露があるだけである。
 そして、僕が本作にのめり込めなかったのは、まさにそれによるところが大きい。その真っ直ぐさについていけないというか、引いてしまったというか、鼻白んでしまったのである。
 自らの正義に何の疑いも持っていないようなところ、他者と触れ合うこと・意見をぶつけ合うことを全く怖れないところ、常に「太陽のあたる場所」を歩いているといった風情なところ、一言で言うと“勁い個人”であるところ、そういったところが、僕自身の性格や趣味嗜好と合わなかったのである。そういった勁さを、僕は眩しく感じると同時に、敬遠したいと思ってしまう。お近づきにはなりたくないと思ってしまう。
 公式サイトの「プロダクションノーツ」などを読むに、確信犯的にそのようなストレートなキャラクター造形にしたらしいが、僕にはどうにもリアリティが感じられなかった。昔の日本人はそうだったんだと言われても、日本人は曖昧表現を得意とするとか、自己表現が苦手だとか、本音と建前の使い分けとかいった伝統的な日本人論とどう調和するのか分からないし。そういう人たち(全共闘世代)が現在の日本社会を作ったはずだろうに、昔は違ったと言われても簡単には信じられない。
 本作はおそらく、宮崎駿氏やプロデューサーの鈴木敏夫氏の「黄金時代」を描いた作品である。黄金時代とは、ノスタルジックに回顧された青春時代のことである。悪いことは忘れ去られ、よいことばかりが思い出され美化された、記憶の中にだけ存在する「あの頃はよかった」時代のことである。
 そして、それを監督しているのが、その時代にはまだ生まれてもいなかった宮崎吾朗氏であるというのが面白いが、このことについてはまた後で触れる。
 ちなみに、この時代設定は映画オリジナルである。原作マンガではもっと後の時代(1980年頃)の話である。この変更は当然、企画・脚本の宮崎駿氏の意向が大きいと思われる*1押井守氏によれば、鈴木氏の意向も大きいようだが)。
 というわけで、その後顕著になる学生運動等の負の部分は本作では描かれていない。ただ無視されるだけである。本作を観ても、彼らが作ったはずの今の社会がなぜこうなっているのかは分からないし、今の社会を改善する処方箋も示されてはいない*2。無論、それはそれで、娯楽に徹するというアニメーション映画のあり方の一つではあるのだが、そういう割り切りがあるとも思えない(というより、本当はどういうつもりなのかあまり見えてこない)。
 すなわち、キャラクターたちの性格が全体的に苦手なタイプであることと、人間、そんな綺麗事ばかりじゃないだろうという脳内ツッコミのせいで、本作にあまり没頭できなかったのである。そこらへんは「ファンタジー」だと割り切ればよいのだろうが、そう割り切るには、設定や作画や関係者発言に含まれるリアリティが邪魔をする。逆に言えば、本作を純粋な「ファンタジー」として見るのは割り切りすぎだろうと思う。

 さて、楽しめなかったものを楽しめるものにするために、解釈という迂回路を経由したいと思う。僕の常套手段なのだが、解釈することそのものが一つの楽しみ方であるのと同時に、解釈の結果現れる作品の別の新たな姿――それは別の新たな物語と言ってもよい――を楽しむのである。
 そういうことなので、しばらくお付き合い願いたい。
 予め結論を述べておくと、タイトルにもあるように、本作は子育て映画である。

 本作は、というより、集団作業で作る映画というものすべては、多層的である。異なる複数の層(レイヤー)から映画は出来ており、それらの内のどの層に注目するかによって感想や評価が変わったりする。僕はこれから本作のいくつかの層に注目し、その他の層は無視する。僕が無視した層(作画や音楽など)については他の人の意見を参照していただきたい。僕が注目する層は、構造、テーマ、海の物語、男の物語、監督の物語である。

 以下、ネタバレあり。

*1:参照:http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20110727/1036973/?ST=life&P=2

*2:もしかして、「上を向いて歩こう」が処方箋ということなのだろうか?

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『魔法少女まどか☆マギカ』と時間遡行者・虚淵玄

魔法少女まどか☆マギカ 感想リンクまとめ - おひとりさまなめんな!
http://d.hatena.ne.jp/maname/20110422

 前期、最も話題となったアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、『まどマギ』)がようやく最終話まで放映され、改めて話題を提供し、数多くの記事がネット上にアップされているわけであるが、その流れに僕も乗っておこうと思う。

 まずはこのエントリの前提を述べておこう。
 僕は、『まどマギ』を、あくまで虚淵玄氏の作品として解釈する。
 もちろん、『まどマギ』は、新房昭之監督や蒼樹うめ氏を初めとするその他大勢のスタッフによって制作されている。だが、今回、新房監督はあまり前に出てきていないし、世間では「大体虚淵の仕業」という認識だった(その認識が、「血溜まりスケッチ」という別称を生んだ)。細かな描写はともかく、大まかなストーリーラインに関しては、完全に虚淵氏の手になるものだと考えて良いだろう。
 まぁ、本当のところを言えば、そのように解釈したほうが便利というのが最大の理由であるのだが。というわけで、便宜的に『まどマギ』は虚淵氏の作品として話を進めるつもりなのであしからず。
 また、個々のシーンの解釈については、既に様々な解釈が提出されているので上のリンクなどをたどって読んでいただきたい。僕自身はそれで大体納得出来る解釈を得られた。したがって、以下の文章を読んでも、個々のシーンの謎が解けるということはない。僕が提出するのは結末に関する、大枠の解釈である。
 あと、このブログの性質上、『まどマギ』と直接関係ない話もふんだんに混ざっているのでご注意を。
 ネタバレありなので、以下の文章は隠しておく。

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