『悪の法則』

 評価:★★☆

※ネタバレあり。

♪ジタバタするなよ 世紀末が来るぜ

 というわけで、シブがき隊「NAI NAI 16」がテーマ曲の『悪の法則』をBDで観賞した(違う)。
 詳しいことは公式サイトやウィキペディアを見ていただきたいが、残酷シーンの残酷さと、キャメロン・ディアスの魔女化が著しい(役どころ的にも、顔的にも)という以外は、いまいちピンとこなかったので個人的な評価は高くないが、宇多丸氏によると世界の実相(この世界のあり方)を描いている作品とのことなので、それを前提とした上で解釈してみる。

 始めに言っておく。この作品に救いなどない。「作品」を「世界」に置き換えても良い。
“ボリート”は既に首に引っ掛けられ、動き出している。ボリートとはいったん動き出したら止まらない殺人装置のことだ。
「ボリートとはある装置のことだ。小さなモーター付きでスチール製のケーブルを巻き取る。ケーブルは強い合金で切断はほぼ不可能。形状は輪っかだ。後ろから標的に近づき、首にかけて、ケーブルの端を引き、そのまま立ち去る。モーターが作動しケーブルが締まり、最後はすべて巻き取られる」
 始まりは些細な“欲”(greed)だ。それが事態を複雑にし、人を悪の世界に踏み入れさす。
 それは非人間的な世界。だから、悪意すら存在しない。死に特別な意味など無く、無意味な死を量産する。それは罰ですらない。
 誰もが簡単に殺される。大した盛り上がりもなく殺される。大物俳優であっても関係ない。
 巻き込まれた個人にはもはや打つ手はなく、ただただ無力に逃げまわるだけだ。
 そこにあるのは、村上春樹的な「邪悪なもの」、内田樹氏が「猫の手を万力で潰すような邪悪なもの」「超越的に邪悪なもの」と呼ぶものである。

・「父」からの離脱の方位 (内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/06/06_1907.php

 本作では「麻薬カルテル」がその「邪悪なもの」、別名「システム」である。

《「システム」はもともとは「人間が作り出したもの」である。
それがいつのまにかそれ自体の生命を持って、人間たちを貪り喰い始める。
システムの前に立つと、ひとりひとりの人間たちは「壁にぶつけられる卵」のように脆弱である。
けれども、「卵の側に立つ」以外に、人間が「システマティック」な世界をわずかなりとも「人間的なもの」に保つためにできることほとんどない。》

 システムに対抗するためにはどうしたらよいのか?
 そのためには、「父」の出動を要請してはならない。それはすなわち、「神も理性も信じない」ということである。
 本作においては、システムに拮抗しうる唯一のものとして提示されるのは動物的習性である。なぜなら、動物は「神も理性も信じない」(にもかかわらず、「秩序のようなもの」を保っているように見える)からである。
 システムを出し抜き生き残ることができた唯一の人物マルキナ。彼女はチーターを愛し、チーターと一体化しようとする(アイメイクやチーター柄の刺青はそのことを示している)。
 謎に満ち、心の底を明かさないマルキナが唯一正直に言うこと、それは「お腹が空いた」という言葉である。彼女によれば、純粋に空腹を満たすために殺すことのみが、優雅で美しい。それ以外の人間的な欲は醜い。それは心の弱さをもたらし、人を破滅へと導く。

 マルキナ「欲のせいで崖っぷちね」
 ライナー「そもそもそれが欲の本質なんだよ」

 マルキナには欲(greed)がなく、獣欲(appetite)のみがある。フェラーリとのファックシーンもそのことを示している。
 マルキナには人間的感情が欠落している。懺悔室での神父とのちぐはぐなやりとりからも分かるように、彼女は「神」を信じておらず、それ故、彼女には“罪”の概念がない。逆に、自分の不幸な生い立ちの原因を神に押し付けることもない。
 もちろん、マルキナとて、システムを出し抜くことに完全に成功したわけではない。システムから利益を掠め取ろうとして、半ば失敗し、半ば成功しただけである。
《けれども、それはあくまで、一時的、相対的な勝利にすぎない。》
 元のシナリオだか小説版だかでは、ライナーが死んで逃げ出したチーターがアリゾナの荒野で凍えている描写があるとか。それはマルキナのその後の運命を暗示しているのかもしれない。

 ところで、この邦題はミスリーディングである(原題は“The Counselor”)。タイトルから、コンゲームのような知的騙し合いが繰り広げられ、「悪の法則」が次々と開陳され、それを熟知した者が最終的に勝利を収めるのかと想像していたら裏切られた。「この法則を操る黒幕」(予告編より)など出てこなかった。ちなみに、「悪の法則」と音で聞くと「悪の十字架」を思い出してしまう。
 なんでこんな邦題を付けたのか、深読みしても大して意味は無いだろう。日本でのキャッチコピーや予告編を見れば分かる(少なくとも「クライム・サスペンス」ではないし、ましてや「心理サスペンス」などでは絶対ない)。
 では、どんな映画なのか? 本作は哲学的会話劇である、と言っても、納得してくれる人は少ないだろう。私自身も納得していない。
 だが、言葉が非常に重要な役割を果たしている映画であることは確かだ。なるほど、その言葉は無力であり、現実を何も変えられない。さんざん警告されても弁護士は引き返さない。にもかかわらず、いや、だからこそ、言葉は重要である。
 その言葉は、弁護士にではなく、観客である我々に向けられている、あるいは誰にも向けられていない。それは世界の構造についての、社会の成り立ち方についての、人間の本質についての言葉である。それは現実的には無力であるが故に現実と拮抗しうる、もう一つの「世界」を構成している(詩人の話を想起せよ)。
 ショッキングなシーンに意識が行きがちだが、言葉(会話)は本作を支える2本の柱の一つである。一見そう見えないかもしれないが、言葉というものへの信頼が本作の根底にはある。

 そして、弁護士からの、電話での必死の頼みに対して、他に仕事が詰まっているし、暇があったら昼寝もしたいからと話を打ち切るエルナンデス弁護士。観ているときは非道い人だと思ったが、改めて考えると、彼を非道いと思う資格のある人がどれほどいるだろうか?
 エルナンデス=観客ではないだろうか。世界では、全く同じではないまでも似たような事態が現実に起こっているのに*1、それを放っぽいておいて映画を見ている我々観客もまたエルナンデスと同じである。
 主人公に固有名がなくて、肩書だけなのは、主人公は誰でもあり得る、誰でも同じ立場に置かれうるということなのではないだろうか。
 すなわち、我々もまた、彼らと同じ「システム」の内にいるのだ。

 最後に、初見では分かりにくかったので、一応自分なりに理解したあらすじを記しておく。もちろん、ネタバレである。

“弁護士”(counselor)は、クライアントの一人であるライナーからかねてより誘いのあった麻薬密売の仕事に参加することにする。それはローラと結婚するに当たってより多くの金が欲しいからだった。
 密売の手順は以下のとおり。メキシコで精製された麻薬をドラム缶に詰めてそれをバキュームカーのタンクの中に隠してアメリカ国内へ運び込む。その車の部品をバイカー(“グリーン・ホーネット”)に渡して運ばせ、組織の別の人間に渡す。その部品を受け取った組織の人間が麻薬をシカゴへ運び、そこで高値でバイヤーに売り払う。
 しかし、その途中で、バイカーが殺され、バキュームカーを奪われてしまう。そのことを知った組織は、取引のことを知っており、なおかつ、バイカーを釈放させた弁護士たちが麻薬を横取りしたと考える。しかし、実はライナーの恋人マルキナが人を雇って奪わせたのだった。しかし、マルキナの手下たちは組織の人間に殺され、麻薬を奪い返される。
 一方、組織が自分たちが裏切ったと考えていると知ったウェストリーはロンドンに逃げ、ライナーは判断を迷っている内に彼を捕らえに来た組織の人間に誤って殺されてしまう。弁護士は妻ローラをさらわれ、メキシコの弁護士に仲介してもらい組織に妻を返してもらおうとするが、妻はさんざんいたぶられ殺されてしまう。その様子を撮ったDVDが弁護士のもとに送られてきて、弁護士は内容を察して泣き崩れる*2
 マルキナはウェストリーが貯め込んで投資していた金を、彼を殺させて、彼のPCとパスワードを奪うことで、自分のものにする。そして、香港に逃げるつもりであると旧知の銀行家に語る。

*1:知らない人は、ウィキペディアの「メキシコ麻薬戦争」の項を参照したり、「メキシコ 麻薬カルテル」でググってみたりするとよい。

*2:『セブン』のラストを思い出した。