ボケ化する世界とメタ化するツッコミ

http://d.hatena.ne.jp/KTA/20070326/p1の続きです。

「ボケ化する世界とメタ化するツッコミ」とはどういう意味か? もう少し詳しく説明しておこう。
※以下の文章では、行為としてのつっこみは「突っ込み」、役割としてのつっこみは「ツッコミ」、両者を特に区別しない場合は「ツッコミ」と表記する。

1、ボケとツッコミの関係の変化

 従来、ボケとツッコミはいわば同じ舞台の上にいた。ボケとツッコミは共にプロの芸人であり、対等な立場にあった。(その場合でも、ボケに対してツッコミはある意味で「超越的」ではあるのだが、それでも両者は笑いを生み出すという同じ目的に向かって協力し合う同志であり、呼吸(いき)を合わせる必要があるという意味で同じ地平に立っている。)
 しかし、1980年代のマンザイブームの頃から、紳助竜介をはじめとして「掛け合いの要素が実質完全になくなっている」漫才コンビが登場し始める。

《 だがもう一方で、一見矛盾するようだが、受け手がもっと「鈍感」になってかまわない一般的状況が、マンザイブームのなかのボケとツッコミの内実の変化によって生じてきていた。
 その変化とは、一言でいえば、〈ボケとツッコミの遊離〉である。紳助・竜介やツービートにみたように、マンザイが従来の漫才から踏み出した重要な一歩は、ボケとツッコミが不可分な一対のものであるというそれまでの常識を無視した結果、ボケとツッコミの一体感がなし崩しになりはじめたということである。ボケとツッコミは、あたかも切り離し可能であるかのような様相を呈しはじめる。そしてその場合、まず大きく前面に出てくるのは、ボケのほうである。もちろん、もともと漫才という演芸でボケのほうが目立つ役割だということもあるだろう。だがそれだけではない。たけしとの関係のように、突然いやおうなしにボケの役割を振られはじめた受け手にとって、みずからの存在を確認し、あるいは許容するためにボケのパターンを知り、その振る舞い方を学習することが必要になったのである。そしてさらに、ツッコミはボケに必ず可視的に付随するものだという認識自体が薄れたとき、やがてボケは自己肯定的なものへと転じていくだろう。それは、「しろうと」が「笑い」の空間のなかで解放される瞬間である。》(太田省一『社会は笑う』pp.46-47)

 その結果、「とりあえずボケる『しろうと』」(『社会は笑う』p.53)が誕生する。

《テレビ的笑いとは、端的にいえば、しろうとの笑いである。》(『社会は笑う』p.32)

《 それに対して、一九八〇年代以降の日本の「笑い」を特徴づけるのは、「視聴者」という「しろうと」が前面に出てくるということである。それは萩本が種をまいたものでもあり、『欽ドン』の延長線上にあるものとみることもできるだろう。だが八〇年代以降、次第にはっきりしてくるのは、「しろうと」が当然の権利のようにボケはじめるということであり、しかもそれが、技術的なうまい・へたは別として自覚的におこなわれるということである。その結果、萩本のような君臨するツッコミは次第に役割を失っていく。それは、テレビと日常が接着度を強めるなかで自己提示としての「笑い」への許容度が高まり、そのこと自体を「しろうと」自身が学習したということだろう。そしてその事態を白日の下にしたのが、マンザイブームだったのである。》(『社会は笑う』pp.32-33;cf. p.72)

 ボケの価値転換と素人への拡散と同時に、ツッコミの担い手も、演者(舞台)から観客(劇場)へ、観客から視聴者(テレビ)へと拡散していく。

《「観客」と「視聴者」とは、まずそれぞれ「演じ手と空間を共有した集団」と「演じ手から空間的に切り離され、分散した集団」として定義することができる。それはごく単純にいえば、客席や劇場にいる人々とテレビの前にいる人々ということにもなるだろう。だが、一九八〇年代以降の日本社会で両者の関係は、そうした字義的な区別以上の可変的なものになり、その結果、往々にしてその連関はどこか過剰なものになっていく。言葉を換えれば、「観客」と「視聴者」は、受け手の変転する表情として両義的な関係を結んでいくなかで、それぞれが従来とは異なる存在の様態を獲得していくのである。つまり、「観客」も「視聴者」もともに素朴な受け手であることをやめて、「笑い」を積極的に構成する担い手、「笑い」を評価すると同時にそれをみずから方向づけ、最終的には生産さえしていくような担い手になっていく。それは裏を返せば、マンザイが伝統的な演芸としての漫才の形式を活用しながらもそこから脱皮して、新たな「笑い」の空間を成立させていく過程にほかならない。そのときマンザイは、演芸という領域を超えて、社会にとってのコミュニケーションの範型になっている。》(『社会は笑う』p.15;cf.pp.163-164)

つまり、テレビに向かって視聴者が突っ込むというあり方が常態化する。それは、タモリ氏の「観察的ツッコミ」(『社会は笑う』p.59)を範とするようなものである(cf.『社会は笑う』pp.61-62)。その背景には、〈ボケとツッコミの遊離〉に伴い、次第にボケの力が拡大し、それに反比例してツッコミの力が弱まっていくという状況、すなわち「ツッコミの脆弱化」がある。

《 しかしながら、ツッコミそのものが「笑い」を成立させるうえで無意味になるわけではない。ボケとツッコミは遊離するだけであって、双方の関係が途切れてしまうわけではない。ただボケがツッコミからの疎隔によって独自の自己主張的意味合いを新たに帯びたように、一九八〇年代以降ツッコミもまた、ボケからの疎隔とともに変化していくことになる。
 結論からいえば、その変化とはツッコミの脆弱化である。ツッコミを本来ボケという逸脱を軌道修正するための所作ととらえるならば、ツッコミの脆弱化は「笑い」の無軌道さを招くということになるだろう。だがそれを単純に無秩序の許容ととらえるのは大きな誤りである。ツッコミは、変容しながらもなくなるわけではなく、屈折の度合いを強めながらも、相応の存在価値をもって機能しつづける。ただしそれは、漫才の古典的なそれからははるかに遠ざかり、一見まったく趣を異にしたものにさえなっていくのである。
 そのようなツッコミの変化を体現したのが、タモリである。タモリとマンザイブームの結び付きは、そのような意味で本質的なものである。》(『社会は笑う』p.55)

《そうした実体としてのツッコミの後退と踵を接するように、「しろうと」だけで構成される「笑い」の空間が生まれてくる》(『社会は笑う』p.74)という状況の延長線上にあるのが、私が言うところの「ボケ化する世界とメタ化するツッコミ」である。
 では、それについて以下で説明しよう。

2、「メタ化するツッコミ」とは

 まずは、「メタ化するツッコミ」について。
ニコニコ動画」なる動画サービスサイトがある。

2ちゃんねるの管理人・西村博之ひろゆき)氏が監修した動画サービス「ニコニコ動画」β版が人気を集めている。YouTubeなどの動画に、ユーザ[ーが]字幕でコメントを付けられるというもの。1月15日にオープンしたばかりだが、1日あたりのページビュー(PV)は400万を突破し、1月30日までに投稿されたコメント数は380万件以上、投稿された動画URLの数は2万4000件を超えた。
ITmedia News:「面白くないものが面白くなる」 ひろゆき氏が語る「ニコニコ動画」の価値
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0701/30/news035.html

 動画にコメントすると、そのコメントを動画に重ねてリアルタイムで表示。文字の色や流れ方、流れる位置も選べる。以前に視聴したユーザーのコメントもタイムラインに沿って表示される仕組みで、動画上にさまざまな人のコメントがずらりと並ぶ。
ITmedia News:「面白くないものが面白くなる」 ひろゆき氏が語る「ニコニコ動画」の価値

 ただし、β版は2月下旬にサービスを中止し、現在はγ版へ移行している。今のところクローズドサービスなので、登録した人たちしか見られない。「ニコニコ動画」を見たことのない人は、いつまでやっているのか分からないが、非会員でも見られる動画が公開されているので参照してほしい。
ニコニコ動画20万番までのアカウント開放+ログインできない人にも特別「煩悩解放」中!
http://www.nicovideo.jp/?p=watch_gouketuji
YouTube」の歴史については以下のサイトを参照。
・GilCrowsの映像技術研究所
http://gilcrows.blog17.fc2.com/blog-entry-1246.html

 本来、個人的で不可視であるはずの突っ込みを、文字化することで可視化し、それを突っ込みの対象となっている画像の上に直接重ねて表示することで集約するという発想がまず素晴らしい。アイデアとしては、TV画面の上に実況版を重ねたようなものであり、今まで思いつく人がいなかったのが不思議というようなものであり、実際思いついていたという人も多いだろう。だがそうだとしても、「コロンブスの卵」の話ではないが、その思い付きをシステム等を整備して実行に移したことはやはり賞賛に値すると思う。
 しかも、そのシステムを利用して、既存の画像に突っ込みを入れる人の数の多さが、非常に日本的な現象であるように思われて興味深い。おそらくこのようなサービスが日本以外の国ではこれほど流行ることはないであろう。
 そして、この「ニコニコ動画」こそが、私の言う「メタ化したツッコミ」の分かりやすい実例である。
 β版の場合、権利者に無断でアップされたものもたくさんある「YouTube」の画像にリンクして、さらにその上に、権利者にも「YouTube」にも無断で、ツッコミの字幕を重ねていた。それはひろゆき氏自身が言うように「便乗モデル」であった。
 勝手にアップされたもの(「YouTube」)に、勝手に突っ込む(「ニコニコ動画(β)」)ということは、ボケとツッコミが別の層にあるわけである。ボケはツッコミのことを知らないが、ツッコミはボケのことを知っているという意味で、ボケはツッコミに対して(システム的に)メタの位置にあるのである。
 このツッコミの機能・価値は「面白くないものを面白くする」ということにある。

 「テレビだと『職業:ボケ』『職業:ツッコミ』の人がいて、突っ込んだ時点で初めてそこが面白いと分かり、テロップで『ここが笑う所だよ』と教える。ニコニコ動画は、テレビとしての完成品の上にさらに『ここが面白いんだよ』とやる」

 「ユーザー同士でコメントすることによって、面白くないものを面白いものに変えられるというのが、サービスの価値かな」
ITmedia News:「面白くないものが面白くなる」 ひろゆき氏が語る「ニコニコ動画」の価値

その意味で、「ニコニコ動画」におけるツッコミは、極めて80年代以降的、漫才的な笑いを志向している。それは「観察的ツッコミ」であり、「『笑い』を発見する視線」(『社会は笑う』p.14)なのである。
ニコニコ動画」はテレビのバラエティ番組のテロップを大衆化したものと言うこともできるだろう。それは「ツッコミを入れるテロップ」だったり、「そのままなぞるテロップ」だったりする(『社会は笑う』pp.104-109, pp.162-163)*1
 しかし、出演者へのフィードバック、出演者との共犯関係がないという点では、「ニコニコ動画」の字幕は、テレビのテロップとは異なっている。
 先ほど引用した箇所では、《「観客」と「視聴者」とは、まずそれぞれ「演じ手と空間を共有した集団」と「演じ手から空間的に切り離され、分散した集団として定義することができる》と言われていたが、現在ではその事態がさらに進んで演じ手=作品から空間的にどころか、時間的にも、コミュニケーション的にも切り離された集団として、「ニコニコ動画」ユーザーは存在する。演じ手はまだ視聴者には見られていることを意識しているが、動画の製作関係者たちは「ニコニコ動画」ユーザーを意識しているどころか、その存在すら認識していない場合がほとんどだろう。

3、「ボケ化する世界」とは

 次に「ボケ化する世界」について。
 ボケとは「ニコニコ動画」の場合で言えば、ツッコミの対象となる作品およびそれを作った人である。
 ボケは、積極的に世界や社会に関与していくという意味で行動的であり、他人の作品の批評にかまけず、自分自身で作品を作ろうとするという意味で創造的なのである。
 いわゆる「天然ボケ」(『社会は笑う』p.13)が典型であるが、ボケは世界や社会に対して屈託を持たないが故に、それらに関わることを躊躇しない。
 ボケとは、DQN、「動物」、「セレブ」、グローバリズム……(ツッコミの側からの)侮蔑的な呼び方は色々あるが、反省・逡巡しないで行動し、世界や社会を動かすもののことである。
 極端な例はナンパ師である。ほとんどの人に断られることを前提として女性にどんどん声を掛け、断られてもめげることなく次の女性にアタックするということを何百回も繰り返し、確率的に女性をゲットする。それは極端な例だとしても、多かれ少なかれ、通常の社会的生活を営んでいる人ならば、そのようなボケ的側面を持っている*2
 ツッコミはボケに依存せねば存在できないが、ボケはそれ自体で自存する。あるいは、対立概念たるツッコミなしにはボケはボケとしては成立し得ないとするなら、ツッコミが省略されてもボケは存在しうると言い換えてもよい。

《つまり、一九八〇年代以降成立する日本的内輪ウケの空間では、ツッコミという境界づけの行為をすでにあったリアルな虚構として繰り込むことで、ボケが自存的に現象するのである。》(『社会は笑う』p.78)

 世界とか現実とかいうものは、ボケとして、すなわちツッコミを可能にするものとして存在するとも言える。言い換えれば、あらゆるものが潜在的なボケと見なされうるということである。昔は当たり前のことであり面白くなかったことでも今見れば面白いかもしれないし、ある人には面白くなかったことが別の人には面白く感じられるかもしれない。例えば、大映ドラマ『スチュワーデス物語』を見て面白がる場合のように。

《ところが、『スチュワーデス物語』で突然、パロディ的な見方が共有され、違うかたちで人気を得たのである。
 これはやはり、マンザイブーム以降の「笑い」の感覚の変化のなかで、あらゆる場面でボケを発見しようという欲望が対象を求めた結果だといえるだろう。だがそれだけでなくここで興味深いのは、観察的ツッコミが広く共有されるという事態の出現である。他人がおおまじめにやっていることを外在的な位置からツッコんで笑うという感覚は、昔からあったにしても、それが広く共有されて現実に力をもつということはなかっただろう。それは、ボケと遊離することによってツッコミがささやかな〈自由〉を得た結果、私たちが新たに獲得した興奮のモードだったのである。》(『社会は笑う』pp.97-98)

 この新たに獲得された興奮のモードは、既存の動画に突っ込んで「面白くないものを面白いものに変え」て喜ぶ「ニコニコ動画」ユーザーにまで引き継がれている。*3
 以上のような事態の背景にあるのは、「ひたすらボケることそれ自体に意義があるかのような社会空間」(『社会は笑う』p.37)の成立であり、それは「内輪ウケが普遍的な『笑い』となる」とも表現される。

《 このようなツッコミの省略は、一九八〇年代以降の「笑い」の空間に逆説的な帰結をもたらすことになる。それは、内輪ウケが普遍的な「笑い」になるということである。文字どおりには、内輪ウケとはある特定の集団のなかでしかつうじない排他性をもつ「笑い」のことである。だが八〇年代以降の日本では、社会のどの水準にあっても基本的に「笑い」は内輪ウケの性質をもつようになる。つまり、ツッコミが実体として存在しなくていいとなったとき、「笑い」の空間の外延が根本的にあいまいになる。逆にいえば、内輪ウケの潜在的外延は、無限定といってもいいほどの広がりをもったものになるのである。ときによって内輪ウケの空間は、日本という社会空間全体を覆うまでになることも起こる。》(『社会は笑う』p.78)*4

 日本全体を覆う「内輪ウケ」の空間とは「しろうと」の悪ノリの空間であり(『社会は笑う』pp.145-146)、「擬似コミュニケーションの空間」(『社会は笑う』p.198)でもある。
 前述したように、そのような空間においては、「とりあえずボケること」が重視され、相対的にツッコミの力は弱まる。

《 社会が本当に求めているのは、批判力や論理力ではなく、新たな価値を提供する創造力なんです。創造力はいままでにないものを作るのですから、つねに正しいとはかぎりません。すべることを恐れて、論理の正しさばかりを追い求める人は、既存の価値の枠組みから一歩も外に踏み出すことができません。その上、周囲の人から、「あの人、いつも正論ばっかりいってて、つまんないよね」と烙印を押されてしまった日にゃあ、いたたまれないじゃないですか。
 いままでにないものといえば、さっき笑いの説明のときいいましたけど、ユーモアでなくギャグでしたね。つまり創造力は、ギャグをいう能力、ぼけの能力です。社会が本当に求めているのは、ぼけ力のほうなんです。》(『つっこみ力』p.100-101)

 作りこんだネタや考えオチが重視されず、「とりあえずボケること」が重視されようになると、「とりあえずがんばること」もまた重視されるようになる。

《 しかしながら、「笑う社会」の内輪ウケにおける記号化の磁場の存在からすれば、「がんばる」ことの浮上は、それほど奇異なものではない。それは、第2章でも論じたように、「内輪ウケ」の外延が根本的にあいまいなことにかかわっている。つまり、そこでとりあえずボケることが重要であったように、とりあえずがんばることが重要になる。たとえば、猿岩石にしても、番組プロデューサーはヒッチハイク旅行をするかしないかの最終的選択を彼らに委ねる、という場面が映し出される。企画は強制ではなく自由意思による参加だという形式がとられる。だがそれを断るという選択は実際にはない。彼らは、とりあえずがんばることしかできないのである。
 また、とりあえずボケることに意味が発見されるとき、そのボケがウケるかウケないかは二義的なことになったように、とりあえずがんばることでそれが成功するかしないかは二義的なことになる。最終的には、成功と失敗は等価なのである。したがって、「がんばる」ことは、ボケと同様にきわめて「お約束」的な記号になる。そこではがんばった結果のいかんは問われない。》(『社会は笑う』pp.182-183)

 自省・反省によるためらいが忌避され、「とにかくやってみろ」が幅を利かす。例えば、ニートやホームレスに対しては、「とりあえず働け」と口を揃えて言うのが今の日本社会である。働くかどうかは自由意志によるはずでありながら、働かないという選択は実際には存在しない。
・参照:MellowMoon:日本の美しき伝統「働けない奴は死ね」
http://mellowmoon.blog93.fc2.com/blog-entry-21.html

 こうしたボケの一般化は大衆社会化と並行的な出来事である。それはボケの大衆化であり、「一億総白痴化」でもある。
《無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。
それが大衆社会にかけられた「呪い」である。》(内田樹の研究室:「みんな」の呪縛http://blog.tatsuru.com/archives/001520.php
 自らの絶対性に疑いを抱かない者と常に疑いを抱いている者とでは、どちらがより積極的に行動するかといえば、明らかである。
 ボケは、世界に関与することをためらわない。逆に言えば、世界に関与することをためらわないという在り方こそがボケである。
 その意味で現在の日本社会は圧倒的にボケのものであり、いわば社会そのものが「天然ボケ」になっていると言ってもいいかもしれない。

《 こうして律儀さが一つの構造にまでなったとき、「笑い」の範囲はほとんど無限定といっていいほどまでに拡張される。つまり、画面のテロップという明示的なかたちはとらなくとも、放置された空間のなかで、そのままであることが「笑い」の普通のかたちになる。そうなったとき、「笑い」の要素がそこにあるかどうかは、本質的な意味で恣意的になる。笑われる側に意図があるかどうかは「笑い」にとっては二義的になってくるのである。むしろその言動に意図が読み取れない度合いが強まれば強まるほど笑う側の躊躇はなくなっていくだろう。そしてそうしたかたちで「笑い」のポイントを発見していくのは、いうまでもなく一見放置することに徹していて、じつはそうではない受け手の視線なのである。その文脈において、すでに述べたように「天然ボケ」という存在は特権的なものである。それは、当人の笑わせようとする意図が皆無にみえることで、受け手にとって発見する快楽をもっとも味わわせてくれる。》(『社会は笑う』p.164)

4、延命の作法としてのツッコミ

 ボケの一般化およびツッコミの脆弱化によって、ボケとツッコミが双方向的で対等なものではなくなってきている。では、対等でなくなるとはどういうことか?

《非常に簡単に言えば、双方向的で対等なコミュニケーションとは、以下のようなものです――コミュニケートする両者が踏まえている共通の場所というものがあり、両者間のコミュニケーションはこの場所の環境をそれぞれが改変することによって成し遂げられる、と。一番端的にわかりやすく言えば、二人の人が同じ黒板を前にして、互いに黒板にメッセージを書き込みあうことによって意思疎通を図る場合です。どちらにも同じように黒板に書き込む能力、それを発揮する自由、黒板へのアクセス機会が保障されています。それに対して、対等ではないコミュニケーション、ないしコミュニケーションの不在とは、両者が共有するコミュニケーション環境において、どちらか一方だけがある種の環境改変能力を持ち、他方はそれを持たない、というものです。黒板の例で言えば、どちらか一方だけがチョークを持って書き込む場合を考えてみましょう。書き込めない相手側も、書かれたメッセージを読むことはできる。書く側も書き手の側での読解能力を期待しているからこそ、黒板にメッセージを書く。こう考えればそこでもなお、ある種の双方向性は残っていることは明らかですが、しかし双方のチョークを持って書くことができていた状況に比べると、重大な違いがあることは明らかです。》(稲葉振一郎『モダンのクールダウン』pp.126-127)

 ボケだけが「ある種の環境改変能力」を持ち、ツッコミは持たないというのが対等でなくなるということである。
 すなわち、ツッコミは、テレビや(「YouTube」等の)ネット上の画像への突っ込みのような一方的なもの、呟き(独白)に似たものになりつつある。それはいわば負け犬の遠吠えであり、ツッコミは「負け組」であると言える。
 その根底には、突っ込んだところで何も変わりはしないという諦め、シニシズムあるだろう。
 ツッコミは、《普通にわかりやすくツッコむことがいまやむだな行為だという醒めた認識》(『社会は笑う』p.59)を持ち、「没入への留保」(『社会は笑う』p.140)を行う存在である。彼らは、「やればできる」という立場を維持するため、「やりたいことが見つかりさえば、すぐにでもやるさ」と嘯くため、すなわち選択権を確保するために選択することを忌避し続ける。ボケ=社会から遊離したことで獲得した自由を最大限に保持し続けるために、対象から距離を取るための所作として突っ込みがある。
 もう少し積極的に評価しようとするなら、そのようなツッコミの在り方を、(内田樹氏が解釈した)オルテガの「貴族」の内に見出すことも可能だろう。

オルテガが「貴族」という語に託したのは、外形的な「人間類型」や「行動準則」のことではない。
そうではなくて、自分の行動もことばもどうしても「自分自身とぴたりと一致した」という感じが持てないせいで、そのつどの自分の判断や判定に確信が持てない。だから、より包括的な「理由」と「道理」を求めずにはいられず、周囲の人々を説得してその承認をとりつけずにはいられず、説得のために論理的に語り修辞を駆使し情理を尽くすことを止められない…
という「じたばたした状態」を常態とする人間のことをオルテガは「貴族」と言ったのである。
自分が単独で生きている経験そのものがすでに「見知らぬ人間との共同生活」であるようなしかたで複素的に構造化されている人間だけが、公的な準位で「見知らぬ他者との共同生活」に耐えることができる。
つねにためらい、逡巡し、複数の選択肢の前で迷う人間。
オルテガはそのような「複雑なひと」のことを「貴族」と呼び、「市民」と呼んだのである。》(内田樹の研究室:ニーチェオルテガ 「貴族」と「市民」http://blog.tatsuru.com/archives/000892.php

「貴族」と違って、ツッコミが必ずしも知的エリートであるとは限らないが、ツッコミであるためには何らかの知性(反省的意識)が必要とされるという点は確かであろう。そして、知性はためらう。
 ボケはボケることで世界へアクセスし、ツッコミは突っ込むことで世界から遠ざかる(社会への参与を留保する)。
 別に、突っ込みを行う者が皆引きこもりであると言いたいわけではない。メタ化したツッコミが代替的なコミュニケーション行為として機能しているのではないかと言いたいだけである。
 それに、ボケとツッコミの間にコミュニケーションは成立していなくても、メタな層にいる者同士のベタな(内輪の)コミュニケーションはある。それも含めて、ツッコミは「延命の作法」として機能している。

《 ここでいう延命の作法とは、日本社会が、狂騒的でありながら、他方で徹底して醒めてもいるかのように自己を維持しつづけることをさす。そのなかで日本社会は、いつ果てるとも知れずひたすら現在にとどまり、変化を拒んでいるようである。そしてそのある重要な一端を、ここまで述べてきたような受け手主導の「笑い」の作法が担っているようにみえるのである。》(『社会は笑う』pp.16-17;cf. pp.187-188)

 ボケが自立し、一般化して世界(日本社会)を覆っていく中で、ツッコミはもはや世界を変える力を持たず、ただ自らの存在証明のために、シニカルにぼやいてみせるだけである。

5、つっこみ力

 勿論、このような情勢に対する抵抗もある。その一つがパオロ・マッツァリーノ氏の『つっこみ力』であると私は考える。すなわち、ツッコミの力を再認識し、再びツッコミをボケと同じ地平へ引き戻そうとする。それが「つっこみ力」という概念であると私は受け取った。
 現代は、ボケに対するツッコミの有効性を信頼することができなくなってきている時代である。そこで、リアクションを前提としないツッコミ、むしろリアクションを積極的に排除するツッコミが大勢を占める。
 そのことをよく示しているのが、電車内で化粧する女性をその場で叱らず、本人の目に絶対触れないような場所で不平不満を呟くおじさんの話である。

《 電車の中で若い女の子が平気で化粧することを叱るコラムやエッセイを、しょっちゅう目にしますよね。私はむしろ化粧をする女より、ああいうコラムを書く人に、無性に腹がたつんです。ああいうのを書く人って、人間同士の関わりを拒否している、人間不信の社会システム論信者だからです。
 個人的には、電車での化粧は気にならないんですが、音漏れヘッドフォンは気に障るので、あんまりうるさいときには、「すいませんけど、ボリューム下げてもらえます?」と頼みます。
[中略]
 そんなわけで、若者のマナーを叱るコラムを目にするたびに、それほど不快に感じるなら、なんでこの人、その場で本人にいわないのかな、って不思議でならないんですね。電車の中で化粧するような女の子は、新聞やオッサン向け週刊誌のコラムなんか絶対読まないんですから、書いてもムダでしょ?
 そういう問題は、不快に感じた人が、相手に直接話しかけて、オレはいま凄く不快なんだ、だからやめてくれ、と自分の気持ちを伝えることでしか解決できないんです。個人の行動、個人と個人の対話で解決すべきことなんです。それを社会問題みたいなデカい話、マクロな話にすり替えること自体、ごまかしだし、コラムで世間に訴えることで若者の行動を改善できるのだ、なんて考えてるとしたら、妄想プロフェッショナルです。
 電車で化粧する子をコラムで批判するおじさんたちは、エラそうなこといってますけど、実際には、見ず知らずの他人に話しかけることもできない小心者なんです。[中略]
 近所のこどもを叱れないオトナが増えたといいますが、それも結局は、自分の気持ちを赤の他人に伝えようとしない、伝えてもムダだ、ってあきらめてる人間不信のオトナが増えたってことなんですよ。》(『つっこみ力』pp.174-178)

 その場で本人に注意できなかった憂さを晴らすためにそのことをコラムに書く。逆に言えば、コラムに書くことで注意しなくても済むわけであり、これもまたある種の「延命の作法」である。
『つっこみ力』は、そのような状況(=〈ボケとツッコミの遊離〉)を憂い、権威への批判としての突っ込みの力を取り戻そうという提言である。
『つっこみ力』の内容について詳しいことは次のエントリで述べるが、これまで述べてきたことからすると、それを一種の反動として受け取ることもできるということだけは指摘しておこう。ツッコミの力を取り戻すということは、それが可能であるかどうかはともかくとして、ボケを延命させ、ツッコミとボケとの共犯関係を維持するということにも繋がりかねない危険性がある。

*1:百合星人ナオコサン』におけるみすずのセリフも、一種のテロップ・字幕であると見なすこともできるだろう。

*2:私は「ボケとツッコミ」というものを、人間類型ではなく、世界に相対するときのモードの違いと理解している。

*3:他にも「文脈の軽視」という要素を指摘することができるだろう(cf.『社会は笑う』p.101)。

*4:ネットもまた内輪を強化する方向に働く。ネットは巨大な内輪(ムラ)を形成するとはよく指摘されるところである。SNSのようなクローズドなサイトだけでなく、BBSやブログのようなオープンなサイトであってもそれは同じことである。