5、いかにしてコード主義から逃れるか?

 コード主義から逃れる方法は、ぱっと思いつく限りで二つある。最初からゲームに参加しないという方法と、コードの抜け穴を見つけるという方法である。
 前者は、例えば引きこもりという方法である。
 後者はさらに、コード作成者が意図した抜け穴と意図しない抜け穴(盲点、バグ)とがある。『カイジ』には両方が見られる。
 だが、こちらの脱出法には難点がある。前述したように、コードがルール化してしまうのである。その場合、ゲームの勝者となること=ルールをくつがえすこと、ではない。
 それどころか、勝者は勝者となったが故に、自らを勝者にしたルールの存続を願う。少なくとも、積極的にルール改変を望むことはなくなる。せっかく勝者となっても、新たなルールの下では敗者となるかもしれないからである。
 だから、ゲームに勝つという仕方では、本当の意味でゲーム(コード)から逃れることはできない。


 さらに、間違えてはいけないのは、必ずしもゲームに勝利すれば生き残れるわけではないし、必ずしもゲームに敗北すれば死ぬわけでもないということである。
 前者については『ぼくらの』が分かりやすい例である。ジアースの操縦者となった者は、敵に勝っても負けても死ぬ(もちろん、戦わなくても死ぬ)。それは理不尽だが、必ずしも非現実的なことではない。人はゲームに勝ち続ければ永遠に生き続けられるわけではなく、どんな人もやがて死ぬ。ゲームの勝敗とは関係なく死ぬ。それは50年後かもしれないし、明日かもしれない。
 後者については、サバイブという概念自体が批判されねばならない。より正確にはゲームの勝敗とサバイブとを結び付ける思考に対して否を突きつけねばならない。
 問題はサバイブできない者でも生きていけるということなのである。
 サバイブにも強い意味でのサバイブと弱い意味でのサバイブがある。泥をすすってでも生き延びるのが強い意味でのサバイブであるとすれば、弱い意味でのサバイブは、そうなってしまったら失敗であると言える。「サバイブ感」と言うときのサバイブとは、明らかに後者の意味である*1。さもなくば、文字通りのサバイバル術をもっと重視するはずであるから。
決断主義」的物語内ではともかく、「サバイブ感」を抱いていると言われる現代の若者が直面している状況は、生きるか死ぬかの極限状況ではない。少なくとも、現在の日本社会においてはそうである*2。例えば、飢餓に苦しむ難民とか、生まれたときからずーっと戦争状態にある紛争地域の住民と比べれば、その切迫性には格段の違いがある。
 だから、ここで言う「サバイブ感」とは、社会のミドルクラス以上に食い込めるかどうかという問題である。サバイブに失敗するとは、死ぬことではなくて、ワーキングプアとかネットカフェ難民とかホームレスなどといった下流市民になることである*3。それがなぜ「サバイブ」という大げさな形容で呼ばれるのか? それは日本人が下流市民となることに対して多大な怯えを抱いているからである。ほとんどの日本人にとってはそれは死にも等しい。それは贅沢な怯えだが、その贅沢さを批判しても意味はない。むしろ、その怯えを原因から解体せねばならない。すなわち、下流市民となることはサバイブ失敗、人間失格であるという思い込みを解体せねばならない(下流市民となるのを黙って受け入れろという意味ではない)。
 あるいは、もし「サバイブ感」が究極まで高まったとしたら、それは「いつ死ぬか分からない」「明日、死ぬかもしれない」という感覚になるだろう。そして、その場合、楽しみを先延ばしにして勉強したり働いたりすることに意味を見出すことが困難になるだろう。したがって、「サバイブ感」を最も切実に感じている者は享楽的に生きるという逆説が生じるようにも思う。
 引きこもりが親への依存によって成立しており、両親が亡くなってしまえば引きこもることなどできなくなるとしても、それならば親が死ぬ前に自分が死んでしまえば、一生引きこもりでいることができるという理屈になる。
 引きこもりや幼児性を引きずっていることが当人にやがて苦しみをもたらすとしても、それは人並みに生き続ければの話である。社会に出ざるを得なくなる前に死んでしまえば、そのような苦しみに直面することなく一生を終えることも可能である。だから、むしろそういった人たちにとっての問題は生き続けてしまうということ、老いるということである。それは逆転した「サバイブ感」である。
 そうなったとき、自殺する場合もあれば、犯罪を犯して死刑を望むこともあれば、戦争を望むこともあるだろう(もちろん、何もしない場合もあるだろう)。
 彼らにとっては生き続けることは苦痛であるのだから、「サバイブするために努力せよ」「ゲームに参加せよ」と忠告しても、彼らには届かないだろう。


 話が脱線したが、一言で言えば、「サバイブ感」のサバイブとはあくまで社会的なサバイブなのである。だから、ゲームの勝者になることは社会的なもの(コミュニティの層とアーキテクチャの層)の再生産に寄与することである。ゲームは続き、コードは温存される。
 我々が「サバイブ感」を重視するとき既にコード(アーキテクチャ)に絡め取られている*4
 そのような意味でのコードから逃れるためにはどうすればよいのか?
 すなわち、ゲームをどうやってやめるか、ゲームからどうやって抜けるのか?
 次は、さきほど軽く触れただけの「最初からゲームに参加しない」という方法について考えてみよう。

*1:サバイブの意味を広げれば、引きこもりだって一種のサバイブであると見なすこともできるだろう。ただ、サバイブするために自分の稼ぎを使うか、親の稼ぎを使うかという違いがあるだけである。

*2:だから、「試行錯誤」が推奨される。失敗が即、死を意味するわけでないから。

*3:ドラゴン桜』はあからさまにそうである。

*4:「決断」ということと絡めれば、決断しないこともまた決断として回収されてしまうのがコード主義である。それは主に時間と空間が限定されていることによる。