8、結論

ゲーム脳」などと言っているうちに、現実の世界がゲーム空間化しつつある。世界がアーキテクチャによって自閉しつつある。その先に待ち受けるのは『マトリックス』のような世界である。人間がアーキテクチャに完全に依存し、支配され、その一部となっているような世界である(それはある意味で快適な世界である)。
 現実が一つになりつつある。アーキテクチャ=大きな非物語一つに。「リセットできない現実」一つに。この社会はそこまで追い詰められているのかと思う。これまでは「リセットできない現実」に直面しないで済むように、いくつもの緩衝装置が存在していた。御伽噺、サンタクロース、イデオロギー、権威……。それらはある意味では極めて実際的な知恵によるものだと言えるだろう。
 そして、フィクションの機能は現実を複数化することにあったはずなのに、しばしば現実的でないと批判されるようになった。「セカイ系」という概念は内包も外延もはっきりしないのに、もっぱら非難の対象とされる。非難のために生み出された概念ではないかとすら思う。ハーレムものなどと同じで、現実的でないのが許せないらしい。無視すらできないらしい。随分余裕の無い世界になったものだと思う。
「現実」(の一つさ)を強調すればするほど、現実は味気ない、魅力に乏しいものになってしまっているように思う。まるで不幸であればあるほど、絶望すればするほど、現実的であると言わんばかりである。前述したように、現実とは不幸の源として初めて意識化されるので、その主張は基本的には正しい。しかし、それでは最も不幸な者こそが最も現実を生きる者であるということになるだろう。それではあまりに身も蓋もない。
「現実(的)」という言葉を用いて他人を批判しようとする人は結局、ポストモダン化によって大きな物語(「真理」)を絶対的な基準として召喚することが困難になってきたために、大きな非物語である「現実」を絶対的な基準として召喚しているにすぎないのではないだろうか*1。しかも、その「現実」なるものは、恣意的であり、論者によってその内容は異なる。現実というのは「存在する(した)全てのもの」であるはずなのに、彼らが「現実」と呼ぶものは、存在する(した)ものの一部に過ぎない。例えば、フィクションもまた現実に(フィクションとして)存在するという意味では現実であるはずなのである。だから、フィクションという現実に存在するものに対して「現実的でない」と批判するのは奇妙なことのはずなのである*2。そういった奇妙さを認識した上で批判している人がどれだけいるのだろうか? ともあれ、現実というものは非常に貧しい(意味に乏しい)ものであり、特定の作品や表現や生き方を批判する役割を現実そのものに期待するのは無理がある。
 にもかかわらずそういった批判をする人たちの心情をあえて忖度するなら、その根底には、「私は現実に立ち向かって苦労している。だから、お前たちも苦労しろ」という、他人が現実に揉まれるという仕方以外で幸福になることを許せないルサンチマンがあるように思われる。いじめやしごきなどの悪習が連綿と引き継がれる(他人からいじめられた者が他人をいじめ、先輩からしごかれた者が後輩をしごく)のと同様に。
「私は現に幸福である。だから、君たちも幸福になってほしい」という形の批判もあるとは思うが、あまりにも少ないように思う。注意してほしいのは、このように考える人は、「現実」(リアル、リアリティ)などという言葉を持ち出してこないだろうということである。


 私は別に「子どものままでい続けろ」と言いたいわけではない。「大人と子どもとの戦いでは子どもを支援せよ」と言うつもりもない。
 私だって子どもが好きなわけではない。むしろ、苦手だ(そのことは私自身が大人であるということを意味しはしないが)。
 それに、子どもであることも大人であることも同様に生きづらい(その生きづらさの内容は異なるだろうが)。
 しかし、だからこそ、子どもであり続けることも選択の一つとして提示することがフェアなのではないか。
 そして、その生きづらさが社会的に構築されたものであり、社会的に解消可能であるならば、そうするのが倫理的というものではないか。


 現時点で結論として言えることはほとんどないが、もしあるとすれば以下のようなことだけである。
1、子どもは、ゲーム参加の前に一瞬立ち止まること。
2、大人は、子どもたちにせめて複数のゲームを用意すること。
3、批評は、コードそのものを明らかにすること(解読すること)。
 1については、「契約書にサインする前に契約内容をよく確認しましょう」という注意と同レベルである。しかし、私の時代は、その程度のことでも学校では教えてくれなかった。現在は社会人が学校に教えに来る授業もあるらしいが、だったら非社会人も招聘してはどうか。
 2については、次の文章が参考になる。


《与えられた選択肢の中からは何も選びたくない・選べないのに何かを選ぶ以外ない、「ひとつの可能性」を自ら選ぶのではなく受動的に選ばされていく、しかもその選んだものさえもが一山いくらで取替え可能なものでしかなく、他人の人生を本当には決して左右し得ない、という意味での《メタリアル》の感覚》(ゲーム的メタリアルと労働のメタリアル - sugitasyunsukeの日記


 我々はゲームへの参加を主体的に選ぶことなく受動的に選ばされ、選択したという自覚もないままに、どこかで選択を行ったことにされてしまう(した覚えの無い、国家へ全権利を委譲するという「契約」をしたことにされる社会契約論と同じ)。だから、そのような選択が存在するということを可視化すること。
 しかし、それは、私の選択にあまりに多くのものを負わせることになるかもしれない。そして、その負担を忌避したいと思う子どももいるかもしれない。
 3については、『マトリックス』のネオは、世界を成立させているコードを見ることができるようになることで、その世界から脱出するが、そのための手助けをするのが批評の役割ではないだろうか。


 議論がかなり散漫になりましたが、ツッコミがあれば、もう少し焦点を絞って書き直すつもりはあります。

*1:現代の日本において尊敬されるのは、博識な人ではなく現実を知っている人である。

*2:たとえその批判がコンテンツ(内容)のみに関わるものであるとしても、非現実的であるはずのコンテンツがどのように現実に影響を及ぼすかという問題は残る。現実に影響を及ぼす限りにおいてそれは現実的であるのか、それとも非現実的であるものは現実には一切影響を及ぼさないとすれば、非現実的であることが真面目に批判されねばならない理由はどこにあるのだろうか?