7、大人と子どもの戦い

 自分の夢がなく、他人の夢をかなえることを自分の夢とする主人公の夢原のぞみは、「欲望とは他者の欲望である」というラカンのテーゼを地で行くキャラクターである。ちなみに口癖は「けって〜い(決定)!!」で、そこに「決断主義」との関係を見てもよいかもしれない。ただし、「決断主義」がシニカルなのに対して、のぞみは、ベタ(天然ボケ)である。
 斎藤美奈子の『紅一点論』で悪の組織の女ボスはオールドミスのメタファーであるという意味の指摘がなされていたが、『プリキュア5』ではもっと全面的に、敵対する悪の組織「ナイトメア」は企業に似た形態を取っている。役職があり(アルバイトもおり)、ノルマがあり、成績が悪いとちくちく上司から嫌味を言われ、給料制であるらしく、「管理職の私には、残業代が出ないのでね」と敵の一人は言い、「あー、昨日は楽しかったなー。今日から仕事かー。まったく胃が痛いよ。」などとぼやく。
 のぞみたちが自分や他人の夢を大事にするのに対して、ナイトメアのメンバーたちは、「夢なんて見るもんじゃない」「現実は甘くない」と執拗に夢見ることを否定する*1
プリキュア5』は、「非現実的な夢など見るのはやめて、現実を見ろ」という大人の圧力に対して自分たちの夢を守り続けようとする子どもたちの物語になっている。「大人になれ」VS「子どものままでいたい」*2というのが、『プリキュア5』の根底にある図式である。


 少年ヒーローおよび少女ヒロインが大人たちの悪の組織と戦うという設定は日本*3の子ども向けコンテンツにおいて連綿と受け継がれてきたモチーフである。非現実的というなら、これほど非現実的な設定は無いだろう。敗戦の影響を指摘する人もいるが、敗戦以前にもあったモチーフであるので、それだけが原因ではなく、何か深いところで子どもの心に響くようなものがあると考えられる*4
 私は、それは、この社会で大人対子どもの戦争が行われてきたからだと考える。「戦争」という言葉を用いたのは誇張ではない。武器こそ用いられないが、それは戦争にも似た激しい戦いである。戦場のほとんどが目に見えない領域なので、目立たないだけである。
 もちろん、大人に対する子どもの戦いは絶望的なものにならざるを得ない。
 親(大人)が本気で子供(子ども)を殺そうとしたなら、子供は逃げることはできない、精神的にも社会的にも経済的にも。これは、桐生祐狩『夏の滴』に見られる認識である。この作品は、コード主義の特徴をよく備えている。

これ以降も桐生祐狩の作風として


「大人が子供に理不尽なゲームを押しつけてくるのは前提だ」


「無垢で無知な者は、より高次からゲームを行う者によって《喰いもの》にされざるをえない」


「闘わない子供は、親によって設計・建設された《失敗した世界》の滋養として殺される」


という作品を描き続けることとなる。


2007-05-31

 乙木氏は、この作風を95年以降の世相と絡めて理解しているが、そのはるか以前から社会はそのようであった。
 大人としては、社会を強化するためには子どもをどんどん増やさねばならない。しかし、非社会的(あるいは、反社会的)な存在である子どもは、なるべく数を抑えたい。だから、大人が子どもに対して取る戦略はまず、子どもの存在を認めない(子どもを「小さな大人」と見なし、働き手とする)。さもなくば、成人年齢をなるべく低く設定する。
 現代の日本にはどちらとも該当しないと思われるかも知れないが、最近の若者は子どもっぽい(未成熟)と非難するのに、成人年齢を18歳に引き下げようとするとする矛盾した動きがあるのは、こうした戦略の一環であると説明可能である。
 大人に対する子どもの戦いのほとんどは戦いにすらならない(しない)という仕方で封殺される。だから、ほとんどの子どもは自らの生きづらさの原因が親(大人)との戦争にあると意識してはいないし、うまくすれば(?)生きづらさを感じる前に、大人に取り込まれる。
 もちろん、子供は生存そのものを親に依存し、親を憎むだけでなく親を愛してもいるので、親に対する敵意は、抑圧され意識に上ることすら稀である(親に生存の大半を依存している以上、親に対する敵意を露にすることは生存の危機を意味するというもっと即物的な理由もある)。そして、抑圧され意識に上ることすらない大人と子どもの戦争を語るための装置が子どものヒーローが大人たちの悪の集団と戦うという物語である。だから、子どもたちはそのようなアニメ・マンガに熱中し、大人たちはある程度成長した子どもたちに対して「アニメ・マンガなんて見るのはもう止めなさい」としきりに言う。
 もし子どもが子どもであり続けようとするならば親殺しを敢行せねばならないのだが、親殺しこそ親となるための通過儀礼(ゲームへの参加手続き)であるというジレンマがある。そのジレンマをどのように解決すればよいのか? 今の私には分からないが、例えば、子どものものであるアニメやマンガを見続けるオタクは、何とかして子どものままで社会に参加しようとする抵抗運動(カウンターカルチャー)であると見なすこともできるだろう。
 さらに話を広げると、現代社会において、既に大人になった人が子どもとなる、手っ取り早い方法は、消費者となることである(オタクはエリート消費者の側面を持っている)。すなわち、「お客様は子供である」。
コラム「研究員のココロ」−お客様は神様でない


 もしかすると、「決断主義」者は子どものままあえて大人を信じているふりをするだけであると言うかも知れない。しかし、大人を信じているふりをすることが大人になることなのである。それは『コードギアス』のスザクの手法、大人の作ったルールに従って内側から大人社会を変革するという手法に類似している。
決断主義」による試行錯誤を経過した後でないと、「現実」を相対化することはできないのかも知れないが、いったん「現実」を受け入れた以上、そのような相対化は実際の行動には影響せず、一種の慰めとして機能するだけである(それはそれで意味のあることだが)。


「子ども」は数量的な概念であると同時に、相対的な概念でもあることが事態をややこしくしている。よく言われるように、「親にとっては子供はいつまでたっても子供」なのであり、年上(上の世代)の者たちにとっては年下(下の世代)の者たちはいつまでたっても「子ども」と見なすことができる。
 世代論が廃れないのは、世代(の順序)を入れ替えることは不可能だからである。世代論を語る限り、安全圏を脅かされることはない。
 そして、幼児の何たるかも知らずに「幼児的」という言葉を用いただけで批判した気になっている。幼児と呼ばれる期間には幅があり、その間幼児は変化する(あえて「成長する」とは言わない)。そして、幼児ですら十人十色で一様ではない。そして幼児の本質が何か、そもそも幼児に本質があるのかさえ分かりはしない(だから、絶対的に正しい子育て法はいまだ発見されていない)。そして、幼児的であるということは幼児そのものであるということではない(本当の幼児のことを幼児的とは言わない)。
 実際、「幼児的」という批判は、欲望そのものに対してというよりは、欲望を充足させる仕方に対して向けられることが多いが、「現実」の幼児はそのような仕方で欲望を充足させはしない。例えば、幼児は現実に恋人を救うことで世界を救ったりはしないし、自分の周囲を自分を盲目的に愛する異性だけで固めることもしない(それはそういった安易な物語を作った作者にしても同様である)。
 大人は子どもに対して「早く大人になれ」と言うが、それは「欲望(夢)を諦めろ」という意味である。


 サバイブすることが単に大人になること(=社会人になること)のみを意味するならば、それは大人にならねば生きていけないように大人が社会を作っているからである。
 悪くない大人などいない。「理不尽なゲーム」に荷担していない大人などいない。そして、子どもが悪というものを知るのは大人によってである。すなわち、善悪の基本概念は親子関係によって成立する(「善い対象」と「悪い対象」(クライン))*5
 大人と子どもを分ける際のキーワードは「現実」である。非常に簡単に言えば、現実的なのが大人で、非現実的なのが子ども(幼児)であるとされる。現実原則と快楽原則が対立概念であるように、現実が現実として意識されるのは欲望の充足が阻害されたときである。だから、現実そのものというものはなく、欲望や快楽と対置されて初めて、現実という言葉は意味を持つ。現実とは第一に欲望を断念させる障害(限界)であり、「現実を見よ」とはほぼ「快楽を断念せよ」と同義である。つまり、「現実を見よ」という言葉は「不幸になれ」という意味である。そして、他人に「不幸になれ」と言う者が悪でないとすれば何であろうか。
 無論、これは社会的コードに従えば、単純すぎる読み替えであろう(快楽の断念=不幸、としている点とか)。だが、今問題にしているのは、社会的コードに従う以前の子どもの側からすればどう見えるかという話である。
 大人の目でオタク系コンテンツを分析する大抵のアニメ・マンガ等の評論の場合であってもそれは同じである。すなわち、「これは現実的であるからよいアニメである」「これは欲望に忠実で非現実的だからダメなアニメである」などと「現実」を基準にして批判する*6

*1:台詞の一部を引用すると、「夢だなんだと騒ぐやつほど実力はないものだ」、「結果がすべてなんだよ」、「希望はどこから生まれている?」「薄い給料袋の中から……」

*2:より正確に言えば、「子どものままで大人になりたい」「子どものままで社会に出たい」となるだろう。

*3:海外の事情は知らないので言及しない。

*4:子どもだから子どもに感情移入しやすいという理由だけだったら、別に大人を相手に戦うというプロットにする必要はないし、戦う相手もまた子どもであってもいいはずである。

*5:だから、大人にとって重要なのは自らの悪を悪と認めた上で、どの悪を拒否し、どの悪を受け入れるかということなのだが、それは大きすぎる問題なのでここでは語らない。

*6:もう少し気の利いた評論になると、「視聴者(読者)の欲望(夢)はこれである」と分析する