6、ゲームに参加しないという戦術

 まず、これまでに明らかになったコード主義的作品の特徴を列挙する。

  • コードが存在する。
  • そのコードは普遍的ではなくローカルなものだが、ゲーム参加者(プレイヤー)にとっては絶対である。
  • コードを破ることはそもそも不可能であるか、ゲームからの脱落を意味する。
  • コード作成者が存在する。
  • プレイヤーは最初コードを全ては知らない。
  • プレイヤーはコードに裏切られる。
  • プレイヤーの目的はコードを解読すること(勝利条件を発見すること)。


 コード主義的作品のメッセージは――ゲームへの参加が社会への参加のメタファーであるとするブロガーたちの前提を共有するとすれば――以下のようなものであると考えられる。


「社会参加は人を幸福にしない。だが、いったん参加すれば抜け出すことはできない」


 なぜ抜け出すことができないのかといえば、ミイラ取りがミイラになるからである。汚れを浄化しようとして汚れの中へ飛び込めば自らも汚れる(『コードギアス』のスザク、『デスノート』の夜神月など)。
 これは人は父を殺すことで父になるというお馴染みの図式である。


 ゲームに参加しないというのは、例えば引きこもりやニートになることである。それはコード主義の否定であり、アーキテクチャへの(間接的)攻撃である。

 さて、ここで注意してもらいたいのは、この二層構造においては、多様なコミュニティの存在が許容されるが、ただひとつ、アーキテクチャそのものを攻撃するコミュニティは認められないことである。
 アーキテクチャそのものを攻撃するコミュニティとは何か。簡単に思いつくのは、いわゆるテロリストである。飛行機を強奪し、ビルを爆破する。これはインフラへの攻撃以外のなにものでもない。しかし、いまや「テロ」の意味は限りなく広がっている。レッシグも挙げていた例だが、アメリカの著作権者団体は、音楽のファイル交換の取り締まりを対テロ戦争になぞらえられたことがある。正当な資格なくインフラを利用し、その恩恵を受ける行為、すなわち「フリーライド」は、たとえ直接の被害者がいなかったとしても、複雑な計算式に基づいた間接的損害によって、すべてテロ行為と見なされる。それが現代
の「リスク管理」の流儀だ。したがって、日本であれば、ニートも、Winnyのユーザーも、広義のテロリストということになるだろう。不法滞在の外国人労働者もそこに含まれる。


『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(pp.780-781)

 それ故、大人=社会の側からの反発は強い。奇妙に足並みの揃った「セカイ系」批判もそのような反発の一種であると考えると納得が行く。
 では、引きこもりとは別の仕方でゲームに参加しないことはできないのか。父にならずに父を否定することはできないのか。
 父にならないとはもっと一般的な言い方をすれば、親とならないこと、大人にならないことである。そして、現代社会では、大人=一人前=社会の一員である。大人にならないとは、逆に言えば、子どもであり続けることである。先の東氏の定義によれば、子供もまた「フリーライダー」になってしまうはずであるが、大人となった際に社会に貢献するという見込みで子どもの「フリーライド」は見逃されている。だから、子どもが大人にならないと言い出したら、大人は直ちに子どもに対して厳しい措置に出るだろう。
 では、ゲームに参加しないという選択肢を示した作品というのはないのだろうか? 最近の作品だと、『Yes!プリキュア5』がそれであるかもしれない。