4、コード主義の躓きの石

 コード主義の躓きの石はコードを作成した者がいることである。それはアーキテクチャが人工物である以上、仕方の無いことではあるが、そのために、コード主義的作品はしばしば、陰謀史観的、勧善懲悪的、目的論的になってしまう。言い換えれば、物語の復活が行われてしまう。非物語あるいは反物語であったはずのコードが作成者の存在によって物語化してしまうのである。
 大抵のコード主義的作品では、コードはコードを作成した者の都合のよいように作られている。そして、コード作成者は大抵、権力・経済力・社会的ステータスを有し、しかも悪意に満ちている。それはまるで「ゲームには初めから欺瞞が含まれているから、ゲームに参加するな」というメッセージを伝えようとしているかのごとくである。
 ここにおいて、コードはルールと同一視されても仕方ないような変容を被る。
 精神分析的に言えば、ルールの制定者とは父親である。『コードギアス』がその典型である。主人公ルルーシュの父親であるブリタニア皇帝は、「弱肉強食」というルールに則ってルルーシュたちを見捨てる。それに対して、ルルーシュは「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ」というルールで対抗しようとする。ルルーシュはルールに対してあくまでルールで対抗しようとするのである。そのことは「黒の騎士団」を「テロリスト」ではなく「正義の味方」だと(皮肉たっぷりにではあるが)規定するところにも表れている。
 いくつかのコード主義的作品の主人公の最終目的は(象徴的)父を殺して自分が新たな父となることである。『コードギアス』がそうだし、『デスノート』の夜神月の目的は「新世界の神(=父)になる」ことだったし、『未来日記』の勝者に与えられるのは次の時空王「デウス・エクス・マキナ」の座である。
 しかし、そのような目的はコードのルール化、物語化という意味でコード主義的ではない。それは、オイディプス三角形の復活に他ならない。
 そういう意味では、コード主義は実際にはいまだルール主義であるとも言える。真のコード主義とは、「誰がコードを管理しているか、ではなく、コードがエージェントや管理システムをどのように生成しているのかを問う」(ウィリアム・ボガード『監視ゲーム−プライヴァシーの終焉−』p.202) 姿勢のことである。
 コード主義的作品として私が高く評価するのは、いささか古い作品になるが(1989年)、『機動警察パトレイバー the Movie』(劇場版第1作)である。天才プログラマーの帆場英一(E.HOBA)が冒頭で自殺し、以降、作成者不在のままプログラム(コード)だけが作動し続け、レイバーの暴走事件を引き起こす。そして、特車二課第2小隊のメンバーが事件の真相にたどり着いたとき、自分たちが不在のコード作成者の手のひらの上で踊らされていたことを知るという結末は極めてコード主義的だと思う。