3、「コード主義」とは何か?

 なぜルールとコードを分けるかと言えば、コード主義においては現実社会のルール(法律)はしばしば無視されるからである(ついでに言えば、自然法則も)。そして、法律が公開されていなければならないのに対して*1、コードは隠されたままでも構わないからである。法律は公開が原則であるが、コードは暗号という意味も持つように、隠されている状態が普通である。すなわち、コードはデコード(解読)を必要とする。
 コード主義的作品において、コードは最初大部分(時には全て)隠されている。プレイヤーは周囲の状況を観察したり主催者側の説明を反芻したりして、コードを解読していく。その過程が緊迫した物語を生む。
 ここでこの二つの概念にさらに「ロー」(law)という概念を加えた上で整理しておこう。
 ローはそもそも違反することができない規則(法則)である。自然法則(natural law)が典型である。ルールは違反することは可能だが、違反した場合には何らかのペナルティ(罰則)がある。コードはゲーム(プログラム)内にいる限り違反することができないが、ゲームの外に出ればその限りではない。逆に言えば、コードに違反することはゲームからの脱落を意味する。
 ローは自然によって、ルールは権力(法律)によって、コードはアーキテクチャーによって裏打ちされている。
 ルールとコードとを分けるのは、リカバリの可能性の有無である。ルール違反をしても社会から抹殺されることはなく、しかるべきペナルティを受けた上で社会に復帰することを認められるという意味で、ルール違反者もまたあくまで社会内に留まる。しかし、コードに違反した者は、ゲーム外に排除される。最悪の場合、それは死を意味する。だからこそ、それは「サバイブ感」と結び付けられる。しかし、それは必然的な結び付きというわけではなく(ゲームからの脱落が必ずしも死を意味するとは限らない)、その意味でそれらを結び付けているコード主義の特異性が目立つ。
 さらに言えば、ルールが人間を「主体」と見なすのに対して、コードは人間を「駒」(プログラム上の変数)と見なす。ルルーシュがチェス好きで、敵味方の兵士をチェスの駒に見立てて戦略を練るのは象徴的である。コード(アーキテクチャ)は特定の個人をターゲットとしない。言い換えれば、人格的なものには不干渉である。


 コード主義的作品のテーマとは、「ゲーム*2に参加する者はコードに裏切られる」というものであると言ってもよいかと思う。『デスノート』、『ぼくらの』、『カイジ』、『ライアーゲーム』、『コードギアス』、全て何らかの意味で主人公たちがコードに裏切られる話である*3
 その原因は、前にも言ったとおり、コードが隠されているからである。
 ゲームに参加するのはあくまで個人の自由意志とされている(その自由が本当に自由なのかどうかは怪しいが)。そして自由意志によってゲームに参加したというその事実が、参加者をコードに縛り付ける。コード作成者の側からすれば、ゲームに参加させさえすれば、後はこっちのものである。これは「社会契約論」のロジックに似ている。
 途中でゲームから降りることも可能とされる場合もあるが、その場合でも、途中までゲームに参加してきた人たちは、実質、降りることができないようゲームに絡め取られている。そして、降りることが可能であるにもかかわらず、降りずにゲーム続行を決定したという事実が、コードへの束縛を再強化する。「社会契約論」的なロジックで言うなら、国家の場合は亡命することが許されているのにそうしなかったという事実がそれに当たる。
 一方、否応なくゲームに参加させられる作品もある。『バトルロワイヤル』、『SAW』、『キューブ』、『Gantz』。これらの作品では、無理矢理閉鎖状況に陥れられる。その上でコードの(一部の)説明がある場合もあれば、全然無い場合もある。
 ゲームのコードは当初大部分が隠されている。というより、プレイヤーに与えられる情報は、ルール化(物語化)されたコードにすぎないと言ったほうがよいかもしれない(プログラミング言語みたいなものか)。
 だから、提示されるルールは不完全だし、提示されたルールと無矛盾である限り、新たなルールはいくらでも追加されうる。そして、プレイヤーの目的はコードを解読することとなる。だが、それだけに終わらず、さらにコードを作成した者を発見することが目的となる物語もある。
 しかし、この両者(コード解読と作成者の発見)は微妙に異なる。そこに、コード主義の躓きの石が潜んでいる。

*1:それはゲームやスポーツのルールも同じである。一部のルールが非公開のゲームやスポーツというものはありえない。

*2:「ゲーム」という言葉は「ルール」と親和性が高いのでこれも別の言葉にすべきかもしれない。しかし、そうするとかえって分かりにくくなる場合があるので、以降もコードが適用される領域という意味で「ゲーム」という言葉を用いる。アナログのゲームではなくデジタルゲームを念頭に置いて理解して欲しい。

*3:桜坂洋ALL YOU NEED IS KILL』の主人公キリヤの「このクソったれな世界には、どうやらクソったれなルールがあるらしい」という言葉は、そのようなコード(ここでは「ルール」と呼ばれているが)に対するプレイヤーの感情をよく表現している。ちなみに、このライトノベルも「コード主義」に含めてよい作品だと思う。