1、「ルール主義」とは何か

・araig:net - 「ゼロ年代の想像力」における「決断主義」という言葉がいまいちピンとこないので、自分なりに考えてみる(リンク切れ)


 続きが書かれるのを待っていたのだが、なかなか書かれる様子がないので、仕方なく見切り発車して書き上げた文章をアップすることにした。途中からどんどん関係ない話になっていくが、その点はご容赦願いたい。


 arignetさんはゼロ年代の作品(の一部)を分析して、それらに対して「ルール主義」という名を与えている。
 ところで、「ルール主義」と言われて私が真っ先に思い浮かぶのはミステリである。ミステリといっても人によってイメージが異なるらしいので補足しておくと、昔は(今も?)「探偵小説」「推理小説」と呼ばれていたジャンルで、少し前に「新本格」がブームとなったミステリのことである。
 しかし、araignetさんが挙げている作品を見ると、ミステリはルール主義に含まれないようである。どうやらミステリにおける「ルール」と、ルール主義的作品における「ルール」とでは異なるようである。
 前者については、例えば「ノックスの十戒」は、ミステリというジャンル共通のルールとして提示された。他にも「地の文で嘘をつかない」などが代表的なルールであろう。そして、それらのルールを破るミステリは「フェアではない」などの批判を受ける。新本格ムーブメントはルール原理主義運動であったと言うことも可能であろう。
 それに対して、ルール主義的作品においては、ルールはあくまで物語内にのみ限定されるローカルルールである。だから、ルール主義的作品の見せ所の一つは、どのようなルールを設定するかである。それによってその作品の面白さが大きく左右される。以上の意味においては、それはゲームのルールに近い。
 だとすれば、ゲームやスポーツを扱った物語もルール主義と呼べそうである。例えば、野球マンガでは、登場人物たちは野球のルールに従って野球をやっている*1。昔から山のようにあるそれらの物語が、ここで言うルール主義から除外されるならば、重要となってくるのが「サバイブ感」という概念であるのだろう。スポーツや遊戯としてゲームにおいては、いくらルールを破ったり負けたりしようとも、命に関わることはない。物語内のゲームやスポーツは物語内物語のようなもので、登場人物の現実(生命)には直接影響を与えない。それに対して、ルール主義的作品におけるルールは、登場人物の現実(生命)を侵食し、それを脅かすものである*2

*1:もちろん、野球の試合以外の時まで野球のルールに従っているわけではない。だが、それを言うならカイジだって、日常生活までゲームのルールに従って送っているわけではないので、『カイジ』をルール主義から外さねばならなくなるだろう。他の作品も同様である。

*2:だから、『アカギ』の鷲巣麻雀は、命を賭けているが故に、ルール主義に含めることができるかもしれない。