1、「ルール主義」とは何か

・araig:net - 「ゼロ年代の想像力」における「決断主義」という言葉がいまいちピンとこないので、自分なりに考えてみる(リンク切れ)


 続きが書かれるのを待っていたのだが、なかなか書かれる様子がないので、仕方なく見切り発車して書き上げた文章をアップすることにした。途中からどんどん関係ない話になっていくが、その点はご容赦願いたい。


 arignetさんはゼロ年代の作品(の一部)を分析して、それらに対して「ルール主義」という名を与えている。
 ところで、「ルール主義」と言われて私が真っ先に思い浮かぶのはミステリである。ミステリといっても人によってイメージが異なるらしいので補足しておくと、昔は(今も?)「探偵小説」「推理小説」と呼ばれていたジャンルで、少し前に「新本格」がブームとなったミステリのことである。
 しかし、araignetさんが挙げている作品を見ると、ミステリはルール主義に含まれないようである。どうやらミステリにおける「ルール」と、ルール主義的作品における「ルール」とでは異なるようである。
 前者については、例えば「ノックスの十戒」は、ミステリというジャンル共通のルールとして提示された。他にも「地の文で嘘をつかない」などが代表的なルールであろう。そして、それらのルールを破るミステリは「フェアではない」などの批判を受ける。新本格ムーブメントはルール原理主義運動であったと言うことも可能であろう。
 それに対して、ルール主義的作品においては、ルールはあくまで物語内にのみ限定されるローカルルールである。だから、ルール主義的作品の見せ所の一つは、どのようなルールを設定するかである。それによってその作品の面白さが大きく左右される。以上の意味においては、それはゲームのルールに近い。
 だとすれば、ゲームやスポーツを扱った物語もルール主義と呼べそうである。例えば、野球マンガでは、登場人物たちは野球のルールに従って野球をやっている*1。昔から山のようにあるそれらの物語が、ここで言うルール主義から除外されるならば、重要となってくるのが「サバイブ感」という概念であるのだろう。スポーツや遊戯としてゲームにおいては、いくらルールを破ったり負けたりしようとも、命に関わることはない。物語内のゲームやスポーツは物語内物語のようなもので、登場人物の現実(生命)には直接影響を与えない。それに対して、ルール主義的作品におけるルールは、登場人物の現実(生命)を侵食し、それを脅かすものである*2

*1:もちろん、野球の試合以外の時まで野球のルールに従っているわけではない。だが、それを言うならカイジだって、日常生活までゲームのルールに従って送っているわけではないので、『カイジ』をルール主義から外さねばならなくなるだろう。他の作品も同様である。

*2:だから、『アカギ』の鷲巣麻雀は、命を賭けているが故に、ルール主義に含めることができるかもしれない。

2、ルールは物語か?

 しかし、そうなると疑問が出てくる。araignetさんはルール主義におけるルールを「法」と同一視している。だとすれば、ルールもまた物語なのだろうか?
 というのも、一般的には法律は一定の条文を備え、「主体」へと呼びかける物語的なものであるからである。東浩紀氏の分類に従えば、法は「環境管理型権力」ではなく、「規律訓練型権力」に属するものである。
 ローレンス・レッシグは規制を「法律」「規範」「市場」「アーキテクチャ」の四つに分けた。東氏は、レッシグを参照しつつ、現代社会の秩序を価値観とインフラの分離という二層構造(「ポストモダンの二層構造」)で捉える。前者はコミュニティ/イデオロギーの層であり、後者はインフラ/アーキテクチャの層である。「法律」は前者に属する。
 しかし、ルールがそのようなものだとしたらこれまで(95年以前)と変わらないであろう。ルール主義的作品の新しさ――そんなものがあるとして――を表現できていないという意味で、「ルール主義」という名称はミスリーディングである。なぜなら、ルール主義的作品は、アンチ・ルール的であるから。言い換えれば、アーキテクチャに関わるものだから。だから、よりその特徴を明確にするために、私は「ルール主義」ではなく「コード主義」という名称を提案したい。「行動主義」みたいだし、『コードギアス』とも掛かっているので悪くない名称かなと自負している(笑)。

3、「コード主義」とは何か?

 なぜルールとコードを分けるかと言えば、コード主義においては現実社会のルール(法律)はしばしば無視されるからである(ついでに言えば、自然法則も)。そして、法律が公開されていなければならないのに対して*1、コードは隠されたままでも構わないからである。法律は公開が原則であるが、コードは暗号という意味も持つように、隠されている状態が普通である。すなわち、コードはデコード(解読)を必要とする。
 コード主義的作品において、コードは最初大部分(時には全て)隠されている。プレイヤーは周囲の状況を観察したり主催者側の説明を反芻したりして、コードを解読していく。その過程が緊迫した物語を生む。
 ここでこの二つの概念にさらに「ロー」(law)という概念を加えた上で整理しておこう。
 ローはそもそも違反することができない規則(法則)である。自然法則(natural law)が典型である。ルールは違反することは可能だが、違反した場合には何らかのペナルティ(罰則)がある。コードはゲーム(プログラム)内にいる限り違反することができないが、ゲームの外に出ればその限りではない。逆に言えば、コードに違反することはゲームからの脱落を意味する。
 ローは自然によって、ルールは権力(法律)によって、コードはアーキテクチャーによって裏打ちされている。
 ルールとコードとを分けるのは、リカバリの可能性の有無である。ルール違反をしても社会から抹殺されることはなく、しかるべきペナルティを受けた上で社会に復帰することを認められるという意味で、ルール違反者もまたあくまで社会内に留まる。しかし、コードに違反した者は、ゲーム外に排除される。最悪の場合、それは死を意味する。だからこそ、それは「サバイブ感」と結び付けられる。しかし、それは必然的な結び付きというわけではなく(ゲームからの脱落が必ずしも死を意味するとは限らない)、その意味でそれらを結び付けているコード主義の特異性が目立つ。
 さらに言えば、ルールが人間を「主体」と見なすのに対して、コードは人間を「駒」(プログラム上の変数)と見なす。ルルーシュがチェス好きで、敵味方の兵士をチェスの駒に見立てて戦略を練るのは象徴的である。コード(アーキテクチャ)は特定の個人をターゲットとしない。言い換えれば、人格的なものには不干渉である。


 コード主義的作品のテーマとは、「ゲーム*2に参加する者はコードに裏切られる」というものであると言ってもよいかと思う。『デスノート』、『ぼくらの』、『カイジ』、『ライアーゲーム』、『コードギアス』、全て何らかの意味で主人公たちがコードに裏切られる話である*3
 その原因は、前にも言ったとおり、コードが隠されているからである。
 ゲームに参加するのはあくまで個人の自由意志とされている(その自由が本当に自由なのかどうかは怪しいが)。そして自由意志によってゲームに参加したというその事実が、参加者をコードに縛り付ける。コード作成者の側からすれば、ゲームに参加させさえすれば、後はこっちのものである。これは「社会契約論」のロジックに似ている。
 途中でゲームから降りることも可能とされる場合もあるが、その場合でも、途中までゲームに参加してきた人たちは、実質、降りることができないようゲームに絡め取られている。そして、降りることが可能であるにもかかわらず、降りずにゲーム続行を決定したという事実が、コードへの束縛を再強化する。「社会契約論」的なロジックで言うなら、国家の場合は亡命することが許されているのにそうしなかったという事実がそれに当たる。
 一方、否応なくゲームに参加させられる作品もある。『バトルロワイヤル』、『SAW』、『キューブ』、『Gantz』。これらの作品では、無理矢理閉鎖状況に陥れられる。その上でコードの(一部の)説明がある場合もあれば、全然無い場合もある。
 ゲームのコードは当初大部分が隠されている。というより、プレイヤーに与えられる情報は、ルール化(物語化)されたコードにすぎないと言ったほうがよいかもしれない(プログラミング言語みたいなものか)。
 だから、提示されるルールは不完全だし、提示されたルールと無矛盾である限り、新たなルールはいくらでも追加されうる。そして、プレイヤーの目的はコードを解読することとなる。だが、それだけに終わらず、さらにコードを作成した者を発見することが目的となる物語もある。
 しかし、この両者(コード解読と作成者の発見)は微妙に異なる。そこに、コード主義の躓きの石が潜んでいる。

*1:それはゲームやスポーツのルールも同じである。一部のルールが非公開のゲームやスポーツというものはありえない。

*2:「ゲーム」という言葉は「ルール」と親和性が高いのでこれも別の言葉にすべきかもしれない。しかし、そうするとかえって分かりにくくなる場合があるので、以降もコードが適用される領域という意味で「ゲーム」という言葉を用いる。アナログのゲームではなくデジタルゲームを念頭に置いて理解して欲しい。

*3:桜坂洋ALL YOU NEED IS KILL』の主人公キリヤの「このクソったれな世界には、どうやらクソったれなルールがあるらしい」という言葉は、そのようなコード(ここでは「ルール」と呼ばれているが)に対するプレイヤーの感情をよく表現している。ちなみに、このライトノベルも「コード主義」に含めてよい作品だと思う。

4、コード主義の躓きの石

 コード主義の躓きの石はコードを作成した者がいることである。それはアーキテクチャが人工物である以上、仕方の無いことではあるが、そのために、コード主義的作品はしばしば、陰謀史観的、勧善懲悪的、目的論的になってしまう。言い換えれば、物語の復活が行われてしまう。非物語あるいは反物語であったはずのコードが作成者の存在によって物語化してしまうのである。
 大抵のコード主義的作品では、コードはコードを作成した者の都合のよいように作られている。そして、コード作成者は大抵、権力・経済力・社会的ステータスを有し、しかも悪意に満ちている。それはまるで「ゲームには初めから欺瞞が含まれているから、ゲームに参加するな」というメッセージを伝えようとしているかのごとくである。
 ここにおいて、コードはルールと同一視されても仕方ないような変容を被る。
 精神分析的に言えば、ルールの制定者とは父親である。『コードギアス』がその典型である。主人公ルルーシュの父親であるブリタニア皇帝は、「弱肉強食」というルールに則ってルルーシュたちを見捨てる。それに対して、ルルーシュは「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ」というルールで対抗しようとする。ルルーシュはルールに対してあくまでルールで対抗しようとするのである。そのことは「黒の騎士団」を「テロリスト」ではなく「正義の味方」だと(皮肉たっぷりにではあるが)規定するところにも表れている。
 いくつかのコード主義的作品の主人公の最終目的は(象徴的)父を殺して自分が新たな父となることである。『コードギアス』がそうだし、『デスノート』の夜神月の目的は「新世界の神(=父)になる」ことだったし、『未来日記』の勝者に与えられるのは次の時空王「デウス・エクス・マキナ」の座である。
 しかし、そのような目的はコードのルール化、物語化という意味でコード主義的ではない。それは、オイディプス三角形の復活に他ならない。
 そういう意味では、コード主義は実際にはいまだルール主義であるとも言える。真のコード主義とは、「誰がコードを管理しているか、ではなく、コードがエージェントや管理システムをどのように生成しているのかを問う」(ウィリアム・ボガード『監視ゲーム−プライヴァシーの終焉−』p.202) 姿勢のことである。
 コード主義的作品として私が高く評価するのは、いささか古い作品になるが(1989年)、『機動警察パトレイバー the Movie』(劇場版第1作)である。天才プログラマーの帆場英一(E.HOBA)が冒頭で自殺し、以降、作成者不在のままプログラム(コード)だけが作動し続け、レイバーの暴走事件を引き起こす。そして、特車二課第2小隊のメンバーが事件の真相にたどり着いたとき、自分たちが不在のコード作成者の手のひらの上で踊らされていたことを知るという結末は極めてコード主義的だと思う。

5、いかにしてコード主義から逃れるか?

 コード主義から逃れる方法は、ぱっと思いつく限りで二つある。最初からゲームに参加しないという方法と、コードの抜け穴を見つけるという方法である。
 前者は、例えば引きこもりという方法である。
 後者はさらに、コード作成者が意図した抜け穴と意図しない抜け穴(盲点、バグ)とがある。『カイジ』には両方が見られる。
 だが、こちらの脱出法には難点がある。前述したように、コードがルール化してしまうのである。その場合、ゲームの勝者となること=ルールをくつがえすこと、ではない。
 それどころか、勝者は勝者となったが故に、自らを勝者にしたルールの存続を願う。少なくとも、積極的にルール改変を望むことはなくなる。せっかく勝者となっても、新たなルールの下では敗者となるかもしれないからである。
 だから、ゲームに勝つという仕方では、本当の意味でゲーム(コード)から逃れることはできない。


 さらに、間違えてはいけないのは、必ずしもゲームに勝利すれば生き残れるわけではないし、必ずしもゲームに敗北すれば死ぬわけでもないということである。
 前者については『ぼくらの』が分かりやすい例である。ジアースの操縦者となった者は、敵に勝っても負けても死ぬ(もちろん、戦わなくても死ぬ)。それは理不尽だが、必ずしも非現実的なことではない。人はゲームに勝ち続ければ永遠に生き続けられるわけではなく、どんな人もやがて死ぬ。ゲームの勝敗とは関係なく死ぬ。それは50年後かもしれないし、明日かもしれない。
 後者については、サバイブという概念自体が批判されねばならない。より正確にはゲームの勝敗とサバイブとを結び付ける思考に対して否を突きつけねばならない。
 問題はサバイブできない者でも生きていけるということなのである。
 サバイブにも強い意味でのサバイブと弱い意味でのサバイブがある。泥をすすってでも生き延びるのが強い意味でのサバイブであるとすれば、弱い意味でのサバイブは、そうなってしまったら失敗であると言える。「サバイブ感」と言うときのサバイブとは、明らかに後者の意味である*1。さもなくば、文字通りのサバイバル術をもっと重視するはずであるから。
決断主義」的物語内ではともかく、「サバイブ感」を抱いていると言われる現代の若者が直面している状況は、生きるか死ぬかの極限状況ではない。少なくとも、現在の日本社会においてはそうである*2。例えば、飢餓に苦しむ難民とか、生まれたときからずーっと戦争状態にある紛争地域の住民と比べれば、その切迫性には格段の違いがある。
 だから、ここで言う「サバイブ感」とは、社会のミドルクラス以上に食い込めるかどうかという問題である。サバイブに失敗するとは、死ぬことではなくて、ワーキングプアとかネットカフェ難民とかホームレスなどといった下流市民になることである*3。それがなぜ「サバイブ」という大げさな形容で呼ばれるのか? それは日本人が下流市民となることに対して多大な怯えを抱いているからである。ほとんどの日本人にとってはそれは死にも等しい。それは贅沢な怯えだが、その贅沢さを批判しても意味はない。むしろ、その怯えを原因から解体せねばならない。すなわち、下流市民となることはサバイブ失敗、人間失格であるという思い込みを解体せねばならない(下流市民となるのを黙って受け入れろという意味ではない)。
 あるいは、もし「サバイブ感」が究極まで高まったとしたら、それは「いつ死ぬか分からない」「明日、死ぬかもしれない」という感覚になるだろう。そして、その場合、楽しみを先延ばしにして勉強したり働いたりすることに意味を見出すことが困難になるだろう。したがって、「サバイブ感」を最も切実に感じている者は享楽的に生きるという逆説が生じるようにも思う。
 引きこもりが親への依存によって成立しており、両親が亡くなってしまえば引きこもることなどできなくなるとしても、それならば親が死ぬ前に自分が死んでしまえば、一生引きこもりでいることができるという理屈になる。
 引きこもりや幼児性を引きずっていることが当人にやがて苦しみをもたらすとしても、それは人並みに生き続ければの話である。社会に出ざるを得なくなる前に死んでしまえば、そのような苦しみに直面することなく一生を終えることも可能である。だから、むしろそういった人たちにとっての問題は生き続けてしまうということ、老いるということである。それは逆転した「サバイブ感」である。
 そうなったとき、自殺する場合もあれば、犯罪を犯して死刑を望むこともあれば、戦争を望むこともあるだろう(もちろん、何もしない場合もあるだろう)。
 彼らにとっては生き続けることは苦痛であるのだから、「サバイブするために努力せよ」「ゲームに参加せよ」と忠告しても、彼らには届かないだろう。


 話が脱線したが、一言で言えば、「サバイブ感」のサバイブとはあくまで社会的なサバイブなのである。だから、ゲームの勝者になることは社会的なもの(コミュニティの層とアーキテクチャの層)の再生産に寄与することである。ゲームは続き、コードは温存される。
 我々が「サバイブ感」を重視するとき既にコード(アーキテクチャ)に絡め取られている*4
 そのような意味でのコードから逃れるためにはどうすればよいのか?
 すなわち、ゲームをどうやってやめるか、ゲームからどうやって抜けるのか?
 次は、さきほど軽く触れただけの「最初からゲームに参加しない」という方法について考えてみよう。

*1:サバイブの意味を広げれば、引きこもりだって一種のサバイブであると見なすこともできるだろう。ただ、サバイブするために自分の稼ぎを使うか、親の稼ぎを使うかという違いがあるだけである。

*2:だから、「試行錯誤」が推奨される。失敗が即、死を意味するわけでないから。

*3:ドラゴン桜』はあからさまにそうである。

*4:「決断」ということと絡めれば、決断しないこともまた決断として回収されてしまうのがコード主義である。それは主に時間と空間が限定されていることによる。

6、ゲームに参加しないという戦術

 まず、これまでに明らかになったコード主義的作品の特徴を列挙する。

  • コードが存在する。
  • そのコードは普遍的ではなくローカルなものだが、ゲーム参加者(プレイヤー)にとっては絶対である。
  • コードを破ることはそもそも不可能であるか、ゲームからの脱落を意味する。
  • コード作成者が存在する。
  • プレイヤーは最初コードを全ては知らない。
  • プレイヤーはコードに裏切られる。
  • プレイヤーの目的はコードを解読すること(勝利条件を発見すること)。


 コード主義的作品のメッセージは――ゲームへの参加が社会への参加のメタファーであるとするブロガーたちの前提を共有するとすれば――以下のようなものであると考えられる。


「社会参加は人を幸福にしない。だが、いったん参加すれば抜け出すことはできない」


 なぜ抜け出すことができないのかといえば、ミイラ取りがミイラになるからである。汚れを浄化しようとして汚れの中へ飛び込めば自らも汚れる(『コードギアス』のスザク、『デスノート』の夜神月など)。
 これは人は父を殺すことで父になるというお馴染みの図式である。


 ゲームに参加しないというのは、例えば引きこもりやニートになることである。それはコード主義の否定であり、アーキテクチャへの(間接的)攻撃である。

 さて、ここで注意してもらいたいのは、この二層構造においては、多様なコミュニティの存在が許容されるが、ただひとつ、アーキテクチャそのものを攻撃するコミュニティは認められないことである。
 アーキテクチャそのものを攻撃するコミュニティとは何か。簡単に思いつくのは、いわゆるテロリストである。飛行機を強奪し、ビルを爆破する。これはインフラへの攻撃以外のなにものでもない。しかし、いまや「テロ」の意味は限りなく広がっている。レッシグも挙げていた例だが、アメリカの著作権者団体は、音楽のファイル交換の取り締まりを対テロ戦争になぞらえられたことがある。正当な資格なくインフラを利用し、その恩恵を受ける行為、すなわち「フリーライド」は、たとえ直接の被害者がいなかったとしても、複雑な計算式に基づいた間接的損害によって、すべてテロ行為と見なされる。それが現代
の「リスク管理」の流儀だ。したがって、日本であれば、ニートも、Winnyのユーザーも、広義のテロリストということになるだろう。不法滞在の外国人労働者もそこに含まれる。


『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(pp.780-781)

 それ故、大人=社会の側からの反発は強い。奇妙に足並みの揃った「セカイ系」批判もそのような反発の一種であると考えると納得が行く。
 では、引きこもりとは別の仕方でゲームに参加しないことはできないのか。父にならずに父を否定することはできないのか。
 父にならないとはもっと一般的な言い方をすれば、親とならないこと、大人にならないことである。そして、現代社会では、大人=一人前=社会の一員である。大人にならないとは、逆に言えば、子どもであり続けることである。先の東氏の定義によれば、子供もまた「フリーライダー」になってしまうはずであるが、大人となった際に社会に貢献するという見込みで子どもの「フリーライド」は見逃されている。だから、子どもが大人にならないと言い出したら、大人は直ちに子どもに対して厳しい措置に出るだろう。
 では、ゲームに参加しないという選択肢を示した作品というのはないのだろうか? 最近の作品だと、『Yes!プリキュア5』がそれであるかもしれない。

7、大人と子どもの戦い

 自分の夢がなく、他人の夢をかなえることを自分の夢とする主人公の夢原のぞみは、「欲望とは他者の欲望である」というラカンのテーゼを地で行くキャラクターである。ちなみに口癖は「けって〜い(決定)!!」で、そこに「決断主義」との関係を見てもよいかもしれない。ただし、「決断主義」がシニカルなのに対して、のぞみは、ベタ(天然ボケ)である。
 斎藤美奈子の『紅一点論』で悪の組織の女ボスはオールドミスのメタファーであるという意味の指摘がなされていたが、『プリキュア5』ではもっと全面的に、敵対する悪の組織「ナイトメア」は企業に似た形態を取っている。役職があり(アルバイトもおり)、ノルマがあり、成績が悪いとちくちく上司から嫌味を言われ、給料制であるらしく、「管理職の私には、残業代が出ないのでね」と敵の一人は言い、「あー、昨日は楽しかったなー。今日から仕事かー。まったく胃が痛いよ。」などとぼやく。
 のぞみたちが自分や他人の夢を大事にするのに対して、ナイトメアのメンバーたちは、「夢なんて見るもんじゃない」「現実は甘くない」と執拗に夢見ることを否定する*1
プリキュア5』は、「非現実的な夢など見るのはやめて、現実を見ろ」という大人の圧力に対して自分たちの夢を守り続けようとする子どもたちの物語になっている。「大人になれ」VS「子どものままでいたい」*2というのが、『プリキュア5』の根底にある図式である。


 少年ヒーローおよび少女ヒロインが大人たちの悪の組織と戦うという設定は日本*3の子ども向けコンテンツにおいて連綿と受け継がれてきたモチーフである。非現実的というなら、これほど非現実的な設定は無いだろう。敗戦の影響を指摘する人もいるが、敗戦以前にもあったモチーフであるので、それだけが原因ではなく、何か深いところで子どもの心に響くようなものがあると考えられる*4
 私は、それは、この社会で大人対子どもの戦争が行われてきたからだと考える。「戦争」という言葉を用いたのは誇張ではない。武器こそ用いられないが、それは戦争にも似た激しい戦いである。戦場のほとんどが目に見えない領域なので、目立たないだけである。
 もちろん、大人に対する子どもの戦いは絶望的なものにならざるを得ない。
 親(大人)が本気で子供(子ども)を殺そうとしたなら、子供は逃げることはできない、精神的にも社会的にも経済的にも。これは、桐生祐狩『夏の滴』に見られる認識である。この作品は、コード主義の特徴をよく備えている。

これ以降も桐生祐狩の作風として


「大人が子供に理不尽なゲームを押しつけてくるのは前提だ」


「無垢で無知な者は、より高次からゲームを行う者によって《喰いもの》にされざるをえない」


「闘わない子供は、親によって設計・建設された《失敗した世界》の滋養として殺される」


という作品を描き続けることとなる。


2007-05-31

 乙木氏は、この作風を95年以降の世相と絡めて理解しているが、そのはるか以前から社会はそのようであった。
 大人としては、社会を強化するためには子どもをどんどん増やさねばならない。しかし、非社会的(あるいは、反社会的)な存在である子どもは、なるべく数を抑えたい。だから、大人が子どもに対して取る戦略はまず、子どもの存在を認めない(子どもを「小さな大人」と見なし、働き手とする)。さもなくば、成人年齢をなるべく低く設定する。
 現代の日本にはどちらとも該当しないと思われるかも知れないが、最近の若者は子どもっぽい(未成熟)と非難するのに、成人年齢を18歳に引き下げようとするとする矛盾した動きがあるのは、こうした戦略の一環であると説明可能である。
 大人に対する子どもの戦いのほとんどは戦いにすらならない(しない)という仕方で封殺される。だから、ほとんどの子どもは自らの生きづらさの原因が親(大人)との戦争にあると意識してはいないし、うまくすれば(?)生きづらさを感じる前に、大人に取り込まれる。
 もちろん、子供は生存そのものを親に依存し、親を憎むだけでなく親を愛してもいるので、親に対する敵意は、抑圧され意識に上ることすら稀である(親に生存の大半を依存している以上、親に対する敵意を露にすることは生存の危機を意味するというもっと即物的な理由もある)。そして、抑圧され意識に上ることすらない大人と子どもの戦争を語るための装置が子どものヒーローが大人たちの悪の集団と戦うという物語である。だから、子どもたちはそのようなアニメ・マンガに熱中し、大人たちはある程度成長した子どもたちに対して「アニメ・マンガなんて見るのはもう止めなさい」としきりに言う。
 もし子どもが子どもであり続けようとするならば親殺しを敢行せねばならないのだが、親殺しこそ親となるための通過儀礼(ゲームへの参加手続き)であるというジレンマがある。そのジレンマをどのように解決すればよいのか? 今の私には分からないが、例えば、子どものものであるアニメやマンガを見続けるオタクは、何とかして子どものままで社会に参加しようとする抵抗運動(カウンターカルチャー)であると見なすこともできるだろう。
 さらに話を広げると、現代社会において、既に大人になった人が子どもとなる、手っ取り早い方法は、消費者となることである(オタクはエリート消費者の側面を持っている)。すなわち、「お客様は子供である」。
コラム「研究員のココロ」−お客様は神様でない


 もしかすると、「決断主義」者は子どものままあえて大人を信じているふりをするだけであると言うかも知れない。しかし、大人を信じているふりをすることが大人になることなのである。それは『コードギアス』のスザクの手法、大人の作ったルールに従って内側から大人社会を変革するという手法に類似している。
決断主義」による試行錯誤を経過した後でないと、「現実」を相対化することはできないのかも知れないが、いったん「現実」を受け入れた以上、そのような相対化は実際の行動には影響せず、一種の慰めとして機能するだけである(それはそれで意味のあることだが)。


「子ども」は数量的な概念であると同時に、相対的な概念でもあることが事態をややこしくしている。よく言われるように、「親にとっては子供はいつまでたっても子供」なのであり、年上(上の世代)の者たちにとっては年下(下の世代)の者たちはいつまでたっても「子ども」と見なすことができる。
 世代論が廃れないのは、世代(の順序)を入れ替えることは不可能だからである。世代論を語る限り、安全圏を脅かされることはない。
 そして、幼児の何たるかも知らずに「幼児的」という言葉を用いただけで批判した気になっている。幼児と呼ばれる期間には幅があり、その間幼児は変化する(あえて「成長する」とは言わない)。そして、幼児ですら十人十色で一様ではない。そして幼児の本質が何か、そもそも幼児に本質があるのかさえ分かりはしない(だから、絶対的に正しい子育て法はいまだ発見されていない)。そして、幼児的であるということは幼児そのものであるということではない(本当の幼児のことを幼児的とは言わない)。
 実際、「幼児的」という批判は、欲望そのものに対してというよりは、欲望を充足させる仕方に対して向けられることが多いが、「現実」の幼児はそのような仕方で欲望を充足させはしない。例えば、幼児は現実に恋人を救うことで世界を救ったりはしないし、自分の周囲を自分を盲目的に愛する異性だけで固めることもしない(それはそういった安易な物語を作った作者にしても同様である)。
 大人は子どもに対して「早く大人になれ」と言うが、それは「欲望(夢)を諦めろ」という意味である。


 サバイブすることが単に大人になること(=社会人になること)のみを意味するならば、それは大人にならねば生きていけないように大人が社会を作っているからである。
 悪くない大人などいない。「理不尽なゲーム」に荷担していない大人などいない。そして、子どもが悪というものを知るのは大人によってである。すなわち、善悪の基本概念は親子関係によって成立する(「善い対象」と「悪い対象」(クライン))*5
 大人と子どもを分ける際のキーワードは「現実」である。非常に簡単に言えば、現実的なのが大人で、非現実的なのが子ども(幼児)であるとされる。現実原則と快楽原則が対立概念であるように、現実が現実として意識されるのは欲望の充足が阻害されたときである。だから、現実そのものというものはなく、欲望や快楽と対置されて初めて、現実という言葉は意味を持つ。現実とは第一に欲望を断念させる障害(限界)であり、「現実を見よ」とはほぼ「快楽を断念せよ」と同義である。つまり、「現実を見よ」という言葉は「不幸になれ」という意味である。そして、他人に「不幸になれ」と言う者が悪でないとすれば何であろうか。
 無論、これは社会的コードに従えば、単純すぎる読み替えであろう(快楽の断念=不幸、としている点とか)。だが、今問題にしているのは、社会的コードに従う以前の子どもの側からすればどう見えるかという話である。
 大人の目でオタク系コンテンツを分析する大抵のアニメ・マンガ等の評論の場合であってもそれは同じである。すなわち、「これは現実的であるからよいアニメである」「これは欲望に忠実で非現実的だからダメなアニメである」などと「現実」を基準にして批判する*6

*1:台詞の一部を引用すると、「夢だなんだと騒ぐやつほど実力はないものだ」、「結果がすべてなんだよ」、「希望はどこから生まれている?」「薄い給料袋の中から……」

*2:より正確に言えば、「子どものままで大人になりたい」「子どものままで社会に出たい」となるだろう。

*3:海外の事情は知らないので言及しない。

*4:子どもだから子どもに感情移入しやすいという理由だけだったら、別に大人を相手に戦うというプロットにする必要はないし、戦う相手もまた子どもであってもいいはずである。

*5:だから、大人にとって重要なのは自らの悪を悪と認めた上で、どの悪を拒否し、どの悪を受け入れるかということなのだが、それは大きすぎる問題なのでここでは語らない。

*6:もう少し気の利いた評論になると、「視聴者(読者)の欲望(夢)はこれである」と分析する

8、結論

ゲーム脳」などと言っているうちに、現実の世界がゲーム空間化しつつある。世界がアーキテクチャによって自閉しつつある。その先に待ち受けるのは『マトリックス』のような世界である。人間がアーキテクチャに完全に依存し、支配され、その一部となっているような世界である(それはある意味で快適な世界である)。
 現実が一つになりつつある。アーキテクチャ=大きな非物語一つに。「リセットできない現実」一つに。この社会はそこまで追い詰められているのかと思う。これまでは「リセットできない現実」に直面しないで済むように、いくつもの緩衝装置が存在していた。御伽噺、サンタクロース、イデオロギー、権威……。それらはある意味では極めて実際的な知恵によるものだと言えるだろう。
 そして、フィクションの機能は現実を複数化することにあったはずなのに、しばしば現実的でないと批判されるようになった。「セカイ系」という概念は内包も外延もはっきりしないのに、もっぱら非難の対象とされる。非難のために生み出された概念ではないかとすら思う。ハーレムものなどと同じで、現実的でないのが許せないらしい。無視すらできないらしい。随分余裕の無い世界になったものだと思う。
「現実」(の一つさ)を強調すればするほど、現実は味気ない、魅力に乏しいものになってしまっているように思う。まるで不幸であればあるほど、絶望すればするほど、現実的であると言わんばかりである。前述したように、現実とは不幸の源として初めて意識化されるので、その主張は基本的には正しい。しかし、それでは最も不幸な者こそが最も現実を生きる者であるということになるだろう。それではあまりに身も蓋もない。
「現実(的)」という言葉を用いて他人を批判しようとする人は結局、ポストモダン化によって大きな物語(「真理」)を絶対的な基準として召喚することが困難になってきたために、大きな非物語である「現実」を絶対的な基準として召喚しているにすぎないのではないだろうか*1。しかも、その「現実」なるものは、恣意的であり、論者によってその内容は異なる。現実というのは「存在する(した)全てのもの」であるはずなのに、彼らが「現実」と呼ぶものは、存在する(した)ものの一部に過ぎない。例えば、フィクションもまた現実に(フィクションとして)存在するという意味では現実であるはずなのである。だから、フィクションという現実に存在するものに対して「現実的でない」と批判するのは奇妙なことのはずなのである*2。そういった奇妙さを認識した上で批判している人がどれだけいるのだろうか? ともあれ、現実というものは非常に貧しい(意味に乏しい)ものであり、特定の作品や表現や生き方を批判する役割を現実そのものに期待するのは無理がある。
 にもかかわらずそういった批判をする人たちの心情をあえて忖度するなら、その根底には、「私は現実に立ち向かって苦労している。だから、お前たちも苦労しろ」という、他人が現実に揉まれるという仕方以外で幸福になることを許せないルサンチマンがあるように思われる。いじめやしごきなどの悪習が連綿と引き継がれる(他人からいじめられた者が他人をいじめ、先輩からしごかれた者が後輩をしごく)のと同様に。
「私は現に幸福である。だから、君たちも幸福になってほしい」という形の批判もあるとは思うが、あまりにも少ないように思う。注意してほしいのは、このように考える人は、「現実」(リアル、リアリティ)などという言葉を持ち出してこないだろうということである。


 私は別に「子どものままでい続けろ」と言いたいわけではない。「大人と子どもとの戦いでは子どもを支援せよ」と言うつもりもない。
 私だって子どもが好きなわけではない。むしろ、苦手だ(そのことは私自身が大人であるということを意味しはしないが)。
 それに、子どもであることも大人であることも同様に生きづらい(その生きづらさの内容は異なるだろうが)。
 しかし、だからこそ、子どもであり続けることも選択の一つとして提示することがフェアなのではないか。
 そして、その生きづらさが社会的に構築されたものであり、社会的に解消可能であるならば、そうするのが倫理的というものではないか。


 現時点で結論として言えることはほとんどないが、もしあるとすれば以下のようなことだけである。
1、子どもは、ゲーム参加の前に一瞬立ち止まること。
2、大人は、子どもたちにせめて複数のゲームを用意すること。
3、批評は、コードそのものを明らかにすること(解読すること)。
 1については、「契約書にサインする前に契約内容をよく確認しましょう」という注意と同レベルである。しかし、私の時代は、その程度のことでも学校では教えてくれなかった。現在は社会人が学校に教えに来る授業もあるらしいが、だったら非社会人も招聘してはどうか。
 2については、次の文章が参考になる。


《与えられた選択肢の中からは何も選びたくない・選べないのに何かを選ぶ以外ない、「ひとつの可能性」を自ら選ぶのではなく受動的に選ばされていく、しかもその選んだものさえもが一山いくらで取替え可能なものでしかなく、他人の人生を本当には決して左右し得ない、という意味での《メタリアル》の感覚》(ゲーム的メタリアルと労働のメタリアル - sugitasyunsukeの日記


 我々はゲームへの参加を主体的に選ぶことなく受動的に選ばされ、選択したという自覚もないままに、どこかで選択を行ったことにされてしまう(した覚えの無い、国家へ全権利を委譲するという「契約」をしたことにされる社会契約論と同じ)。だから、そのような選択が存在するということを可視化すること。
 しかし、それは、私の選択にあまりに多くのものを負わせることになるかもしれない。そして、その負担を忌避したいと思う子どももいるかもしれない。
 3については、『マトリックス』のネオは、世界を成立させているコードを見ることができるようになることで、その世界から脱出するが、そのための手助けをするのが批評の役割ではないだろうか。


 議論がかなり散漫になりましたが、ツッコミがあれば、もう少し焦点を絞って書き直すつもりはあります。

*1:現代の日本において尊敬されるのは、博識な人ではなく現実を知っている人である。

*2:たとえその批判がコンテンツ(内容)のみに関わるものであるとしても、非現実的であるはずのコンテンツがどのように現実に影響を及ぼすかという問題は残る。現実に影響を及ぼす限りにおいてそれは現実的であるのか、それとも非現実的であるものは現実には一切影響を及ぼさないとすれば、非現実的であることが真面目に批判されねばならない理由はどこにあるのだろうか?