パオロ・マッツァリーノ『つっこみ力』筑摩書房(ちくま新書)、2007年。

つっこみ力 (ちくま新書 645)

つっこみ力 (ちくま新書 645)

http://d.hatena.ne.jp/KTA/20070327/p1の続きです

「つっこみ力」とは何か?
 著者によれば《つっこみ力は、愛と勇気とお笑い、この三つの柱で構成されているのだ》(p.31)。
 帯に「つっこみ力」の効用が記してあるのですが、それによると以下の通り。
・カドを立てずに議論したい日本人にぴったりです。
・コツをつかめば、凡人や秀才にも習得できます。(ボケは奇才・異才のワザです)
・学者や専門家の「脅し」が怖くなくなります。
・わかりやすさを大事にします。
・世の中を「正しく」ではなく「おもしろく」します。


 さて、著者の主張を僕なりにまとめると、「原理主義ではなく結果主義」という風にまとめられるかと思います。
 すなわち、主張や議論を原理主義的にではなく、結果主義的に評価するということです。
 ここで結果主義というのは、結果としてもたらされる善悪によって行為を評価するという意味であると同時に、社会というのは現に結果の良し悪しでしか評価してくれないという事実認識でもあります。
「つっこみ力」によって達成されるべき善とは、「最大多数の最大幸福」です。本書では、その「幸福」は「笑い」として一元化されています。ツッコミは、場を盛り上げることを第一に考える。突っ込んだ結果として、たくさんの人が幸福になるならそれはよいツッコミだし、たとえそのツッコミがどんなに正しかろうが、不幸になるなら悪いツッコミです。
「快楽計算」(笑い計算?)の際に重要なのは、自分の幸福を特権化せずに、他の人々の幸福と同じだけの重みしか持たない一要素とすることです。
《つっこみ力は、場を盛り上げようというサービス精神と、自己犠牲の精神が息づいている点で、批判や批評、メディアリテラシーとは一線を画します。》(p.63)
ツッコミはあくまで「ボケの盛り立て役」(p.103)なわけです。
 全体の幸福のためには、一時的に自分が損をするとしても気にしない。では、ここで言う「全体」とは具体的にはどの程度の範囲のことを言うのでしょうか? 考慮に入れる範囲(「場」)はその時々に応じて異なるでしょう。国会や全国放送のテレビ番組などで天下国家のことを論じる場合は、日本あるいは世界中の人々のことを考慮しなければならないし、クローズドな場所では、数人しか考慮しないでいい場合もあるでしょう。


 さて、少し批判というか不満も述べておきましょう。
 著者はディベートを批判していますが(p.72)、ディベートの肝は、「お互いが公平な立場で、同じ土俵に立って議論する」ことにではなく、個人的には同意しかねる主張であっても、それを擁護するために議論を組み立てねばならないということにあるのではないかと思います。
 実社会では、自分が同意できる主張しか擁護しなくていいということはないし、自分が買いたくないと思う商品でも売るためにプレゼンをしなければいけないことだってあります。そういった際に、自分の感情を脇に置いて、説得的な議論を構築するのに、ディベートの経験は役に立つと思います。
 あるいは、何らかの問題を自分で考える際も、自分と反対の立場の人間はどのように考えるかを考慮するときに、ディベートで培った経験は役に立つでしょう。人は自分と対立する意見を過小評価する傾向がありますが、ディベートの経験を積んでいれば、客観的にアンチテーゼの論拠をも挙げることができる。あるいは、それによって自分の意見の間違いに気付くということだってありうるでしょう。
 最大限に買いかぶれば、ディベートは、社会問題に正解がないということ、同じ問題について(それなりの根拠を有した)多様な意見がありうるということを認識するのに役立ちます。


 なぜ経済学の「インセンティブ」の批判を最初に持ってきたのか、唐突過ぎて分かりません。一応、理由らしきものは書いていますが(p.75)、消極的な理由だけです(社会学者が経済学を批判していけない理由はない)。
 どうも「インセンティブ」批判が浮いている気がします。他は身近なもの、普通に生活していて見かけることのあるものを話柄に選んでいるのに、これだけ異質なように思えるのです。経済学という、ほとんどの人が学校で学んだことのない学問の、(著者曰く、1割程度しか知っている人がいない)一概念を批判されても、ピンと来ません。「はぁ、そうなんですか」というぐらいの感想しか浮かびませんでした(経済学に詳しい人から見ると、的外れな批判らしいらしいのですが、それも含めてあまり興味が抱けませんでした)。


 それから、ギャグがサムい。というか、笑えない箇所が散見されました。著者の他の著作を読んだときはそんな風にはあまり感じなかったので、意識しすぎが原因なのかもしれません。読者の僕の側も、著者の側も。
 特に、時折差し挟まれる対話形式の文章にサムい表現が目立ちます。とりわけ、著者の側で笑い声を入れられると、こっちは逆に冷めてしまいます。
 それに偉そうな言葉遣いが鼻につきます。まるでお笑いの大御所であるかのように、学者のお笑いセンスを査定する箇所とか(p.49)。自分のおもしろさに疑いを持っていない箇所とか(《おもしろい批判というのがどういうものかを、お見せしましょう。》(pp.75-76))。
 おもしろさを評価の基準とするということは、ある意味で他人に自分の評価を委ねるということであるはずなのに、どうしてそんなに自信たっぷりな物言いができるのか、よく分かりません。専門用語で言うと、「ハードル上げすぎ」です(笑)。
 それはともかく、そんなに自信があるのなら、どうすればつっこみ力が上がるのかを是非知りたいのですが、本書はその疑問に対して答えてはくれません。ただ努力し鍛えれば確実にアップすると言うだけです。


 そもそも「おもしろい」とはどういうことなのでしょうか? 著者自身が言うように、何をおもしろいと感じるかは人それぞれです。だから、難解な言葉遣いをおもしろがる人もいるでしょう(僕自身を含めて)。その場合は、おもしろければ難解でもよいということになるのでしょうか? 一部の人にとってはおもしろいかもしれないが、大多数の人にとってはおもしろくないのだと反論するのなら、おもしろいかどうかは多数決(人気投票)で決まるのでしょうか?
 また、「笑い」にも色々あります。
 著者の「統計漫談」を読んで感じる面白さと、お笑い芸人のギャグを見て感じる面白さとでは質が違う気がします。
 それに、中には皆で弱い者をでいじめておもしろがって笑うような抑圧的な笑い(嘲笑、等)もあります。そんな笑いも笑いとして等価なのでしょうか?
 しかし、おもしろさや笑いの相対性を批判することは生産的ではない(「つっこみ力」がない)でしょう。
 おそらく著者は、相対的であって絶対的でない点、蓋然的であって必然的でない点、特殊であって普遍的でない点に、「笑い」の効用を認めているのでしょう。しかし、それでは基礎付けができないから評価基準としては不適当であると考えたくなります。
 しかし、おそらく著者の考えでは、絶対的な基礎付けなどないままに現に成立している場がある。それは例えば、お笑い界であり、民主主義社会であります。
 学者は原理的に考えるのが仕事なので原理主義になりがちです。絶対的な正しさ(真理)を基準にして全ての物事を判断しがちです。逆に言えば、学者は絶対的な基準のない宙吊り状態に耐えられないから、その状態から逃れるために学問をやっているという面があるでしょう。
 しかし、そのことを一概に否定することはできません。例えば、数学においてその正しさを多数決や人気投票で決定するというわけにはいきません。
 それにいわゆる「数の暴力」の問題もあります。弱い者をいじめて笑う場合、権威へのツッコミの際の利点がそのまま欠点となり、笑われている者からの直接的な反抗を封じる分、笑いを利用したいじめはたちが悪い(「りはめより100倍恐ろしい」)。傍から見る分には一緒に遊んでいる、いじめられている者も喜んでいるように、仲間同士のじゃれあいであるかのように見えてしまうからです。
 それに、メディアリテラシーや批判も単なる否定ではありません。二項対立的な図式を作るため、批判の一側面が過度に一般化されているように思います。よい批判には、著者の言うつっこみ的な要素が含まれています。


 おそらく、どちらか一方が正しくて、もう一方が間違っているということではなく、必要に応じて両者を使い分ける必要があるのでしょう。批判力・論理力とつっこみ力を。原理主義と結果主義を。
 そして、両者を適切に使い分けるためには、場の空気を読める能力(広い意味でのコミュニケーション能力)が必要になります。だから、それを向上させるにはどうすればよいのかが重要です。その能力なくしては、つっこみ力も批判力も絵に描いた餅に過ぎません。批判力が必要なところでつっこみ力を発揮してもすべるだけですし、つっこみ力が必要なところで批判力を発揮しても反感を買うだけです。
 より正確に言えば、批判力にもつっこみ力が、つっこみ力にも批判力が幾分かは必要なのでしょう。


 学問的立場から本書を「批判」することは簡単でしょう。しかし、学問的立場を離れて見れば、結構首肯できる部分も多いように思います。もちろん、おもしろけりゃいいってもんでもありませんが、最近おもしろくさえない批判が目に付くように思います。ネット上の批評に多いのですが、アマゾンのレビューやブログやコメントで否定ばかりしているのを読むと、批評の対象に別に何の思い入れがなくても、嫌な気分になります。肯定的評価なら、たとえ間違いがあっても、そんな気分にはならないのですが。
 しかし、不思議なのは、そんなに否定的な評価しかできないのなら、なぜそんなものをわざわざ労力をかけて書いて公開するのかということです。もし、「正しさ」を言い訳にしているのなら(社会正義の実現とか)、そんな正しさは要らないと思います。そのまま放置しておくと社会に大きな悪影響があるというならともかく、その場合でも書き方に工夫はして欲しいです。そういった文章は、著者の言葉を借りれば、「愛」と「お笑い」が足りません。それぐらいのサービス精神、エンターテインメント精神すら持てないなら、わざわざ公表しないでもらいたい。必ずしも笑いである必要はありませんが、何らかの付加価値が文章には欲しい。正直、負の感情だけで凝り固まったような文章は読みたくないので、何らか積極的な感情を生み出すように努めてほしい(実際にはスベっているとしても)。つまり、創造力がないのなら、せめてつっこみ力ぐらいは養ってもらいたい。そういう意味では、「シロウト」の基本的な心構えとして「つっこみ力」というのは悪くないんじゃないでしょうか?