『悪の法則』

 評価:★★☆

※ネタバレあり。

♪ジタバタするなよ 世紀末が来るぜ

 というわけで、シブがき隊「NAI NAI 16」がテーマ曲の『悪の法則』をBDで観賞した(違う)。
 詳しいことは公式サイトやウィキペディアを見ていただきたいが、残酷シーンの残酷さと、キャメロン・ディアスの魔女化が著しい(役どころ的にも、顔的にも)という以外は、いまいちピンとこなかったので個人的な評価は高くないが、宇多丸氏によると世界の実相(この世界のあり方)を描いている作品とのことなので、それを前提とした上で解釈してみる。

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『アナと雪の女王』

 評価:★★★★
 映画館で字幕版を観賞。平日の朝一番に見に行ったせいか、サービスデーだったにもかかわらず、観客は30人ほどだった。時期は3月下旬。

 まず、断っておかねばならないのは、本作が良くも悪くもミュージカル映画であるということである。本作は最高のミュージカル映画だが、必ずしも最高の映画ではない。
 そして、本作の教訓は「愛の本質は愛されることにではなく、愛することにある」である。

 この作品を初めて知ったのは、他の映画を映画館に観に行った時に流れた予告編によってだった。エルサ(この名前も後で知ったのだが)が、お仕着せを一つずつ脱ぎ捨てていき、髪を振り解き、自由を謳歌し、その喜びを高らかに歌い上げ、使うことを禁じられていた力を思うまま解放して、自分だけの力で自分の城を作り上げる。その時点ではストーリーを全然知らなかったにもかかわらず(これまでの記述には後で知った情報を足してある)、その姿に感動して涙ぐんでしまった。
 1曲まるごと歌い切る、予告編にしては長いものだったので、これは本編には使われていない、予告編のためだけに作られた映像かと思っていたら、本編にもまるまる使われていたので、「これ、さんざん見た」感があった。その意味では『かぐや姫の物語』の予告編に似ている。
 しかも、結構序盤の方で使われ、実際はエルサは全然解放されていなかった。最後のドヤ顔は一体何だったんだ?(笑) ある種悲劇的な場面であるという点も『かぐや姫の物語』と共通している。

※ネタバレあり。

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『きっと、うまくいく』(少しネタバレあり)

 本国では2009年に公開され、インド映画歴代興行収入1位を記録したというインド映画。
 普段、インド映画は見ないのだが(見たことがあるのは、『ムトゥ 踊るマハラジャ』『ロボット』くらいだと思う)、かなり評判が良かったので観に行くことにした。
 作中のノリについていけるかどうかが、本作を評価するかどうかの分かれ目だろう。観賞途中でそのことに気付いてからはできるだけノろうと努力したが、いまいちノりきれなかった。
 ギャグが一昔前のノリであまり笑えなかった。日本の昔のコメディ番組みたいなベタな笑いがほとんどで*1、ベタな効果音がそれに拍車を掛けていた。だから、あらゆるオチがほぼ予想通りで、それもあってあまり笑えなかった(ランチョーの正体も、彼が替え玉であったと判明した時点で、多分そうだろうなと分かった)。特に、チャトゥルがファルハーンらに書き換えられた原稿のせいで、ひどい演説をする場面は、さすがに丸暗記しただけとはいえチャトゥルも気づくだろうと思ってしまったのと、言葉遊びが主なので、作中の聴衆たちが大笑いすればするほどこちらは醒めてしまった。しかも、それがかなり長く続いてくどかった。そんな中、一番笑ったのは、唐突な“interval”の挿入シーンだった*2
 ミュージカルシーンはさすが本場だけあってノリが良くて気分は高揚させられたが、その間、物語の進行は完全にストップするので、そのシーンが結構長いのには辟易した。それでも普通のインド映画に比べれば短いらしいのだが。

 理由までは分からないが、上映中に2人ほど退場していた。そして、二度と戻って来なかった。

 現在から過去を回想するという構成なので、緊迫感がない。例えば、ある登場人物が死にそうになっても、助かることが分かっているのでハラハラしない。また例えば、冒頭で登場人物たちがある程度の社会的地位にあることが描写されるので、面接の結果に一喜一憂できない。

 ただし、オチが読めるというのは、それだけ伏線がしっかり張ってあり、構成がしっかりしているということで、他愛のないエピソードだと思っていたものが、後になって伏線であったと気付かされるということがしばしばあり、そこには感心させられた。

 説教臭い。高度経済成長期の社会が陥りがちな能力主義、点数主義、競争主義、等に対する批判。インドでは目新しいかもしれないが、日本で暮らす僕はどこかで聞いたことがあるような説教でしかない。
 社会的成功そのものを目的とするのではなく、自らの成長をこそ目的とせよ(さすれば、成功はそれに付いてくる)。競争に勝つこと=幸せ、ではない。好きなことを仕事にせよ。親たちからのプレッシャーが子供を苦しめている。といった「そんなことは分かっているんだがな……」と思うような説教ばかりである。それは他方で普遍的であるということでもあるのだが、それを聞かされることの退屈さは如何ともし難い。

 作中で描かれているのは現在のインド社会の縮図であり、ランチョ−は現代インド社会が陥っている問題に対する処方箋なのであろう。
 すなわち、本作は寓話、おとぎ話なのであって、全てがあまりにうまく行き過ぎるのも、そう考えれば受け入れやすくなる。

 本作は作中で3人も自殺を図る人物が出てくる自殺映画でもあるのだが、インドでは若者の自殺率が非常に高いというのは本作を見て初めて知った。しかしながら、そのインドよりも日本の方が自殺率が高いという事実には暗澹とせざるを得ない。

・国の自殺率順リスト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%87%AA%E6%AE%BA%E7%8E%87%E9%A0%86%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

 ところで、本作の原題“3 Idiots”というのを見て思ったのが、「三馬鹿」という言い方は外国にもあるのかということである。
「三馬鹿トリオ」という言葉もあるが、馬鹿はなぜか三人一組でやって来る。
 もしかして、「三馬鹿」というのは外国由来の概念なのだろうかと思って、“3 idiots”や“three idiots”で検索しても、この映画のことしか出てこない。そこで、「三馬鹿トリオ」で検索すると下のサイト(ウィキペディア)がヒットした。

・三ばか大将 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%81%B0%E3%81%8B%E5%A4%A7%E5%B0%86

『三ばか大将(The Three Stooges)』は、アメリカでは1930年代より短編映画の人気者で、テレビ時代が始まった1949年にはかつての短編映画をテレビ用に編集し放送、あまりの人気に加えテレビ草創期のソフト不足もあり、おびただしい回数再放送されてアメリカ人が誰でも知っているコメディーの大スターとして認識される様になった。
日本でも1963年から日本テレビで放送され(1963年6月 - 1964年11月、日曜19:30 - 20:00(JST))、スポンサーの森永製菓がイラストを今で言うマスコットキャラクター化するほどの人気を博していた。更に1966年9月から同年12月までNET(現:テレビ朝日)でも、『トリオ・ザ・3バカ』というタイトルで放送された(金曜19:30 - 20:00[JST])。

 原語は“idiots”ではなく“stooges”だが、邦題の『トリオ・ザ・3バカ』は、「三馬鹿トリオ」という(重複)表現とほぼ同じであり、これが起源と考えても良いように思う。もちろん、確証はないので覆される可能性も十分にあるが。
 例えば、「三バカラス」、いや「三羽烏」はどうか? 三羽烏から最後の「らす」の語を引けば、「三馬鹿」となる。
三羽烏」という表現は、湯泉神社の縁起が由来という説をネットで見つけたが、もしそれが本当だとしたら、かなり古くからあった表現であるだろう。
 結局のところ、原題の“3 Idiots”の由来は分からなかった。インドにある言葉を英訳しただけなのか、英語に元々ある表現なのか。慣用句ではなくて、単に「馬鹿が3人いる」という意味なのか。

 ところで、観賞中、ピアがベヨネッタに、ランチョーがトム・ハンクスに見えてしょうがなかった。

*1:シムラという名前も出てくるしw

*2:しかも、休憩時間があるわけでもないしw

余韻という要因

・映画本編終了直後に「風立ちぬ」予告を4分間上映 「余韻泥棒」など批判相次ぐ - ねとらぼ
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1306/11/news124.html

言の葉の庭』はTOHOシネマズ系列の映画館で観賞したのだが、本編上映終了後、約4分ほど『風立ちぬ』の予告編が流れた。僕が観賞した回では、それが終わるまで誰も席を立たなかった。
 これがかなり評判が悪かったらしく、今はもう中止されているらしい(後日、同じ映画館に別の映画を観に行ったら、本編上映直前に流されていた。内容は全く同じだった)。それがどうもよく分からない。というのも、僕は全然怒りを感じなかったので。
 不快感を感じる人がいるのはまだ分かる。だが、怒るほどのことだろうか?
 本編開始前に、上映後に予告編が流れることをわざわざ予告してくれるのだから、見たくないなら席を立てばよい。
「余韻に浸れない」?
 そんなに余韻を味わいたいのだろうか? 「余韻」って言いたいだけちゃうん?
 そんなに余韻を味わいたいなら、上映終了後、すぐに照明をつけることや、席の総入れ替え制も非難しろと思う。だが、あまりそんな声は聞かない。
 それからなんで本編上映後に予告編を流すことは認めないのに、上映前に予告編を流すことについては何も言わないのか?
 上映後の予告編が余韻をぶち壊すなら、上映前の予告編だって映画前の心の準備というか心構えを阻害する。予告編の映画が気になって、あるいは予告編と本編を比較してしまって、本編に集中できない、ということもあり得るだろう。
 そもそも予告編の上映も上映時間に含まれているのはどういうわけなのだろうか? 予告編がどれくらいあるかわからないので、予告編を見たくなくても上映時間には席についているしかない。上映時間は予告編抜きの時間にすべきではないか? あるいは、予告編も上映時間に繰り込まれているのなら、地上波TVで民放がCMのおかげで無料で見られるように、料金を無料あるいは割引すべきではないのか? 僕らは映画館に予告編を見に行っているわけではないのだから(もちろん、予告編も見たいという人はいるだろうが、そういう人は、上映後に流れたって非難しないだろう)。しかも、上映前には映画の予告編だけでなく、普通のCM(結婚式場や指輪など)も流れるのでなおさらそうすべきではないか?

 ところで、上の記事でリンクされているTogetterを見てみると、『風立ちぬ』予告編への非難というよりは、褒め言葉のように見えるw

『言の葉の庭』(ネタバレあり)

 新海誠監督の2年ぶりの最新作、アニメーション映画『言の葉の庭』を映画館で観賞した。
 これまでの新海誠監督映画は一応全て(5本)DVDで見ている。申し訳ないが、新海監督作品はどれもあまり好きになれなかったのだが(あくまで自分の好みではないというだけであって、その技術的達成についてまで否定するつもりはないのであしからず)、ネットでの評判を見て、上映時間と料金も手頃だったので、初めて映画館で見てみようという気になった。
 平日昼間の上映を観に行ったが、客は20人ぐらいであまり多くはなかった。若い人が多かったが、初老の夫婦もいた。映画の1シーンが印刷されたポストカードが貰えた。
 最初に上映されたのは、同時上映の「だれかのまなざし」。数分程度の小品。
 時代設定は近未来らしいが、そのことはドラマとはほぼ関係しない。舞台が現代であっても問題なく成立する話である。
 タイトルの「だれかのまなざし」が誰のまなざしなのかが最後に判明するという仕掛けが感動をもたらす。
 確か最初期の作品(『彼女と彼女の猫 -Their standing points-』)も猫が主人公だったはずで、犬監督と猫監督という私が勝手に考えた分類に当てはめるなら、新海監督はやはり猫監督であろう。その意味では宮崎駿監督の系列である(犬監督の系列の代表は押井守氏)。『星を追う子ども』!
 温かな気持ちになる小品なのだが、最後の宣伝が興を削ぐ。「結局、宣伝かよ」と醒めてしまった。
 元々、野村不動産のマンションブランド「PROUD」とのコラボレーションで制作された作品なので、改めて映画館で上映するに当っても、宣伝を取り除くことができなかったのだろう。
 そういう作品だと割り切れればよいのだろうが、私がセンシティブ過ぎるのだろうか?

 で、「言の葉の庭」。
 ビル街の中にある森。その森(日本庭園≒新宿御苑)の中にある小さな四阿(休憩所)。描き込みの細かさもあって、その対比が鮮やか。雨の中、その休憩所は、二重の意味で(都会の喧騒(満員電車)からの避難所という意味も加えれば、三重の意味で)避難所として機能している。これはそこで出会った二人の物語である。
 いきなり批判めいたことを言って申し訳ないが、新海監督はストーリーメーカーとしては大したことがないという、これまでの印象が上書きされた。全ての展開に既視感があるし、意外なことは何一つ起こらない。以下、ストーリーに関する不満点を少し述べさせてもらう。
 最も違和感を感じた展開は、タカオがユキノが辞職する原因を作った先輩女子の元へ行くシーンである。その行動には自らの怒りを個人的に少しばかり発散するという以上の意味はない。その結果は、タカオのユキノへの想いを見透かされ汚された上に殴られたというものであった。下手をすると、ユキノへも迷惑がかかったかもしれない。誰も得しない行動である。タカオは一体どういう結果を望んで、元凶に会いに行ったのだろうか?
 もちろん、メタな視点から見れば、タカオのユキノへの想いの強さを分かりやすく示すシーン、観客のタカオへの感情移入をより強く促すシーンなのだろうが、私はタカオの行為の愚かさの方が気になって感情移入できなかった。
 それから、ユキノがタカオの告白を受け入れない理由が弱すぎる。ユキノはもはやタカオの学校の教師ではないわけで、一昔前ならともかく、現代では歳の差も含めて相思相愛なのに拒絶するには説得力がない(教え子と結婚した教師だって、現実にはいっぱい存在しているし)。拒否しきれなかったからこそのクライマックスシーンなのであろうが、だったらさっきまでの逡巡は何だったんだという話である。拒否する理由が弱いので、単にテンプレに則った行為にしか見えない(だからこそ、少し前に見た映画『悪の教典』のハスミンの行為には衝撃を受けた)
 ユキノが部屋を飛び出してすぐの所にタカオがいるのもどうかと思う。下手をすると、タカオが待ち構えていたようにも見える。おそらくは、すぐに帰る気になれなくて物思いに耽っていたのだろうが、足が滑ってこけるなどのベタな展開はあるものの、ユキノがタカオをあっさり発見しすぎて拍子抜けする。ここはもう少し引っ張っても良かったのではないか?
 総じて、二人はすぐ近くにいるのに、しなくても良い遠回りをしているだけのように思えてしまう。
 もう少し好意的に考えると、この二人は生きるのが不器用なのだろう。ユキノは不器用であるが故に退職まで追い込まれ、タカオは手先こそ多少器用なものの、高校生活には馴染めず、ユキノに会いたいと思っていても雨という理由がないと日本庭園に行けないという不器用さを併せ持っている。タカオが先輩の教室に行くのも、不器用さ故だと思えば辛うじて許容できる。
 それから、家族の問題。家族関係からは、タカオがどうしてそこまで悩み、鬱屈しているのかが分からない。普通にタカオの夢を応援してくれそうな家族のように見えるので。だから、タカオの孤独を説得力のあるものにするためには、家族のことを全然描かないか、もっと描いてタカオを追い詰めているものを明確にするかのどちらかにした方が良かったのではないかと思う。
 幼い頃の母親への誕生日プレゼントのエピソードは、それだけではタカオが靴職人を目指すようになった根拠としては弱すぎる。せめてもう一段階、靴職人という具体的な夢を抱くに至った過程を描いて欲しかった。
 タカオは母親へ強い愛情を抱いていたが、気の多い(男にだらしない)母親はタカオにさほどかまってくれず、満たされない母親への愛情を昇華するため、タカオはかつて母親が喜んでくれたという幸せな記憶をもたらした靴作りへと執着するようになる。そして、ある日出会った、母親に似た(ちょっとだらしない)年上の女性を愛するようになる。つまり、この物語はマザコン少年の話なのである。――というような裏設定があるというならかなり納得がいくのだが。
 もし万が一そういう話なのであれば、そういう描写がもっと欲しかった。その場合は、特に母親の足(素足)に関するエピソードは必須である。そこにおいて、タカオが靴職人を目指していること、ユキノの足を測定し彼女に惹かれることに必然性が生まれるからである。

 とはいえ、以上のようなストーリーに関する批判は的外れであろう。なぜなら、新海監督の本領は物語以外のところにあるからだ。彼は、既存の物語をベースにして細部(ディテール)を作り込んでいくことにこそ本領を発揮するタイプの監督であろう。風景(光や天候や人工物を含む)、小物、表情、仕草、演出、等々。細部を作り込み描写する作風は必然的にフェティシズムとの親和性が高い。タカオがユキノの足を撫で回しながらサイズを測定したり型を取ったりするシーンは、フェティシズムに溢れた、本作最高のラブシーンであった(本作におけるキスシーンだと言っても良いかもしれない)。

 雨が重要なモチーフとなっている今回の作品を観ることではっきりと分かったが、ウェットであるというのが、新海監督の作品を私が好きになれない理由なのだろう。新海作品はたとえ雨が降っていなくても全体的にウェットでジメジメしている。言い換えれば情緒的で、しかも悲しみ(哀しみ)を基調としている。端的に言えば、笑い(ユーモアを含む)がない。そこが好きになれない理由なのだと思う。もちろん、それは私の求めるものがないというだけの意味で*1、それが作風(作家性)なのだとしたら、それはそれでアリであろう。私自身の状況が変われば、心に響くようになる可能性はある。いや、既に「好きになれない」という形で心に響いているのかもしれない。
 まとめると、新海作品は、メロドラマでありポエムである。ここで言うポエムとはJ-POPの歌詞のようなものである(「J-POPにありがちな歌詞」などでググってみて欲しい)。J-POPの世界と新海作品の世界は近似している。新海作品においてJ-POPがベタに(ドラマの最高潮で、ドラマの内容とシンクロした歌詞の曲を、といった風に)使用されるのも、それ故であろう。

 ところで、ビールのつまみにチョコレートはアリだろう。ビールが苦いのだから、それに合うつまみは甘いものなのは当然だと思う。普通のことだと思ったので、タカオが驚くことにこそ驚いたのだが、一般的なことではないのだろうか。

*1:コメディ以外は認めないという意味ではなく、たとえ悲劇であってもその中にカラッと乾いた明るさや余裕みたいなものが垣間見える作品が好きだという意味である。

付け八重歯と付け焼き刃って似てるよね

タモリ倶楽部』(2011/12/26)を見た。
 この回のテーマは「付け八重歯」。
 八重歯とは、「歯のわきに重なったように生える歯」だそうだが、だとすれば「八重」歯って盛りすぎだろう。八重どころか、せいぜい二重しかないし。だから、正しくは二重歯とすべきでは?
 しかし、八重にとどめ、十重二十重としなかったのは、名付け親のせめてもの良心だろうか。
 いずれにせよ、白髪三千丈よりは、大分ましだが。

 考えてみれば、八重歯に限らず、女性のチャームポイントとされているアヒル口、口元のほくろ、えくぼ、舌ペロ……、どれも口周辺の“ほころび”である。
 端整さが少し崩れているところに魅力を感じるのだろう(「少し」というのが重要)。
 もちろん、その魅力というのは微妙なバランスの上に成立しているものなので、それに全然魅力を感じない人も多いだろうし、そのバランスが少し崩れただけで台無しになることもある。

 以上をもう少し抽象的な言い方にすれば、秩序・規範からの逸脱に魅力を感じているのだと言える。
 だから、秩序や規範にうるさい海外では八重歯はむしろ忌避される。

・八重歯 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E6%AD%AF
>欧米諸国では、吸血鬼の牙を連想させることから古くから忌み嫌われてきた。

 八重歯が幼さを感じさせるのも、西洋で嫌われる理由の一つであろう。西洋は東洋、特に日本に比べて幼さに非寛容であるから。

 しかし、八重歯やアヒル口には幼さを感じ、口元のほくろにはセクシーさを感じるという違いがあるのは興味深い。
 もしかすると、幼さ(可愛さ)と性的(セクシー)であることは実はそれほど違わないのかもしれない(笑いと恐怖が紙一重であるように)。
 そうだとすると、性的でありかつ禁欲的であるという「萌え」の両義性も理解しやすくなる。ちなみに、萌えの両義性をよく表しているのが、『COMIC LO』のキャッチコピーである。
「YES!ロリータ NO!タッチ」
 これは図像的に表すと、『ルパン三世 カリオストロの城』でルパンがクラリスを抱きしめたいのをぐっとこらえて突き放す場面になる。

・付け八重歯アイドル「TYB48」オーディション開催 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw173247